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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第26話 灯りを背負う重さ】


 染物倉庫の中には、まだ焦げたような匂いが残っていた。


 雷の残滓。


 欠片が焼けた臭気。


 古い染料。


 汗。


 血。


 そして、人が生きている匂い。


 倒れた汚染兵たちは、倉庫の奥へ並べられていた。


 全員、呼吸はある。


 荒い者もいれば、浅い者もいる。


 呻き続けている者もいた。


 だが、誰一人として死んではいなかった。


 その事実だけが、今の三人を辛うじて立たせていた。


 アレックスは入口近くの木箱へ腰を下ろしていた。


 雷の刃は膝の上。


 柄を握ったまま、しばらく動いていない。


 疲労は重かった。


 腕が痺れている。


 肩も痛い。


 大男を受け止めた時の衝撃が、まだ骨の奥に残っていた。


 けれど、それ以上に重いものがあった。


 頭の中に残る声。


 ――たすけ。


 あの掠れた声が、耳から離れない。


 もし間違えていたら。


 もし雷を深く流しすぎていたら。


 もしレクスターの制御が遅れていたら。


 あの大男は死んでいたかもしれない。


 自分の手で。


 助けようとして、殺していたかもしれない。


「……」


 アレックスは拳を握った。


 怖かった。


 戦いで人を斬ることとは違う。


 守ろうとして、救おうとして、それでも壊してしまう怖さ。


 黒外套は、それを分かった上で見ていた。


 だから腹が立つ。


 同時に、悔しかった。


 まだ、自分は未熟だ。


 雷を制御できても、人を救う技術は足りない。


 助けたいだけでは届かない。


 その現実を、グレイルへ来てから何度も突きつけられていた。


「アレックス」


 声がした。


 レクスターだった。


 アレックスは顔を上げる。


 レクスターは倉庫奥から歩いてきたところだった。


 いつも通り背筋は伸びている。


 だが、顔色は悪い。


 唇も少し白い。


 水の本を使い続けた反動だ。


 それでも彼は平然とした顔を崩さない。


「全員、一時的に安定しました」


「……そっか」


「ただし、長くは持ちません」


「どれくらい」


「半日。長くても一日」


 アレックスの表情が引き締まる。


 レクスターは淡々と続けた。


「欠片の残滓が体内へ残っています。今は接続だけを断っている状態です。根本の侵食は止まっていない」


「リゼットの薬房へ行くしかない」


「はい」


「情報、薬、あるいは治療法。そのどれかが必要です」


 アレックスは立ち上がろうとして、少しよろけた。


 レクスターが眉をひそめる。


「座っていてください」


「大丈夫」


「信用度二割です」


「下がった!?」


「無理を隠そうとしたので」


「厳しいな……」


「現実です」


 アレックスは苦笑した。


 その笑顔を見て、レクスターはほんの少しだけ目を細める。


「……ですが」


「うん?」


「よく止めました」


 アレックスは瞬きをした。


「え」


「大男の件です」


「……」


「普通なら斬っていました。私でも、最悪の想定をしていました」


「レクスターでも?」


「はい」


 彼は一度視線を逸らす。


「正直に言えば、途中で“間に合わない”と思った」


 その言葉は重かった。


 レクスターが弱音に近いものを口にするのは珍しい。


 それだけ、危険だったということだ。


「でも、止めた」


 アレックスが小さく言う。


「はい」


「……よかった」


 その声は、安堵と疲労が混じっていた。


 レクスターはしばらくアレックスを見ていた。


「怖かったですか」


 唐突な問いだった。


 アレックスは少し黙る。


 倉庫の外から風が入った。


 干された布が擦れる音が遠くに聞こえる。


 夜のグレイルは静かだ。


 静かなのに、どこか張り詰めている。


「怖かった」


 アレックスは答えた。


「失敗するのが?」


「うん」


「死なせるのが?」


「うん」


「それでもやった」


「やるしかなかったから」


 レクスターは小さく息を吐く。


「あなたは、本当に厄介ですね」


「悪口?」


「半分」


「もう半分は?」


「……だから、人が集まる」


 アレックスは少しだけ目を見開いた。


 レクスターはすぐに視線を外した。


「マーガレットも、ラドナ村の人たちも、エイナも。あなたが無茶をするから付き合わされる」


「迷惑かな」


「非常に」


「ひどい」


「ですが」


 レクスターは言葉を切った。


「嫌ではありません」


 沈黙。


 アレックスは、ふっと笑った。


「それ、かなり褒めてるだろ」


「解釈は任せます」


「じゃあ褒め言葉として受け取る」


「勝手にしてください」


 倉庫奥から、足音が近づいてきた。


 エイナだった。


 彼女は水桶を抱えている。


 袖をまくっていて、腕に青い染料が付いていた。


「……生きてるね」


 エイナは倒れた汚染兵たちを見て言った。


「はい」


 レクスターが答える。


「今のところは」


「今のところ、か」


 エイナは水桶を置き、大男の顔を見下ろした。


 先ほど“たすけ”と呟いた男。


 今は眠っている。


 呼吸は浅いが、落ち着いていた。


「この人、見たことある」


 エイナがぽつりと言う。


「知り合いですか」


 レクスターが聞く。


「南区の荷運び。たしか、娘がいた」


 アレックスの胸が重くなる。


「娘……」


「うん。小さい子。よく肩車してた」


 エイナは苦しそうに笑った。


「ちゃんと笑う人だったよ」


 沈黙が落ちる。


 倉庫の空気が、少しだけ冷えた気がした。


 黒外套は、人を怪物にしているだけじゃない。


 誰かの父親を。


 誰かの夫を。


 誰かの日常を。


 そういうものを壊している。


「……許せないな」


 アレックスの声が低くなる。


 レクスターが横を見る。


 エイナも黙ったまま頷いた。


 許せない。


 その感情だけなら、もう三人とも同じ場所に立っていた。


 エイナは近くの木箱へ腰を下ろした。


 疲れているのだろう。


 肩の力が抜けていた。


 さっきまで張っていた緊張が、戦闘後の静けさで一気に出てきている。


「ねえ」


 彼女が小さく言った。


「なんで、そこまでやれるの?」


「ん?」


 アレックスが見る。


「普通、ああいう状況なら切るよ。生きてるかも、とか考えない。自分が死ぬかもしれないなら、なおさら」


「……」


「なのに、あなたは止めた」


 エイナはまっすぐアレックスを見る。


「なんで?」


 アレックスはすぐには答えなかった。


 答えを探していたわけではない。


 言葉にするのが難しかった。


 助けたいから。


 守りたいから。


 そんな簡単な言葉で済ませたくなかった。


 少し考えてから、静かに口を開く。


「名前があるから」


「名前?」


「うん」


 アレックスは、眠る汚染兵たちを見る。


「この人たちには名前がある」


「……」


「家族がいて、呼ばれてた名前がある。好きなものも、嫌いなものも、帰る場所も、多分あった」


 ラドナ村で聞いた名前たちが浮かぶ。


 ユミ。


 トマ。


 ミナ。


 ルカ。


 名前を呼ばれなくなった人たち。


 番号みたいに扱われた人たち。


 アレックスは拳を握る。


「黒外套は、それを消そうとしてる気がするんだ」


「名前を?」


「うん。人じゃなく、実験とか、荷物とか、材料とか。そういうふうに変えようとしてる」


 エイナは静かに聞いていた。


「だから、嫌なんだ」


 アレックスは言う。


「名前があるなら、人として戻したい」


 倉庫の中に沈黙が落ちる。


 遠くで、鐘の音がした。


 夜を知らせる鐘。


 グレイルの人々が、扉を閉め始める時間。


 その音を聞きながら、エイナはぽつりと笑った。


「……ほんと、変」


「よく言われる」


「こんな町でそんなこと言う人、見たことない」


「俺も初めて来た」


「なのに、この町をなんとかしようとしてる」


「したいから」


「普通、逃げるよ」


「逃げたい人が逃げられるようにしたい」


 エイナは少しだけ目を伏せた。


「……ずるいなあ」


「え?」


「そういうこと、真っ直ぐ言うの」


 彼女は苦笑した。


「こっちはさ。もう慣れちゃってたんだよ。この町はこういう場所だって」


「エイナ」


「裏市はある。人は消える。警備は腐ってる。助けを求めても返ってこない。だったら、できる範囲だけやって、生き残るしかないって」


 エイナは、自分の手を見る。


 染料が付いている。


 青い染料。


 まるで欠片の光みたいだった。


「でも、あなたたちは違う」


 アレックスは何も言わない。


 エイナは少し笑う。


「眩しいよ」


 その言葉は、どこか痛そうだった。


 レクスターが口を開く。


「眩しいだけでは、人は救えません」


「分かってる」


「必要なのは現実です。情報、手段、時間、拠点」


「ほんと冷静だね」


「感情だけでは死ぬので」


「でも、付き合ってる」


 エイナが笑う。


「この王子様に」


 レクスターは一瞬だけ黙った。


「……放置するともっと危険なので」


「それ、マーガレットにも言ってそう」


「実際そうです」


 アレックスが吹き出す。


「やっぱりそうなんだ」


「彼女も危険です」


「ひどい」


「事実です」


 少しだけ、空気が軽くなった。


 戦闘後の緊張が、ようやく少しだけほどける。


 だが、問題は何も終わっていない。


 むしろ、ここからだ。


 レクスターは地図を広げた。


「リゼットの薬房へ向かう前に整理します」


 彼の声が変わる。


 情報を扱う時の、冷たい声。


「まず、黒外套は我々を誘導しています」


「うん」


「リゼットの薬房へ来させようとしている」


「罠?」


 エイナが聞く。


「高確率で」


「でも行く」


 アレックスが即答した。


「でしょうね」


 レクスターはため息をつく。


「だから準備します」


 彼は地図の旧市場跡を指した。


「薬房への入口は地下水路経由。表から入ると監視に見つかる可能性が高い」


「地下か」


「はい。旧市場跡の下に古い搬入口があります」


「知ってる」


 エイナが頷く。


「でも、あそこは裏市の見張りもいるよ」


「何人程度」


「日による。少ない時で三人、多い時は十人以上」


「武装は」


「短剣、棍棒、時々欠片武器」


 レクスターの目が細くなる。


「欠片武器まで流れているのですか」


「最近増えた」


「黒外套経由でしょうね」


「たぶん」


 アレックスは地図を見る。


「薬房の中は?」


「分からない」


 エイナは首を横に振る。


「そこまで入ったことない。入った人が戻ってこないから」


「……」


「でも、薬師リゼットはいる。間違いなく」


 その名を聞くだけで、倉庫の空気が少し冷えた気がした。


 リゼット。


 欠片を“馴染ませる”薬師。


 人を汚染兵に変えている女。


 会わなければならない。


 止めなければならない。


 そして、聞かなければならない。


 どうすれば救えるのかを。


「行くのは今夜」


 レクスターが言った。


「夜の方がいいのか」


「はい。裏市の活動時間帯ですが、その分、人の流れに紛れられる」


「危険も増える」


「元から危険です」


「それもそうか」


「それに」


 レクスターは少し間を置いた。


「時間がありません。汚染兵たちの状態が悪化する前に、情報を取る必要があります」


 アレックスは倒れた男たちを見る。


 苦しそうな呼吸。


 時折走る痙攣。


 まだ、完全には止まっていない。


 ここで止まれば、また誰かが壊れる。


「……行こう」


 アレックスが言った。


「はい」


「私も行く」


 エイナも立ち上がる。


 レクスターが即座に言った。


「危険です」


「知ってる」


「命の保証はできません」


「最初からそんな町じゃない」


「……」


「それに、案内役は必要でしょ?」


 エイナは少し笑う。


「あなたたち、強いけど、この町の裏道は知らない」


 レクスターは少し考えた。


 合理的に見れば、必要な戦力ではない。


 だが、必要な案内役ではある。


 そして何より。


 彼女自身が、もう引き返す気ではない。


「……条件があります」


「なに?」


「無茶をしない」


「あなたたちが言う?」


「私は基本的に無茶をしません」


 アレックスが横を見る。


「え?」


「何ですか」


「いや、たまにするだろ」


「必要な範囲です」


「基準が怖い」


 エイナが笑った。


「じゃあ、三人とも無茶しないように頑張ろっか」


「難題ですね」


 レクスターが即答する。


「だな」


 アレックスも苦笑した。


 その時だった。


 倉庫の外で、小さな物音がした。


 三人の空気が一瞬で変わる。


 アレックスが入口を見る。


 レクスターが水の本を開く。


 エイナが短剣を抜く。


 静寂。


 外からは風の音しか聞こえない。


 だが、誰かいる。


 気配がある。


 アレックスがゆっくり入口へ近づいた。


 扉の隙間。


 その向こう。


 誰かが、立っている。


「誰だ」


 アレックスが低く言う。


 返事はない。


 代わりに、小さな影がふらりと倒れ込んできた。


「っ!?」


 アレックスが慌てて支える。


 軽い。


 細い。


 子どもだった。


 十歳前後の少女。


 服は泥だらけ。


 呼吸は荒い。


 そして、その腕には。


 黒い筋が浮かんでいた。


「……!」


 エイナの顔色が変わる。


「この子、旧市場の……!」


 少女は震える唇で、かすかに言った。


「……リゼット……」


 その声は、泣きそうに掠れていた。


「おねえちゃんが……つれてかれた……」


 アレックスの瞳が揺れる。


 レクスターの表情も険しくなる。


 少女はアレックスの服を掴んだ。


「……たすけて……」


 その小さな声が、倉庫の空気を震わせた。


 アレックスは、ゆっくりと少女の手を握り返す。


「助ける」


 迷いなく言った。


「必ず」


 レクスターは小さく目を閉じた。


 エイナは息を呑む。


 そして、グレイルの夜が、さらに深く口を開けていく。


 リゼットの薬房。


 地下水路。


 連れ去られた少女。


 救いを求める声。


 優しいまま戦うには、あまりにも重い夜が始まろうとしていた。

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