【第2話 王子失格】
王城の廊下は、いつもより長く感じた。
白い石壁。
磨かれた床。
窓の外に見える中庭。
壁に並ぶ歴代王族の肖像画。
幼い頃から何度も歩いた場所だ。
剣の稽古で泥だらけになって叱られた日も。
夜更けまで本を読んで、侍女に寝室へ追い立てられた日も。
王都の祭りを抜け出して、マーガレットと一緒に屋台の串焼きを食べた日も。
全部、この城のどこかに繋がっている。
けれど今、そのすべてが遠かった。
「……ほんと、最悪」
マーガレットが何度目か分からない言葉を吐き出した。
彼女はアレックスの少し後ろを歩いている。
足取りは荒い。
怒りがそのまま靴音になっていた。
「卒業式で婚約破棄。継承権剥奪。追放。しかもみんなの前で。王様、ほんと何考えてんの? あんなの処分じゃなくて見世物じゃん。絶対わざとじゃん。性格悪すぎじゃん」
「王様に向かって性格悪すぎは、なかなか強いな」
アレックスが笑う。
「笑うところじゃない!」
「ごめん」
「その謝り方も腹立つ! 優しい顔で謝るな!」
「難しいな」
「難しくない!」
マーガレットはそう言いながら、目元をこすった。
泣いているわけではない。
泣きそうなだけだ。
怒りすぎて、悔しすぎて、感情の出口が見つからない。
そういう顔だった。
レクスターは二人の少し後ろを歩きながら、冷静に廊下の先を見ていた。
「感情を爆発させたい気持ちは理解しますが、今は時間がありません」
「分かってるよ!」
「なら歩調を乱さないでください」
「乱れてない!」
「先ほどから右足の踏み込みが強すぎます。床が可哀想です」
「床に優しくする余裕ない!」
「でしょうね」
「納得しないで!」
アレックスはまた笑った。
その笑い声は、明るかった。
無理に明るくしているようにも見えた。
マーガレットはそれが分かるから、余計に黙れなくなる。
「……アレックス」
「うん?」
「ほんとに大丈夫?」
廊下の途中で、彼女はとうとう足を止めた。
アレックスも止まる。
レクスターも少し遅れて止まった。
広い廊下に、三人分の沈黙が落ちる。
遠くではまだ式典の名残の音が聞こえた。
拍手。
ざわめき。
人々の笑い声。
あちら側では、新しい王太子と新しい婚約者を祝っているのだろう。
こちら側では、追放された元第一王子が自室へ向かっている。
同じ城の中なのに、世界が分かれていた。
「大丈夫じゃないよ」
アレックスは素直に言った。
マーガレットが目を見開く。
レクスターもわずかに視線を動かした。
「え……」
「大丈夫なわけないだろ。婚約破棄されて、王子じゃなくなって、家から追い出されるんだぞ」
「そ、そうだけど……」
「でも、立ってる」
アレックスは笑った。
今度の笑みは、さっきより少しだけ弱かった。
「二人がいるから」
マーガレットは言葉を失った。
胸の奥がぎゅっと痛くなる。
怒りも、悔しさも、悲しさも、全部まとめて押し寄せてくる。
「……そういうの、ずるい」
「何が?」
「そういう時だけ、本音っぽいこと言うところ」
「本音だよ」
「もっとずるい」
マーガレットは唇を噛んだ。
泣いたら負けだと思った。
誰に負けるのかは分からない。
王か。
アーサーか。
セレスティアか。
それとも、さっきの大講堂で笑っていた連中か。
とにかく、今は泣きたくなかった。
レクスターが短く息を吐く。
「感動的なところ申し訳ありませんが、時間がありません」
「ほんと空気切るよね!」
「切らなければ沈みます」
レクスターは静かに言った。
「感情に滞在することは大切ですが、溺れるのは愚かです」
マーガレットが睨む。
だが言い返さなかった。
レクスターの言葉は冷たい。
けれど、間違ってはいない。
アレックスは頷く。
「行こう」
「……うん」
三人は再び歩き出した。
王城の西棟。
アレックスの私室は、その奥にあった。
大きすぎず、小さすぎず。
王族の部屋としては質素な方だとよく言われた。
本棚が多い。
机には地図や書類が積まれ、窓際には小さな鉢植えが置かれている。
壁には装飾剣が一本。
だが本当に使っていた武器は別にある。
旅用の革鞄。
実戦用の剣帯。
雷の魔力を流しやすい黒銀の片刃剣。
それらは部屋の隅に整えられていた。
部屋へ入った瞬間、マーガレットが立ち止まった。
「……ここも、最後なんだね」
ぽつりと落ちた言葉。
さっきまで怒っていた声が、急に小さくなる。
アレックスも部屋を見回した。
「そうだな」
「寂しくないの?」
「寂しいよ」
「即答するんだ」
「ここで嘘ついても仕方ないだろ」
アレックスは窓際へ歩く。
外には王都が広がっていた。
白い屋根。
石畳の通り。
市場の天幕。
遠くの鐘楼。
王都は今日も変わらず動いている。
第一王子が追放されても。
大講堂で誰かが笑っていても。
泣いている誰かがいても。
人々は朝食を食べ、店を開き、荷を運び、子どもは走る。
世界は止まらない。
それは少し寂しく、同時に救いでもあった。
「この景色、好きだったんだ」
アレックスが言う。
「うん」
「王都全部が好きだったわけじゃないけど」
「うん」
「下町のパン屋とか、祭りの灯りとか、雨上がりの市場とか、城壁の上から見る夕日とか」
マーガレットは黙って聞いていた。
「あと、マーガレットが屋台で串焼きを五本食べて、まだ食べられるって言った日とか」
「待って。今それ入れる?」
「いい思い出だろ」
「いい思い出だけど!」
マーガレットの声が少しだけ明るくなる。
「五本じゃなくて六本だし」
「増えたな」
「記憶違いはよくない」
「あなたの訂正もどうかと思いますが」
レクスターが冷静に言う。
「卒業式当日に追放された直後、串焼きの本数で争うのは知能の使い方としてかなり無駄です」
「レクスター、言い方!」
「ただ、少し安心しました」
二人が見る。
レクスターは部屋の中を確認しながら言った。
「会話が成立しているなら、まだ壊れていません」
マーガレットは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……ほんと、言い方は最悪なのにさ」
「はい」
「たまに優しいよね」
「誤解です」
「そういうことにしとく」
アレックスは机へ向かった。
引き出しを開ける。
中には、丁寧に折り畳まれた地図が何枚も入っていた。
王都周辺。
西街道。
南部農村地帯。
北方の山岳地。
港町。
王国の外縁部。
「地図は持っていく」
「当然ですね」
レクスターが頷く。
「外へ出るなら、王都近郊だけでは不十分です。旧街道の情報、村落位置、水場、宿場町の有無。最低限必要です」
「どれを持つ?」
「全部と言いたいところですが、重量が馬鹿です」
「切り捨てが早い」
「馬鹿は馬鹿です」
レクスターは机の上の地図を素早く確認し、四枚を選んだ。
「王都西南部。旧街道。南部村落。国境近郊。まずはこの四枚です」
「北は?」
「今すぐ向かうには危険です。王国軍の移動路が多い」
「東は?」
「王都の影響が強すぎます」
「南か西か」
「現実的には南西でしょう」
アレックスは頷く。
マーガレットは横から覗き込んでいたが、すぐ顔をしかめた。
「地図、細かい……」
「読めないのか」
「読めるよ! 読めるけど、地図って眠くならない?」
「なりません」
レクスターが即答する。
「地図で眠くなるのは、情報を線としてしか見ていないからです。本来、地図は人の暮らしの集積です。道は移動、川は水源、村は労働、森は資源、山は障害。そこを読めば――」
「ごめん、眠くなってきた」
「早すぎます」
アレックスが笑いながら地図を畳む。
「マーガレットは食料を見てくれ」
「任せて!」
「食べるなよ」
「食べないって!」
「味見も駄目だ」
「味見は必要じゃない?」
「必要ありません」
レクスターが切る。
「味見と称した消費です」
「信用がない!」
「過去の積み重ねです」
「ぐうの音も出ない!」
マーガレットはそう言いながらも、部屋の保存食を確認し始めた。
干し肉。
固いパン。
乾燥果実。
小さな塩袋。
水筒。
彼女は案外、手際が良かった。
考えるより先に動く性格だが、旅や戦闘に必要な最低限は身についている。
アレックスは剣帯を取り、腰へ巻いた。
黒銀の雷刃を手にする。
王家の装飾剣ではない。
彼自身が鍛錬で使い続けてきた実戦用の刃。
刀身に魔力を流せば、雷のような青白い光が走る。
まだ鞘からは抜かない。
それでも、手にしただけで落ち着いた。
「それ、持っていくんだね」
マーガレットが見る。
「当たり前だろ」
「うん。アレックスにはそれが一番似合う」
「そうか?」
「うん。王冠より似合う」
その言葉に、部屋が少しだけ静かになった。
マーガレットは慌てて口を押さえる。
「あ、ごめん。今の、変な意味じゃなくて」
「分かってる」
アレックスは笑う。
「たぶん俺も、王冠よりこっちの方が落ち着く」
「……そっか」
マーガレットは少し安心したように笑った。
レクスターは本棚の前で、冷静に本を選んでいた。
「実用書二冊と言いましたが、三冊までなら許容範囲でしょう」
「さっき二冊って言った」
「状況を再計算しました」
「便利な再計算だな」
「一冊目は薬草図鑑。二冊目は地理誌。三冊目は魔物分布録」
「魔術書は?」
「私が持っています」
そう言って、レクスターは自分の鞄から分厚い本を取り出した。
水色の革表紙。
銀の留め具。
表紙には複雑な波紋の紋様が刻まれている。
「それ、いつから持ってたの?」
マーガレットが目を丸くする。
「常に」
「常に!?」
「水術式の基礎媒体です」
「つまりレクスターの武器?」
「正確には、武器でもあり道具でもあり記録媒体でもあります」
「長い!」
「水の本って言えばいいだろ」
アレックスが言う。
「雑ですが、概ね正解です」
「概ねなんだ」
レクスターは本を開く。
ページが静かにめくれ、水のような淡い光が浮かんだ。
「水は流れ、受け、囲み、削り、凍り、癒やす。使い方次第では剣より便利です」
「言い方がレクスターっぽい」
マーガレットが感心する。
「つまり、すごい本!」
「その理解力は不安ですが、今は許容します」
「許容された!」
荷造りは少しずつ進んだ。
衣類。
地図。
保存食。
水筒。
本。
薬。
金貨の入った革袋。
そして、王族としての身分を示す紋章類。
アレックスはそれらを机の上に並べたまま、しばらく見つめていた。
王家の紋章が刻まれた短剣。
式典用の指輪。
身分証。
どれも、王子であることを示すものだ。
持っていけば、役に立つかもしれない。
だが同時に、追跡される目印にもなる。
そして何より、今の自分には重かった。
「……置いていくの?」
マーガレットが聞く。
「うん」
「全部?」
「全部」
「本当に?」
「うん」
アレックスは指輪を手に取った。
幼い頃、王位継承者として授けられたもの。
最初は大きすぎて、指から抜けそうになった。
父が笑っていた。
母が手を添えてくれた。
懐かしい記憶。
それを机の上へ戻す。
こつ、と小さな音が鳴った。
部屋の空気が静まる。
マーガレットは何も言わなかった。
レクスターも。
沈黙があった。
短くない沈黙。
その沈黙の中で、アレックスは王子だった自分を見送っていた。
完全に捨てたわけではない。
なかったことにしたわけでもない。
ただ、今は持っていかない。
そう決めた。
「軽くなった?」
マーガレットがそっと聞く。
アレックスは少し考えてから笑う。
「少しだけ」
「そっか」
「でも、ちょっと寂しい」
「……うん」
「寂しいって言えるなら十分です」
レクスターが言う。
「言えなくなったら危険です」
「医者みたいだな」
「精神状態の分析です」
「ほんと、そういうところあるよね」
マーガレットは苦笑した。
その時、扉が叩かれた。
三人の空気が変わる。
アレックスが扉を見る。
「入れ」
扉が開き、現れたのは侍従長だった。
白髪の老紳士。
長年王家に仕え、アレックスが幼い頃から身の回りを整えてくれた男。
いつも背筋が伸び、表情を崩さない。
だが今だけは、わずかに目元が硬かった。
「アレックス様」
殿下ではなかった。
その呼び方に、マーガレットの眉が跳ねる。
レクスターも無言になる。
アレックスだけが、穏やかに答えた。
「時間か」
「はい。王命により、一時間以内に王都外へ移送いたします」
「分かった」
「私物は必要最低限のみ。王家所有物の持ち出しは認められません」
「置いていく」
「……承知いたしました」
侍従長は机の上の紋章類を見た。
一瞬だけ、目が揺れる。
だがすぐに伏せた。
「移送用の馬車が西門に準備されております」
「歩きじゃないんだな」
「王家としての、最後の配慮とのことです」
「配慮……?」
マーガレットが低く言う。
「これが配慮?」
「マーガレット」
アレックスが制する。
侍従長は頭を下げた。
「申し訳ございません」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
王命を伝えることへの謝罪か。
止められなかったことへの謝罪か。
それとも、もっと長い時間を含んだものか。
アレックスは少しだけ首を振った。
「あなたが謝ることじゃない」
「……いいえ」
侍従長の声が微かに震えた。
「お守りできませんでした」
マーガレットが息を呑む。
レクスターも視線を下げた。
アレックスは侍従長の前へ歩いた。
「小さい頃、よく叱られたな」
「……殿下は、よく廊下を走られました」
「マーガレットと競争してた」
「存じております」
「花瓶を割った」
「三度ほど」
「二度じゃなかった?」
「三度です」
「そうか」
アレックスは笑った。
侍従長も、ほんのわずかに口元を動かした。
「長い間、ありがとう」
アレックスが頭を下げた。
その場にいた全員が固まる。
王子が侍従に頭を下げる。
ありえない光景だった。
もう王子ではないから、というだけではない。
アレックスは昔からこういう人間だった。
侍従長は震える手を胸に当て、深く、深く礼を返した。
「……ご武運を」
「うん」
短い言葉。
けれど十分だった。
侍従長は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に再び沈黙が落ちる。
マーガレットが鼻をすすった。
「泣いてるのか?」
アレックスが聞く。
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない!」
「泣いている人間の声です」
レクスターが言う。
「レクスターまで!」
「事実です」
マーガレットは袖で目元を乱暴に拭った。
「もう! なんなの! 追放ってもっと怒りだけで済むと思ってたのに!」
「済まないよ」
アレックスが言う。
「人がいるから」
マーガレットはまた黙った。
そうだ。
王城は嫌な場所ばかりではなかった。
アレックスを陥れた者もいる。
笑った者もいる。
見捨てた者もいる。
でも、そうではない人もいた。
侍従長のように。
言葉にできない顔で見送る使用人たちのように。
だから、痛い。
だから、簡単に憎めない。
「……行こう」
アレックスが荷を背負う。
マーガレットも大きな布袋を肩にかける。
「それ、重くないか?」
「平気!」
「中身は?」
「食料!」
「全部か?」
「だいたい!」
「減らしましょう」
レクスターが即座に言う。
「なぜ!?」
「重量配分が馬鹿です」
「また馬鹿って言った!」
「では非合理」
「それも嫌!」
レクスターは容赦なく袋を開け、中身を確認する。
「干し肉が多すぎます」
「大事!」
「大事ですが、他も大事です。水、薬、布、火起こし道具、替えの靴下」
「靴下?」
「足を壊せば旅は終わりです」
「急に説得力ある……」
アレックスが笑いながら食料を分配する。
「三人で持てばいい」
「うん!」
「ただし食べる量は管理します」
「レクスターが厳しい!」
「あなたを信用していないだけです」
「信用して!」
「実績が足りません」
「積む!」
「食べずに持ち歩けたら評価します」
「難易度高い!」
荷をまとめ終えると、部屋は急に広く見えた。
持っていけるものは少ない。
置いていくものの方が圧倒的に多い。
アレックスは最後にもう一度部屋を見た。
机。
本棚。
窓。
椅子。
小さな鉢植え。
昔の自分。
ここで過ごした時間。
それらに、言葉はかけなかった。
ただ、心の中で静かに礼を言う。
そして背を向けた。
廊下へ出る。
西棟の階段を降りる。
使用人たちが壁際に立っていた。
誰も声を出さない。
声を出せば、罰せられるかもしれない。
それでも、彼らはそこにいた。
一人。
また一人。
小さく頭を下げる。
マーガレットは唇を噛む。
レクスターは無言でその様子を見ていた。
アレックスは一人ひとりへ、笑顔で頷いた。
「元気で」
小さく言う。
声が届いたかは分からない。
それでも、何人かの使用人が肩を震わせた。
中庭へ出る。
春の陽射しが眩しい。
花壇には白い花が咲いていた。
風が吹き、花弁が揺れる。
王城の中庭は、追放の日にも変わらず美しかった。
「……腹立つくらい綺麗」
マーガレットが呟く。
「そうだな」
「こういう日は雨でいいのに」
「晴れの方が歩きやすい」
「レクスター、そういうことじゃない」
「分かっています」
「分かってて言ったでしょ」
「はい」
「性格悪い!」
そのやり取りに、アレックスは少し笑った。
中庭の向こう、城門前には馬車が待っていた。
黒塗りの簡素な馬車。
王族用の華やかなものではない。
護送用に近い。
その周囲には騎士が数名。
さらに離れた場所には、見物人のような貴族や城勤めの者たちがいた。
誰も近づかない。
でも誰も見ないふりもしない。
視線だけが、針のように刺さる。
「惨めね」
どこかから声がした。
「追放王子か」
「平民女まで一緒に行くとは」
「シュタインベルグの息子も物好きだ」
小さな笑い。
隠したつもりの嘲り。
マーガレットが足を止める。
「……殴っていい?」
「駄目」
アレックスが即答する。
「一発だけ」
「駄目」
「軽く」
「駄目」
「地面ごと揺らすだけ」
「それが一番駄目ですね」
レクスターが言う。
「やっぱり?」
「当然です」
アレックスは笑いながら歩く。
嘲笑も、視線も、全部受け止める。
胸は痛い。
腹も立つ。
けれど、ここで足を止めたくなかった。
自分が惨めだと認めるかどうかは、自分で決める。
誰かに決めさせない。
馬車の前で、騎士の一人が冷たく告げた。
「乗れ。王都西門まで移送する」
「分かった」
アレックスは素直に頷く。
「逃走した場合は拘束する」
「しないよ」
「信用できない」
「それは残念」
アレックスは笑う。
騎士がわずかに怯んだ。
怒鳴られると思っていたのかもしれない。
あるいは、惨めに俯くと思っていたのかもしれない。
けれどアレックスは、いつものように人当たりよく笑っていた。
それが逆に、騎士を困惑させた。
マーガレットが馬車へ乗り込みながら言う。
「ねえアレックス」
「うん?」
「外出たら何食べたい?」
「今?」
「今考えないと気が滅入る」
「そうだな……焼きたてのパン」
「いいね!」
「あと温かいスープ」
「最高!」
「肉」
「アレックスが肉って言った!」
「言うだろ」
「なんか嬉しい!」
レクスターが最後に乗り込む。
「現実的には、しばらく固いパンと干し肉です」
「夢壊すの早い!」
「夢で腹は膨れません」
「うわ、真理だけど嫌!」
馬車の扉が閉まる。
車輪が動き出す。
王城が少しずつ遠ざかる。
窓の外を、アレックスは見ていた。
城の塔。
旗。
中庭。
白い壁。
自分が生まれ育った場所。
マーガレットは何も言わなかった。
レクスターも黙っていた。
しばらく、車輪の音だけが続く。
がたん。
がたん。
石畳を進む音。
アレックスは窓から目を離さない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、寂しいな」
その言葉に、マーガレットが顔を上げる。
アレックスは笑っていた。
でも目は少しだけ赤かった。
「変だな。俺、もっと平気だと思ってた」
「変じゃないよ」
マーガレットが言う。
「平気なわけないじゃん」
「そうか」
「そうだよ」
レクスターも静かに言った。
「喪失を理解できるなら正常です。理解できない方が危険です」
「レクスター式励まし?」
「はい」
「相変わらず硬い」
「柔らかく言う必要性を感じません」
アレックスは少し笑った。
「二人がいてよかった」
マーガレットは今度こそ泣きそうになった。
でも泣かなかった。
代わりに、明るく言う。
「でしょ!」
「うん」
「私、役に立つから!」
「知ってる」
「荷物も持てるし、敵も殴れるし、ご飯も食べられる!」
「最後は役に立つのか?」
「食べる人がいると料理人が喜ぶ!」
「詭弁ですね」
「レクスター!」
三人の声が、狭い馬車の中に響いた。
笑い声も混じった。
追放者の馬車には似合わないほど、少し明るい声だった。
王都の街並みが流れていく。
通りの人々は馬車を見ていない。
誰が乗っているかも知らない。
パン屋の前で子どもが母親の手を引き、商人が荷を運び、鍛冶屋から槌の音が響く。
アレックスはその景色を見ていた。
この人たちを守りたいと思っていた。
今でも思っている。
たとえ王子でなくなっても。
王都から追い出されても。
その気持ちまで消えるわけではない。
馬車は西門へ向かう。
巨大な城門が見えてくる。
そこを越えれば、王都の外だ。
アレックスは膝の上で拳を握った。
寂しさもある。
怒りもある。
不安もある。
でも、それだけじゃない。
胸の奥に、小さな熱があった。
これから見る世界への期待。
何が待っているか分からない旅への怖さ。
それでも前へ進むしかないという覚悟。
馬車が止まる。
扉が開く。
騎士が告げる。
「ここまでだ」
三人は降りた。
西門の外。
王都の外側には、広い街道と草原が広がっている。
春の風が吹いた。
城の中とは違う匂い。
土。
草。
遠くの森。
知らない世界の匂い。
マーガレットが大きく息を吸う。
「……うわ」
「どうした」
「外って感じする」
「語彙」
レクスターが即座に切る。
「でも分かります」
「分かるんだ!?」
アレックスは王都を振り返った。
高い城壁。
その向こうの王城。
自分を追い出した場所。
そして、まだ好きな場所。
彼は深く息を吸った。
「行こう」
明るい声だった。
今度は、少しだけ本当に明るかった。
「どこへ?」
マーガレットが聞く。
「まずは飯」
「最高!」
「その前に安全圏まで離れます」
レクスターが現実を差し込む。
「最高じゃなかった!」
「飯はその後だ」
アレックスが笑う。
「約束」
「約束だからね!」
三人は歩き出した。
王都を背に。
肩書きを置いて。
荷物を背負って。
地図を持って。
剣とハルバードと水の本を携えて。
追放された王子は、王子ではなくなった。
けれど彼は、下を向かなかった。
優しく笑い、仲間と話し、寂しさを抱えたまま前へ進んだ。
その一歩は小さかった。
でも確かに、世界放浪の旅の始まりだった。




