【第3話 最後の忠告】
王都の西門が、背後でゆっくりと閉じていく。
重い音だった。
ごおん、と。
石と鉄が噛み合うような低い響きが、春の草原へ広がった。
その音を聞いた瞬間、マーガレットは思わず振り返った。
巨大な城壁。
白く高い塔。
門の上では王国旗が風に揺れている。
ついさっきまで、自分たちはあの中にいた。
卒業式のざわめきの中にいて、王城の廊下を歩いて、アレックスの部屋で荷物をまとめて、馬車に乗せられて、そして今、ここに立っている。
早すぎる。
すべてが早すぎる。
心がまったく追いついていない。
「……ほんとに、出てきちゃったんだ」
マーガレットがぽつりと言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
けれどアレックスは、ちゃんと聞いていた。
「うん」
彼は王都を振り返ったまま、穏やかに答える。
「出てきた」
「もうちょっとさ」
「うん?」
「こう、泣きながら出るとか、怒鳴りながら出るとか、もっと劇的な感じかと思ってた」
「マーガレットはさっきからだいぶ怒ってる」
「怒ってるよ! 怒ってるけど! なんか……足りない!」
「足りないのか」
「足りない!」
マーガレットは両手を握った。
「もっと怒っていいでしょ、こんなの! もっと悔しがっていいでしょ! アレックス、王子だったんだよ? 婚約者も、家も、立場も、今日一日で全部奪われたんだよ?」
声が少し震えた。
怒鳴っているのに、泣きそうだった。
「なのに、なんでそんな顔できるの」
アレックスは彼女を見る。
笑顔ではなかった。
でも暗くもなかった。
困ったような、優しいような、少し寂しいような顔だった。
「できてるように見える?」
「見える」
「そっか」
「そっかじゃない」
「じゃあ、見栄かな」
マーガレットが目を見開く。
「……見栄?」
「うん。今、崩れたら歩けなくなりそうだから」
風が吹いた。
王都の外の草が、ざあっと揺れる。
マーガレットは何も言えなくなった。
アレックスは強い。
優しい。
明るい。
誰に対しても笑える。
でも、傷つかないわけではない。
ただ、傷ついても周りを見てしまうだけだ。
自分が崩れたらマーガレットも崩れる。
レクスターも動きにくくなる。
だから立っている。
そんなことくらい、分かってしまった。
「……ばか」
マーガレットは小さく言った。
「うん」
「そこ認めないで」
「ごめん」
「謝らないで」
「難しいな」
「難しいの!」
彼女は乱暴に目元をこすった。
涙は出ていない。
まだ出さない。
泣くには早すぎる。
泣くなら、もっと安全な場所で、もっと腹いっぱい食べたあとがいい。
そう無理やり思う。
レクスターは少し離れたところで地図を広げていた。
感情に浸る二人を放置しているようで、実際には周囲を警戒しながら耳だけはこちらへ向けている。
「感情整理は歩きながらお願いします」
彼は顔を上げずに言った。
「王都から十分に距離を取るまでは安全とは言えません」
「レクスター、余韻って知ってる?」
「知っています。今は不要です」
「切り捨てが鋭すぎる!」
「追放直後の余韻に浸って刺客に殺されるのは、物語としては美しいかもしれませんが、現実としては愚かです」
「言い方!」
マーガレットが叫ぶと、アレックスが少し笑った。
「でも、レクスターの言う通りだ」
「アレックスまで!」
「まず離れよう。落ち込むのはそのあとでもできる」
「落ち込む予定入れるのやめて!」
「必要な感情処理です」
レクスターが淡々と補足する。
「抑え込みすぎると、後で判断を誤ります」
マーガレットは一瞬だけ黙った。
レクスターの言葉は冷たい。
でも、雑に捨てているわけではない。
彼は感情を軽んじているのではなく、感情に呑まれることを嫌っている。
そういう人間だ。
「……分かった」
マーガレットは大きく息を吸う。
「じゃあ歩こう。安全なところまで行って、そこで怒る」
「怒る予定は維持するんだな」
「する!」
アレックスが笑う。
「じゃあ、その時は聞くよ」
「全部聞いてもらうからね」
「うん」
「途中で寝たらハルバードで起こす」
「それは怖い」
「比喩です」
レクスターが言った。
マーガレットが胸を張る。
「分かんないよ?」
「分かってください」
三人は歩き始めた。
王都を背にして。
石畳の道はすぐに土の街道へ変わる。
両脇には若草が広がり、ところどころに低い花が咲いていた。
空は高い。
城の中で見上げる空より、ずっと広かった。
雲がゆっくり流れている。
風が草を撫でる。
鳥の声がする。
王都の喧騒は、少しずつ遠ざかっていく。
その静けさが、逆に心へ染み込んできた。
歩く。
一歩。
また一歩。
背負った荷物の重さが肩に食い込む。
腰の雷の刃が揺れる。
マーガレットの背には、大地のハルバードがある。
幅広の斧刃と槍穂を合わせた重武器。
普通の兵なら持ち歩くだけで疲れる代物を、彼女は当然のように背負っている。
レクスターは片手に地図、腰には水の本。
青い革表紙の魔導書は、歩くたびに金具がかすかに鳴った。
「……ねえ」
しばらく歩いたあと、マーガレットが口を開いた。
「今さらだけど、この三人で旅するのって初めてだよね」
「学園の遠征はあった」
アレックスが答える。
「あれは先生も護衛もいたじゃん。あと食事も準備されてたし」
「今回はありませんね」
レクスターが言う。
「食事は計画的に。水場の確認を怠らず、夜営地は視界と退路を優先。火は必要最低限。睡眠は交代制」
「急に現実!」
「現実です」
「旅ってもっとこう、楽しい感じじゃないの?」
「観光ならそうでしょう」
「これは?」
「追放後の逃避行です」
「言い方!」
マーガレットが頭を抱える。
「せめて放浪旅って言って!」
「では、追放後の危険を伴う放浪旅です」
「ちょっとだけ柔らかくなった!」
アレックスは笑いながら歩いた。
「でも、マーガレットの言う通り、せっかく外に出たんだ。楽しいことも探そう」
「そうそう! そういうの大事!」
「まずは安全確保です」
「レクスター!」
「楽しいことは、生きていれば探せます」
その言葉に、マーガレットは一瞬だけ黙った。
からかおうとして、やめる。
レクスターは冗談を言ったわけではない。
本当にそう思っている。
生きていれば探せる。
生きていなければ、何もできない。
その当たり前が、今日は妙に重かった。
「……うん」
マーガレットは頷いた。
「じゃあ、生きるために歩く」
「単純ですが正しい」
「褒めてる?」
「今回は褒めています」
「やった!」
「今回だけです」
「最後に余計!」
アレックスは二人の会話を聞きながら、草原の先へ目を向けていた。
道は緩やかに南西へ曲がっている。
王都から離れるにつれ、人通りは少なくなっていく。
たまに荷馬車が通った。
商人らしき男が三人をちらりと見たが、すぐに視線を逸らす。
旅人にしては装備が整っている。
貴族にしては馬も従者もない。
兵にしては旗もない。
目立つ。
自分たちは、思ったより目立つのだとアレックスは理解した。
「レクスター」
「はい」
「服装、変えた方がいいな」
「同意見です」
即答だった。
「アレックスはまだ王族らしさが残りすぎています。マーガレットは単純に目立ちます。私は知的すぎる」
「最後自分で言う?」
マーガレットが突っ込む。
「事実です」
「ほんと強いな、その自己評価!」
「君は明るすぎる」
アレックスが笑う。
「えっ、私?」
「うん。遠くからでも分かる」
「えー、褒めてる?」
「褒めてる」
「ならよし!」
「目立つことは欠点でもあります」
レクスターが切る。
「よしじゃなかった!」
「でも、その明るさに助けられてるよ」
アレックスが言う。
マーガレットは足を止めかけた。
「……急にそういうこと言うのやめて」
「急だった?」
「急だよ! 心臓に悪い!」
「そうか。気をつける」
「気をつけなくてもいいけど!」
「どちらですか」
レクスターが冷静に言う。
「感情の要求が矛盾しています」
「乙女心ってそういうものなの!」
「便利な言葉ですね」
「便利でいいの!」
三人は歩き続けた。
昼を少し過ぎた頃、王都の城壁はかなり遠くなっていた。
振り返っても、白い線のように見えるだけ。
マーガレットは何度も振り返り、そしてそのたびに前を向いた。
アレックスは一度だけ振り返った。
長くは見なかった。
見続けたら足が止まりそうだったから。
やがて街道脇に小さな祠が見えた。
旅人が道中の安全を祈るためのものだろう。
石は古く、表面は風雨で削れている。
だが供えられた花は新しかった。
誰かが今朝か昨日、ここで祈ったのだ。
「休憩しましょう」
レクスターが言う。
「賛成!」
マーガレットが即座に座り込む。
「足が! 足が文明の終わりを告げている!」
「大げさだな」
「アレックスは平気なの?」
「痛い」
「え、痛いの?」
「歩いてるからな」
「なんで普通に言うの!?」
「痛いと言っても足は軽くなりません」
レクスターが水筒を出しながら言った。
「ただし、申告は必要です。無理をして足を痛めれば移動不能になります」
「じゃあ私、足痛い!」
「知っています」
「えっ」
「歩幅が乱れています。次の休憩で靴擦れ確認」
「レクスター怖い。見すぎ」
「必要な観察です」
アレックスは祠の横へ腰を下ろした。
草の上に座る。
風が頬を撫でる。
王城の椅子とは違う。
硬く、少し湿っていて、でも不思議と悪くない。
マーガレットは荷物から固いパンを取り出し、しばらく眺めた。
「……これが旅の食事」
「そうだな」
「硬い」
「まだ食べてないだろ」
「見たら分かる」
「正しいですね」
レクスターが言う。
「それはかなり硬いです」
「夢を壊すなぁ」
マーガレットはパンを噛んだ。
すぐに顔をしかめる。
「硬っ!」
「だから言いました」
「言われても硬いものは硬い!」
アレックスもパンをかじる。
確かに硬い。
王城の焼きたての白パンとはまったく違う。
けれど、腹にはたまる。
「まあ、悪くない」
「アレックス、ほんと優しいよね。パンにまで優しい」
「パンを責めても柔らかくならないだろ」
「名言っぽいけど嫌!」
レクスターは干し肉を小さく切りながら言う。
「食事への過度な期待は避けましょう。現実との落差が精神を削ります」
「レクスターって食事楽しむ気ある?」
「あります」
「ほんとに?」
「効率よく栄養を摂取できる食事は好きです」
「違う! そういうことじゃない!」
アレックスは笑いながら水を飲んだ。
その笑いも、少しずつ自然になってきていた。
完全ではない。
胸の奥にはまだ痛みがある。
でも、マーガレットとレクスターがいる。
会話がある。
硬いパンを硬いと言える時間がある。
それだけで、少し歩ける。
休憩の途中、旅人の一団が街道を通った。
老人と、その息子夫婦らしき男女。
荷車には家財道具が積まれている。
馬ではなく、人が押していた。
アレックスは自然と立ち上がった。
車輪が石に引っかかっている。
若い男が懸命に押しているが、うまく進まない。
「手伝います」
アレックスが声をかけた。
旅人たちはぎょっとする。
見知らぬ青年に突然声をかけられたのだから当然だ。
だがアレックスは笑って荷車の後ろへ回る。
「せーので押しましょう」
「あ、ああ……」
「マーガレット」
「任せて!」
マーガレットが反対側へ回る。
「せーの!」
荷車が軽々と動いた。
いや、軽々どころではない。
マーガレットが少し力を入れすぎたのか、車輪が石を乗り越えた勢いで前へ跳ねる。
「うわっ!」
旅人の男が慌てて手綱を引く。
「あ、ごめん! ちょっと強かった!」
「ちょっとではありません」
レクスターが後ろから言う。
「荷車が一瞬、荷車らしからぬ速度でした」
「ごめんって!」
老人がぽかんとした顔でマーガレットを見る。
「嬢ちゃん、すごい力だな……」
「えへへ、よく言われる!」
「褒められているかは微妙です」
「褒めてるよね?」
老人は笑った。
緊張が少し緩む。
「助かったよ。王都を離れるところでね。荷が重くて困っていたんだ」
「王都を?」
アレックスが聞く。
老人の顔が少し曇った。
「ああ。税がきつくてな。息子の嫁の実家が南にあるから、しばらくそっちへ」
アレックスの笑みが、わずかに揺れた。
「そうですか」
「王都は華やかだが、暮らすには高くなりすぎた。偉い人たちには分からんだろうがね」
老人は苦笑した。
アレックスを王子とは知らない。
だからこそ、言葉はまっすぐだった。
「……そうですね」
アレックスは静かに答えた。
「分からない人も、多いと思います」
マーガレットがアレックスを見る。
レクスターも何も言わない。
老人たちは礼を言い、荷車を押して去っていった。
その背中が街道の先へ小さくなっていく。
しばらく、三人は黙っていた。
風が吹く。
草が揺れる。
祠に供えられた花が、かすかに震えた。
「……王都の中にいたら、見えなかったな」
アレックスが言う。
声は静かだった。
「たぶん、見ようとはしてた。でも、近くで見るのとは違う」
「アレックス」
マーガレットが呼ぶ。
「うん?」
「そういうの、背負いすぎないでね」
「背負うよ」
「即答しないで」
「でも、見たから」
アレックスは荷車が消えた道を見る。
「見たものは、なかったことにできない」
マーガレットは唇を結んだ。
レクスターが静かに言う。
「だからあなたは王都で邪魔だったのでしょうね」
「きついな」
「事実です」
「うん」
「ただし、欠点ではありません」
アレックスがレクスターを見る。
レクスターは地図を畳みながら言った。
「面倒な性質ではありますが」
「最後に落とすな」
「正確性は重要です」
マーガレットが笑った。
「でも、私はそういうアレックスが好きだよ」
言ってから、彼女は固まった。
アレックスも少し目を丸くする。
レクスターが眼鏡を押し上げた。
「今の発言は記録しておくべきでしょうか」
「するなぁぁぁ!」
マーガレットが真っ赤になる。
「違う! 違わないけど違う! 仲間として! 人として! そういう意味で!」
「誰も追及していません」
「顔が追及してる!」
「私は無表情です」
「無表情で追及するな!」
アレックスは笑った。
その笑い声に、マーガレットはさらに赤くなる。
「アレックスも笑わないで!」
「ごめん。嬉しかった」
「だからそういう返しが一番困る!」
少しだけ、空気が明るくなる。
それでも、レクスターの目は周囲を見ていた。
祠。
街道。
草むら。
丘の影。
鳥の飛び方。
風の流れ。
彼はふと、表情を変えた。
「……立ってください」
声が低かった。
アレックスは即座に反応した。
マーガレットも、赤かった顔を一瞬で引き締める。
「何?」
「後方に気配」
レクスターは地図をしまい、水の本へ手をかける。
「三人。いや、四人。距離を保って近づいています」
「旅人?」
マーガレットが聞く。
「足音が揃いすぎています」
アレックスが雷の刃へ手を置く。
「騎士か」
「騎士ほど重くはありません。軽装。訓練済み。隠す気はありますが、殺気の処理が甘い」
「刺客だな」
アレックスの声は穏やかだった。
けれど、空気が変わった。
春の草原。
古い祠。
硬いパンの残り。
さっきまでの会話。
その全部が遠ざかる。
マーガレットは背のハルバードをゆっくりと下ろした。
大地の力を宿す重武器。
柄が地面に触れた瞬間、土がかすかに震える。
「来るの早すぎない?」
「想定内です」
レクスターが本を開く。
ページの間から、水のような淡い光が浮かぶ。
「むしろ遅いくらいです」
「この状況で“遅い”って言えるのすごいよね」
「感心している場合ではありません」
アレックスは少し笑った。
「二人とも」
「うん」
「はい」
「最初の旅の戦いだ」
マーガレットがにやっと笑う。
「じゃあ派手にいく?」
「ほどほどに」
「えー」
「ここは街道です。地形破壊は最小限にしてください」
レクスターが言う。
「私への注意多くない?」
「多い理由があります」
「ぐう」
草むらの向こうから、人影が現れた。
旅人の外套。
粗末な荷物。
一見すれば、ただの通行人。
だが、歩き方が違う。
重心が低い。
視線が散っていない。
手の位置が、いつでも武器を抜ける場所にある。
四人。
中央の男が、笑った。
「王都から出て早々、ずいぶん楽しそうだな。元殿下」
マーガレットの目が細くなる。
「うわ、最悪。もう来た」
レクスターが冷たく言う。
「尾行の技術も声のかけ方も三流ですね」
男の笑みが歪む。
「言ってくれるな」
アレックスは一歩前へ出た。
表情は穏やか。
だが、その右手はすでに雷の刃の柄に触れている。
「最後の忠告だ」
彼は言った。
「引き返せ」
男たちが笑った。
嘲るように。
勝った気でいるように。
マーガレットがハルバードを肩に担ぐ。
「今ならまだ、地面に埋めるだけで済ませるよ?」
「それは穏便ではありません」
レクスターが言う。
「え、そう?」
「そうです」
アレックスは小さく息を吐く。
王都を出た。
荷を背負った。
外の空を見た。
老人の荷車を押した。
少しだけ笑った。
そして、もう刃が向けられる。
世界は優しくない。
でも、それでも歩くと決めた。
なら、ここで止まる理由はない。
雷が、鞘の中で小さく鳴った。
ぱち、と。
春の草原に、戦いの気配が満ちていく。
追放された三人の旅は、まだ始まったばかりだった。




