【第1話 卒業式、婚約破棄】
王立アンデンブルグ学園の卒業式は、王都でもっとも華やかな行事のひとつとされていた。
白亜の大講堂。
磨き上げられた大理石の床。
天井から吊るされた巨大なシャンデリア。
壁には王国の歴代国王の肖像画が並び、その下には貴族家の紋章旗が隙間なく掲げられている。
壇上には深紅の幕。
中央には王家の双獅子紋。
卒業生たちは礼装に身を包み、家族や関係者、諸侯、軍の高官、王都の有力商人たちまで集まっていた。
拍手もある。
笑顔もある。
祝福の言葉もある。
けれど、その日の大講堂には、どこか奇妙な空気があった。
華やかさの奥に、薄い刃のような緊張が混じっている。
誰もが祝っているふりをしている。
誰もが今日という日を楽しみにしていた顔をしている。
けれど視線は、卒業生全員へ向けられているわけではなかった。
ひとりの青年へ集まっていた。
アレックス・アンデンブルグ。
王国第一王子。
そして、次期王位継承者と目されていた男。
彼は講堂の中央寄りの席に立ち、周囲へ柔らかな笑みを返していた。
「アレックス殿下、本日はご卒業、誠におめでとうございます」
「ありがとう。君も卒業だろ? これから忙しくなるな」
「は、はい……! 領地に戻り、父の補佐をする予定です」
「そうか。いいな。君は数字に強いし、農地管理も向いてる。領民の話、ちゃんと聞いてやれよ」
「殿下……覚えていてくださったのですか?」
「当たり前だろ。君、去年の実地研修でずっと土壌改良の話してたじゃないか」
相手の青年が、驚いたように目を丸くする。
周囲の生徒たちも少しざわついた。
アレックスはよく笑う。
身分を笠に着ることもなく、誰に対しても自然に話しかける。
貴族の子弟にも、騎士科の生徒にも、平民枠で入った特待生にも、同じように声をかける。
その姿を好ましく思う者は多かった。
けれど、すべての者がそうではない。
「……ああいうところが甘いのよ」
「第一王子なのに、平民にも笑いかけるなんて」
「優しいだけでは国は治められない」
「次期王にしては、少々親しみやすぎる」
小さな囁き。
扇の陰。
笑顔の裏。
アレックスの耳にも届いていた。
けれど、彼は気にした様子を見せない。
いつものように笑って、いつものように返す。
「殿下」
後ろから、明るい声が飛んできた。
振り返る前に、誰かが近づいてくる気配がある。
軽い足音。
遠慮がない。
だが、どこか安心する足音だ。
「アレックス!」
桃色がかった髪を揺らしながら、少女が人混みを抜けてくる。
マーガレット。
平民出身。
幼い頃からアレックスの護衛役として側にいた少女であり、学園では何かと目立つ存在だった。
天真爛漫。
よく笑い、よく怒り、よく食べる。
考えるより先に身体が動く。
そのせいで教師に怒られることも多い。
だが、誰かが困っていれば真っ先に駆け寄る。
そういう少女だった。
「見て見て! 卒業証書もらった!」
彼女はまだ式が本格的に始まる前だというのに、すでに誇らしげな顔をしていた。
「まだ授与式は始まってないぞ」
アレックスが笑う。
「あれ? じゃあこれ何?」
「それは出席確認用の札だ」
「えっ」
マーガレットが手元を見る。
そして真顔になる。
「……似てない?」
「似てない」
「ちょっと似てるよね?」
「似てない」
「レクスター!」
マーガレットは近くにいた銀髪の青年へ勢いよく振り向いた。
レクスター・フォン・シュタインベルグ。
王国有数の知識家系に生まれた青年で、学園内でも冷静沈着な頭脳派として知られている。
整った顔立ち。
きっちり整えられた銀髪。
眼鏡の奥の目は、いつも淡々としている。
彼は手元の書類から視線を上げ、マーガレットの手元を見た。
「出席札ですね」
「迷いなく切り捨てた!」
「卒業証書と間違える方が困難です」
「困難って言い方やめて!」
「では不可能に近い」
「もっとひどくなった!」
アレックスは笑った。
思わず声に出して笑う。
周囲の重い空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
マーガレットはむっと頬を膨らませる。
「アレックスまで笑った!」
「ごめん。でも、マーガレットらしくて」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「なら許す!」
「許すの早いですね」
レクスターが眼鏡を押し上げる。
「その単純さは美点でもあり欠点でもあります」
「美点だけ拾う!」
「都合がいい」
「前向きって言って!」
そんな三人のやり取りを、遠巻きに見る者たちがいた。
好意的な視線。
苦笑。
羨望。
そして、冷ややかな視線。
特に貴族席の一角から向けられる視線は、明らかに温度が低かった。
その中心にいるのは、第二王子アーサー。
金の髪を整え、華やかな白の礼装を纏った青年。
顔立ちは美しい。
立ち姿も堂々としている。
いかにも王子らしい王子。
その隣には、アレックスの婚約者であるはずの公爵令嬢セレスティアがいた。
淡い銀色の髪。
青い瞳。
白いドレス。
微笑みは完璧で、立ち振る舞いも優雅だった。
だが彼女は、アレックスの隣にはいない。
アーサーの隣にいる。
それを見て、マーガレットの表情が曇った。
「……ねえ」
「うん」
アレックスは穏やかに答えた。
「気づいてる?」
「何に?」
「とぼけないで」
マーガレットの声が低くなる。
「あの人、今日ずっとアーサー殿下の横にいる」
「そうだな」
「そうだな、じゃないよ。婚約者でしょ?」
「うん」
「うん、じゃない!」
マーガレットは小声なのに怒りが隠せていない。
「なんでそんな普通にしてるの。おかしいじゃん。絶対おかしいじゃん。卒業式だよ? 普通、隣にいるでしょ」
「マーガレット」
アレックスは軽く彼女の肩に手を置いた。
優しい手だった。
そのせいで、マーガレットは余計に苦しそうな顔をする。
「大丈夫だよ」
「……大丈夫じゃない時に、大丈夫って言うのやめて」
「癖かな」
「悪い癖」
「気をつける」
「絶対気をつけない顔してる」
アレックスは困ったように笑った。
レクスターは二人のやり取りを見てから、静かに言う。
「状況はかなり悪いです」
マーガレットが即座に振り向く。
「ほら! レクスターもこう言ってる!」
「ええ。かなり悪い。正直、最悪の一歩手前です」
「言い方!」
「事実です」
レクスターはアーサーとセレスティアのいる方向へ視線を向ける。
「本日の卒業式、王族席の配置が通常と異なります。諸侯の顔ぶれも妙に偏っている。王都軍高官の一部まで揃っている。単なる祝賀ではありません」
「……何が起きる?」
アレックスが聞く。
声は穏やかだった。
けれど笑みは消えていた。
レクスターは一拍置いた。
「おそらく、公開処分です」
沈黙。
マーガレットが息を呑む。
「公開、処分……?」
「ええ」
「誰の?」
聞かなくても分かっている。
それでもマーガレットは聞いた。
答えが違ってほしかったから。
レクスターは冷静に言った。
「アレックス殿下です」
空気が、重く沈んだ。
遠くでは卒業生たちの笑い声が聞こえる。
楽団が式典前の調律をしている。
講堂の天井から差し込む光は美しい。
なのに、三人の周りだけ時間が止まったみたいだった。
「……なんで」
マーガレットの声が震える。
「なんでアレックスが処分されるの。何もしてないじゃん」
「何もしていないから、でしょうね」
「どういう意味?」
「正確には、王都の一部勢力にとって都合のいい行動をしなかった」
レクスターの声は冷たい。
「アレックス殿下は、地方の税負担軽減を提案した。軍備増強より街道修復を優先すべきだとも述べた。貴族家の私兵拡大に懸念を示し、王都中心の政策に疑問を出した」
「それの何が悪いの?」
「王都で甘い汁を吸っている者にとっては、全部悪い」
レクスターは容赦なく切り捨てた。
「つまり、邪魔だったのです」
マーガレットの拳が震える。
「ふざけんな……」
「マーガレット」
アレックスが呼ぶ。
「まだ何も起きてない」
「起きるんでしょ!」
「かもしれない」
「かもしれないじゃない!」
マーガレットは泣きそうな顔で怒っていた。
「なんでアレックスはそうなの。いつもそう。自分が傷つけられそうな時だけ、やけに落ち着いてる」
「怖がって騒いでも変わらないだろ?」
「騒がなくていいから、少しは怒ってよ」
その言葉に、アレックスは少しだけ黙った。
ほんの短い沈黙。
大講堂のざわめきが、遠くなる。
「怒ってないわけじゃないよ」
アレックスは言った。
優しい声だった。
「ただ、今はまだ怒る場所じゃない」
「じゃあ、いつ怒るの」
「守るものが決まった時」
マーガレットは言葉を失った。
レクスターも、わずかに目を細める。
アレックスは笑った。
いつものように。
柔らかく、人を安心させる笑顔。
「大丈夫。俺は、たぶん全部は失わない」
「たぶんって何……」
「だって、二人はいるだろ?」
その一言で、マーガレットの顔がくしゃっと歪んだ。
「……ばか」
「うん」
「そこ認めないで」
「ごめん」
「ほんと、ばか」
開式を告げる鐘が鳴った。
大講堂の扉が閉まり、ざわめきが収束していく。
生徒たちが整列し、来賓席の諸侯たちが姿勢を正す。
王家の入場を告げるラッパが、高く響いた。
国王が現れる。
深紅のマント。
王冠。
年齢を重ねてもなお威厳のある姿。
その背後には重臣たち。
そして、アーサー。
セレスティア。
講堂の空気が一気に変わった。
祝祭から、裁きの場へ。
そんな錯覚があった。
卒業式は始まった。
式辞。
功績者への表彰。
卒業証書の授与。
拍手。
祝辞。
すべては予定通り進んでいく。
だが、誰もがどこか待っている。
何かが起こる瞬間を。
アレックスはその中心に立っていた。
何度も視線を感じた。
貴族たちの値踏みする目。
生徒たちの不安げな目。
教師たちの沈黙。
王都軍高官の冷ややかな目。
そのすべてを受けながら、彼は静かに立っていた。
いや、静かに見えていた。
胸の奥では、いくつもの感情が動いている。
父への疑問。
弟へのわだかまり。
婚約者への寂しさ。
マーガレットとレクスターを巻き込むかもしれない不安。
それでも彼は笑顔を崩さなかった。
隣でマーガレットがじっと前を見ている。
レクスターは周囲を観察し続けている。
その二人の気配があるだけで、足元は崩れなかった。
そして、国王が式辞の終盤で言葉を止めた。
講堂が、静まる。
息をする音すら大きく聞こえる。
「本日、卒業式の場において、王家より重要な発表がある」
来た。
誰かが小さく息を呑んだ。
マーガレットの拳が握られる。
レクスターの目が細くなる。
アレックスは顔を上げた。
王の視線が、まっすぐ彼を射抜く。
「第一王子アレックス・アンデンブルグ」
「はい」
アレックスは前へ出た。
足音が、やけに大きく響いた。
壇上へ続く赤い絨毯。
その先に父がいる。
かつて憧れた王がいる。
幼い頃、膝の上で国の話を聞いたこともある。
初めて剣を褒められた日のことも覚えている。
雨の日、王都の城壁を一緒に見たことも。
その全部が、今は遠かった。
「そなたと、公爵令嬢セレスティア・フォン・クラウゼンとの婚約を、本日をもって破棄する」
ざわめきが爆ぜた。
「婚約破棄……!」
「やはり……」
「本当にこの場で……」
扇の音。
囁き声。
生徒たちの動揺。
セレスティアは、アーサーの隣で静かに立っていた。
驚いていない。
つまり、知っていた。
アレックスは彼女を見た。
セレスティアは一瞬だけ視線を合わせ、それから逸らした。
それだけだった。
胸の奥に、小さな痛みが走る。
でも、不思議と怒りは湧かなかった。
ただ、悲しかった。
自分たちは婚約者だった。
政略だとしても。
恋ではなかったとしても。
それでも、話す時間はあったはずだ。
なのに何もなかった。
そこにあった関係の薄さを、今さら突きつけられた気がした。
王の声が続く。
「さらに、新たにセレスティアを第二王子アーサーの婚約者とする」
講堂が再び揺れる。
拍手が起きた。
最初は小さく。
やがて大きく。
あまりにも早い拍手だった。
まるで最初から準備されていたみたいに。
マーガレットが震える声で呟く。
「……なに、これ」
レクスターが低く答える。
「茶番です」
言葉は冷たい。
だが、その奥に怒りがあった。
アーサーが一歩前へ出る。
「兄上」
穏やかな声だった。
表向きは。
「これは王国の未来のためです。兄上は優しい。ですが、優しさだけでは国を守れない」
拍手が強まる。
「国には決断力が必要です。時に切り捨てる覚悟が必要です」
アレックスは弟を見た。
アーサーの目の奥には、勝利の色がある。
だがそれだけではない。
不安もある。
焦りもある。
自分を正当化しようと必死な色もある。
「アーサー」
アレックスが呼ぶ。
「はい」
「お前、本当にそう思ってるのか?」
講堂が静まった。
アーサーの表情がわずかに揺れる。
「何を……」
「切り捨てる覚悟が王に必要だって、本当にお前自身が思ってるのか?」
「当然です」
答えは早かった。
早すぎた。
アレックスは少しだけ悲しそうに笑った。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
言えば、アーサーがさらに傷つく気がしたから。
その沈黙が、逆にアーサーの顔を歪ませた。
「そうやって……!」
言いかけたアーサーを、王が手で制した。
そして国王は、さらに重い言葉を落とす。
「加えて、第一王子アレックス・アンデンブルグを、本日この時をもって王位継承権剥奪とし、王都より追放する」
音が消えた。
ほんの一瞬。
大講堂から、すべての音が消えた気がした。
次の瞬間、爆発するようなざわめき。
「追放!?」
「王位継承権剥奪だと……!」
「第一王子を……!」
「何があったのだ……!」
マーガレットが一歩踏み出した。
「ふざけ――」
アレックスが振り返り、目だけで制する。
マーガレットは止まった。
でも、顔は怒りで真っ赤だった。
レクスターは唇を引き結び、静かに王を見ていた。
王は続ける。
「そなたは王としてあまりに甘い。民へ寄り添うと言えば聞こえはいいが、貴族をまとめる強さを持たぬ。決断は遅く、情に流され、国の未来を託すには足りぬ」
ひとつひとつの言葉が、大講堂へ落ちる。
アレックスは黙って聞いていた。
甘い。
情に流される。
足りない。
それは何度も言われた言葉だった。
貧しい村へ税の猶予を提案した時。
戦地への補給よりも避難民の保護を優先すべきだと言った時。
不正をした貴族の罰だけでなく、なぜ不正が起きたのかを調べるべきだと主張した時。
彼はいつも甘いと言われた。
だが。
それの何が悪いのか、今でも分からない。
アレックスは王を見上げる。
「父上」
「何だ」
「俺は、国を弱くしたかったわけじゃありません」
声は穏やかだった。
だが講堂の奥まで届いた。
「ただ、強い国というのは、弱い人を踏み潰して立つものではないと思っていました」
ざわめきが静まっていく。
誰もがその声を聞いていた。
「貴族も、騎士も、商人も、農民も、子どもも、老人も。全部あって国です。上だけ残っても、下が崩れたら国は倒れます」
「綺麗事だ」
王が切り捨てる。
「そうかもしれません」
アレックスは笑った。
悲しいほど優しい笑みだった。
「でも、綺麗事を捨てた王が、何を守るのか俺には分かりません」
講堂が震えた。
誰かが息を呑む。
アーサーの顔が強張る。
セレスティアは視線を落とした。
王の表情が、わずかに冷たくなる。
「まだ王を語るか」
「いいえ」
アレックスは首を振った。
「俺はもう王子ではないのでしょう」
そして、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「なら、最後に俺個人として言います」
沈黙。
「父上。あなたの判断が正しいかどうかは、いつか分かります」
穏やかな声。
「俺も、俺が間違っていたかどうか、これから知ります」
王が眉を動かす。
「追放されてなお、何を知ると言う」
「世界を」
短い答えだった。
「王都の中で見えなかったものを見ます。俺が甘いのか、それとも王都が冷たすぎるのか。外へ出れば分かるでしょう」
しん、とした。
その場にいた多くの者が、なぜか胸を締めつけられていた。
追放される男の言葉とは思えなかった。
敗者の言葉ではない。
泣き叫び、すがり、怒鳴るわけでもない。
ただ前を見ていた。
その姿が、あまりにも真っ直ぐだった。
「連れていけ」
王が告げた。
騎士たちが動く。
その時だった。
「待って」
マーガレットが前に出た。
今度はアレックスも止めなかった。
彼女の表情を見たからだ。
怒っている。
泣きそうでもある。
けれど、もう決めている顔だった。
「私も行く」
大講堂がざわついた。
「平民が何を……」
「護衛役だろう?」
「王命に逆らう気か?」
マーガレットはまっすぐ立った。
小柄な身体。
華やかな礼装。
けれど、その存在感は誰より強かった。
「私はアレックスの護衛だから」
彼女は言う。
「王子じゃなくなっても関係ない。追放されるなら一緒に行く」
「マーガレット」
アレックスが呼ぶ。
「だめって言っても行くから」
「苦労するよ」
「知ってる」
「旅は危ない」
「私、強いし」
「食べ物も困る」
「それは困る」
「そこだけ悩むな」
「でも行く」
マーガレットは笑った。
泣きそうなくせに、明るく笑った。
「アレックスを一人にする方が嫌」
沈黙。
その言葉は、何より真っ直ぐだった。
アレックスはしばらく彼女を見ていた。
そして、困ったように笑う。
「ありがとう」
「うん!」
その返事は、驚くほど明るかった。
「なら、行こう」
「うん!」
その時、もう一つの足音が響いた。
レクスターだった。
彼は眼鏡を押し上げ、淡々と二人の隣に立つ。
「私も同行します」
講堂がまたざわめく。
シュタインベルグ家の才子。
王国中枢入りを期待されていた青年。
その彼が、追放される第一王子の側へ立った。
「レクスター」
アレックスが少し驚いた顔をする。
「お前まで?」
「まで、とは失礼ですね」
レクスターは冷静に返す。
「この状況で王都に残るほど、私は愚かではありません」
「理由が冷静!」
マーガレットが言う。
「他にもあります」
レクスターはアレックスを見た。
「あなたの方が、王都より見ていて面白そうです」
「面白い?」
「ええ」
レクスターの声は平坦だった。
だが、そこには確かな信頼があった。
「王都は腐るでしょう。ですが、あなたは外へ出る。なら私は、腐る箱の中より、動く人間の側にいたい」
「言い方がひどい」
「事実です」
マーガレットが笑った。
アレックスも笑った。
追放の場で。
婚約を失い、王位を奪われ、国を追われる場で。
三人は、なぜか少しだけ笑っていた。
それが、王都の者たちには理解できなかった。
アーサーはその光景を見て、唇を噛む。
なぜだ。
なぜ追放される兄の側に、人が立つ。
なぜ自分は王太子になったはずなのに、胸の奥がざらつく。
なぜ、勝った気がしない。
「……勝手にしろ」
王が冷たく告げた。
「不要な者が二人増えたところで変わらぬ」
その言葉に、マーガレットの目が鋭くなった。
だがアレックスが軽く笑って言う。
「じゃあ、三人で行きます」
まるで旅立ちの挨拶みたいだった。
騎士たちに囲まれ、三人は大講堂の出口へ歩き出す。
背後には拍手があった。
アーサーとセレスティアへの拍手。
新しい時代を祝う音。
だが、その拍手はどこか薄かった。
なぜなら多くの者が見ていたからだ。
追放される王子の背中を。
その隣を歩く少女を。
冷静に付き従う青年を。
誰かが小さく呟いた。
「……本当に、あれでよかったのか」
その声は拍手に飲まれた。
けれど、確かにあった。
大講堂の扉が開く。
外の光が差し込む。
春の空気が流れ込む。
アレックスは一度だけ振り返った。
王。
アーサー。
セレスティア。
貴族たち。
生徒たち。
教師たち。
すべてを見て、彼は穏やかに笑った。
「元気で」
誰に向けた言葉だったのか、分からない。
王へか。
弟へか。
この国へか。
それとも、かつての自分へか。
そして三人は、大講堂を出た。
扉が閉まる。
拍手もざわめきも、分厚い木の向こうへ消える。
廊下に出た瞬間、マーガレットが大きく息を吐いた。
「……ああああああああ! 腹立つ!!」
静まり返った廊下に、彼女の声が響く。
「ありえない! ほんとありえない! 何あれ!? 婚約破棄!? 追放!? しかも卒業式で!? 最低! 最悪! 王都爆発しろ!」
「物騒だな」
アレックスが笑う。
「笑うところじゃない!」
「怒ってくれてありがとう」
「そういうこと言うから怒りにくくなるんだよ!」
マーガレットは涙目だった。
怒っているのに、泣きそうだった。
レクスターは廊下の窓から外を見ながら言う。
「荷造りの時間は短いでしょう。おそらく一時間以内に王都外へ出されます」
「現実戻すの早くない!?」
「必要です」
「分かるけど!」
アレックスは窓の外を見た。
王都の白い屋根。
遠くに見える城壁。
人々の暮らし。
今まで自分が守るべきだと思っていたもの。
そこから追い出される。
胸が痛まないわけがない。
でも、隣に二人がいた。
だから、歩ける。
「行こう」
アレックスが言った。
明るい声だった。
無理をしていないわけではない。
それでも、沈み込むことを選ばなかった声。
「まず荷物をまとめる。食料も必要だな。あと地図。レクスター、本の持ち出しはどれくらいなら許されると思う?」
「実用書二冊までです」
「少ない」
「多いと死にます」
「切り捨て方が強い」
マーガレットが少しだけ笑う。
「じゃあ私は食料担当!」
「全部食べるなよ」
「食べないよ!」
「半分は食べそうですね」
「レクスター!?」
廊下に、三人の声が響く。
追放されたばかりとは思えないほど、少しだけ明るい声だった。
だが、それは軽さではない。
落ち込んでも仕方がないから笑う。
前へ進むしかないから話す。
失ったものを数えるより、残ったものを握る。
そのための明るさだった。
アレックスは一歩踏み出す。
王子としての道は、ここで終わった。
だが、彼自身の道はまだ終わっていない。
むしろ、ここから始まる。
王都の外へ。
知らない村へ。
知らない空へ。
世界へ。
追放された第一王子は、優しく笑って歩き出した。
その隣には、天真爛漫な怪力少女がいる。
その後ろには、冷静に現実を切り捨てる知略家がいる。
三人の放浪旅は、この日始まった。
そして王国はまだ知らない。
追い出したものが、どれほど大きかったのかを。
捨てたはずの王子が、
やがて世界のあちこちで人々を救い、
王都の外から、
この国の歪みを照らしていくことを。




