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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第21話 夜明けの作戦会議】


 夜が、ようやく薄れていった。


 森の奥に沈んでいた黒が、少しずつ青へ変わる。


 木々の輪郭が浮かび上がり、葉の先に乗った朝露が、弱い光を受けてきらりと光った。


 見張り小屋の前では、三つの焚き火がほとんど灰になっていた。


 細い煙が、冷えた朝の空気の中へ溶けていく。


 夜の間、何度も消えそうになった火だった。


 それでも、消えなかった。


 薪を足しすぎれば敵に見つかる。


 弱すぎれば子どもや怪我人が震える。


 そのぎりぎりの火を、マーガレットは何度も調整した。


 火の明るさを見て。


 人々の顔色を見て。


 森の闇を見て。


 大地のハルバードを手の届く場所に置いたまま、ずっと。


 その火の周りには、名前を取り戻した人々が眠っていた。


 檻から解放された者たち。


 捨て場から連れ戻された者たち。


 眠りは浅い。


 うなされる者もいる。


 小さな物音に身体を震わせる者もいる。


 それでも、眠っていた。


 檻の中ではなく。


 捨て場でもなく。


 誰かに見捨てられる場所でもなく。


 小さな焚き火のそばで、誰かの気配を感じながら、眠っていた。


 アレックスは、小屋の外に立っていた。


 雷の刃は鞘に収めている。


 けれど、手はまだ柄の近くにあった。


 夜の襲撃を退けてから、彼はほとんど眠っていない。


 敵を拘束し、怪我人を確認し、周辺を見回り、夜明けまで森の気配を探っていた。


 疲れはある。


 足も重い。


 肩にも鈍い痛みが残っている。


 それでも、目は冴えていた。


 朝が来た。


 それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 だが、安心にはまだ遠い。


 グレイルがある。


 裏市がある。


 黒外套がいる。


 欠片がある。


 ラドナ村へ戻る約束もある。


 この見張り小屋に集まった人々を、どう守るかという問題もある。


 助けたあとの現実は、いつも重い。


 アレックスは、昨夜何度もそれを思い知らされた。


「……また考えてる」


 背後から、少し眠そうな声がした。


 振り返ると、マーガレットがいた。


 髪は少し乱れている。


 頬に煤がついている。


 外套も土で汚れている。


 それでも、彼女はいつものように真っ直ぐアレックスを見ていた。


「起きたのか」


「寝てない」


「少しは寝た方がいい」


「アレックスにだけは言われたくない」


「それもそうか」


「うん」


 マーガレットは隣へ来て、森の朝を見た。


 しばらく、二人は黙っていた。


 遠くで鳥が鳴く。


 夜の間は聞こえなかった声だ。


 その声が、朝を連れてくる。


「……守れたね」


 マーガレットが小さく言った。


「うん」


「全部じゃないけど」


「うん」


「でも、ここは守れた」


「うん」


 アレックスは見張り小屋を見る。


 トマは入口のそばで眠っていた。


 木の棒を抱えたまま。


 妹のミナに背中を向けるようにして、入口を塞ぐ姿勢で眠っている。


 守ると言った場所を、眠っていても守ろうとしている。


 ミナは小屋の奥で毛布にくるまり、熱で赤い頬をしているが、呼吸は昨日より少し落ち着いていた。


 ユミはマーガレットの外套を握ったまま眠っている。


 時折、唇が動く。


 何かを呟いているが、声にはならない。


 それでも、彼女はもう捨て場にはいない。


「マーガレット」


「うん?」


「ありがとう」


「急だね」


「昨日、ここを守ってくれた」


「うん」


「俺とレクスターが捨て場へ行けたのは、マーガレットがここにいたからだ」


 マーガレットは少しだけ目を丸くした。


 そして、照れたように視線をそらす。


「……そういうの、朝から言う?」


「言いたかった」


「ずるいなあ」


「ずるい?」


「うん。そう言われたら、昨日残ってよかったって思っちゃう」


「よかったんだ」


「うん」


 マーガレットは、焚き火の灰を見た。


「本当はね、行きたかった」


「分かってる」


「捨て場って聞いた時、頭が真っ白になった。そんな場所あるの? 人をそんなふうに捨てるの? って。すぐ走りたかった」


「うん」


「でも、ここに残ってた子どもたちの顔を見たら、動けなかった」


 彼女は小さく息を吐く。


「ミナもいた。トマもいた。ルカもいた。名前を言えなかった子も、震えてた大人たちもいた。だから、私がここを離れたら、この人たちはまた怖くなるんじゃないかって思った」


「うん」


「それで分かったんだ」


 マーガレットは、いつもより静かな声で言った。


「戦うって、前に出るだけじゃないんだね」


 アレックスは彼女を見た。


「守るために、その場に残るのも戦いなんだって。昨日、ちょっと分かった」


「……すごいな」


「え?」


「マーガレットは、ちゃんと強くなってる」


 マーガレットの頬が、少し赤くなった。


「な、なにそれ」


「そのままの意味」


「アレックス、朝からそういうのやめて」


「嫌だった?」


「嫌じゃないけど!」


 彼女は慌てたようにハルバードの柄を掴んだ。


「なんか、むずむずする!」


「そうか」


「うん!」


 その時、後ろから冷静な声がした。


「感動的な会話の途中で悪いですが、作戦会議を始めます」


 二人が振り返る。


 レクスターが、水の本と帳簿を抱えて立っていた。


 目の下にうっすら疲れがある。


 だが、表情はいつも通り。


 いや、いつも以上に険しい。


「寝たのか」


 アレックスが聞く。


「四分ほど」


「短い」


「昨日あなたが交渉した時間です」


「本当に四分しか寝なかったのか」


「正確には四分半です」


「増えてない」


「増えています」


 マーガレットが眉を寄せる。


「レクスター、寝なきゃだめだよ」


「あなた方二人に言われたくありません」


「それはそうだけど!」


「ですが、少しだけ休みました。十分ではありませんが、思考に支障はありません」


「ほんと?」


「本当です」


「嘘ついてない?」


「嘘をつくなら、もっと有益な嘘をつきます」


「それはそれで怖い!」


 レクスターは小屋の横にある倒木へ帳簿を置いた。


「全員が起きる前に整理します。今後の動きです」


 アレックスとマーガレットは頷いた。


 朝の冷たい空気の中、三人は倒木を囲むように立つ。


 その周囲では、まだ多くの者が眠っている。


 拘束された裏市の男たちも、木に縛られたままうなだれていた。


 ザイルは意識を失っている。


 だが、傷は致命的ではない。


 マーガレットが加減したからだ。


 太った指揮役の男は、腕の黒い筋がさらに薄くなったが、顔色は悪い。


 彼は半分眠り、半分怯えながら朝を迎えていた。


 レクスターは地図を広げる。


「まず現状。こちらの人数は、私たち三人を除き、解放者九名、捨て場からの救出者七名。合計十六名」


「多いね」


 マーガレットが呟く。


「はい。うち歩行困難が五名、重症が三名、発熱者が四名。まともに長距離移動できる者は少ない」


「このままグレイルへは連れていけない」


 アレックスが言う。


「連れていくべきではありません」


 レクスターは即答した。


「裏市の関係者が町にいる以上、顔を知られている被害者を連れて入るのは危険です。再び狙われる可能性が高い」


「でも、ここも危険」


「はい。昨夜の襲撃で位置は知られました。ザイルたちが戻らなければ、次の追手が来る」


「どれくらいで?」


「早ければ今日の昼過ぎ。遅くとも夜には何か動くでしょう」


 マーガレットが顔をしかめる。


「じゃあ、ここにずっといるのは無理」


「無理です」


「ラドナ村へ戻るのは?」


「距離がある上、村の余力がない。重症者を運ぶには危険です」


「古い礼拝所は?」


 アレックスが聞く。


 その言葉に、三人とも一瞬だけ黙った。


 礼拝所。


 捨て場。


 そこはもう、避難場所ではない。


「論外です」


 レクスターが静かに言った。


「では、選択肢は?」


「一つ。見張り小屋から北東へ少し進んだ場所に、古い炭焼き小屋の跡があります」


「炭焼き小屋?」


「昨夜、捨て場へ向かう途中に地形を確認しました。煙突跡と石積みがありました。小屋が残っているかは不明ですが、谷から外れた位置で、旧街道からも少し離れています」


「そこへ移す?」


「候補です。今の見張り小屋よりは発見されにくい可能性があります」


「可能性」


 マーガレットが不安そうに言う。


「確実ではありません」


「だよね」


「ですが、ここに残るよりは良い」


「そこまで、重症者を運べる?」


「距離は短い。担架を使えば可能です。ただし、敵が来る前に動く必要があります」


 アレックスは小屋を見た。


 眠る人々。


 呼吸の浅いユミ。


 ミナ。


 ルカ。


 リオル。


 名前を聞いた人々。


 移動させるだけでも大変だ。


 だが、ここに残ればもっと危険になる。


「移そう」


 アレックスが言った。


「朝のうちに」


「同意します」


 レクスターが頷く。


「移動後、誰が残るかを決める必要があります」


「残る?」


 マーガレットが聞く。


「被害者たちを隠れ場所へ移したあと、グレイルへ向かう者と、護衛として残る者です」


 空気が重くなる。


 マーガレットはすぐに口を開いた。


「私、残る」


 アレックスが彼女を見る。


「マーガレット」


「残る。昨日も守れた。小屋の人たち、私の顔見たら少し安心してくれると思う。子どもたちもいるし、ユミもミナもいる」


「でも、グレイルは危険だ」


「分かってる」


「マーガレットの力が必要になる」


「分かってる」


 彼女は唇を噛む。


 自分で言いながら、苦しそうだった。


 行きたい。


 当然だ。


 裏市を殴りたい。


 黒外套を追いたい。


 人を荷物と言う連中を許したくない。


 でも、ここにいる人たちを置いていくこともできない。


 アレックスは彼女の葛藤を見ていた。


 レクスターも黙っている。


 マーガレットは拳を握りしめた。


「私、昨日分かったから。残るのも戦いなんだって。だから、残れる」


 声は震えていない。


 でも、胸の奥ではきっと揺れている。


 アレックスは静かに言った。


「ありがとう」


「まだ決定じゃないでしょ」


「うん。でも、言ってくれてありがとう」


 マーガレットは困ったように笑った。


「アレックス、そういうところだよ」


「何が?」


「すぐありがとうって言うところ」


「変かな」


「変じゃない。むずむずする」


「またか」


 レクスターが口を開いた。


「私の考えを言います」


「うん」


「グレイルへ入るのは、アレックスと私。マーガレットは被害者たちの護衛として隠れ場所に残る。これが最も合理的です」


 マーガレットは小さく息を吸った。


 分かっていた答え。


 それでも、言葉にされると重い。


「理由は?」


 アレックスが聞く。


「まず、グレイルでは情報戦になります。裏市、腐敗役人、黒外套、欠片。正面から暴れる段階ではありません。マーガレットの戦闘力は強力ですが、潜入や聞き込みには不向きです」


「ぐっ」


 マーガレットが胸を押さえる。


「分かってるけど刺さる」


「事実です」


「もうちょっと包んで!」


「包むと判断が鈍ります」


「正論!」


 レクスターは続ける。


「次に、被害者たちは精神的に不安定です。マーガレットの存在は彼らの安心材料になっています。特に子どもたち」


 マーガレットは小屋を見る。


 ルカが外套を握って眠っている。


 ユミも、彼女の声に反応していた。


 トマも、マーガレットがいると少しだけ肩の力が抜ける。


「最後に」


 レクスターは少しだけ間を置いた。


「アレックスには、町へ入る必要があります」


「俺?」


「はい。黒外套はあなたを誘っています。グレイルで待っていると言った。なら、町の中で何かを見せるつもりです」


「罠だね」


 マーガレットが言う。


「罠でしょうね」


「でも行く」


 アレックスが答える。


「はい。行かなければ、相手の目的が分からない」


「じゃあ、俺とレクスターで行く」


 アレックスは頷いた。


 マーガレットは少し俯く。


 沈黙。


 森の朝が、ゆっくりと明るくなっていく。


 葉の間から差し込む光が、彼女の桃色の髪を淡く照らした。


「……分かった」


 マーガレットは顔を上げた。


「私は残る」


「マーガレット」


「でも条件」


「何?」


「二人とも、絶対戻る」


 アレックスはすぐに頷いた。


「戻る」


 レクスターも言った。


「戻ります」


「怪我しても戻る」


「可能な限り」


「そこは絶対って言って」


「絶対に戻る努力をします」


「レクスター!」


「私の最大級です」


「ほんと?」


「本当です」


 マーガレットは少しだけ不満そうにしながらも、頷いた。


「じゃあ、それで許す」


 その時、小屋の入口で誰かが動いた。


 トマだった。


 目を覚ましていたらしい。


 棒を抱えたまま、三人を見ている。


「グレイルへ行くのか」


 アレックスが振り向く。


「聞いてた?」


「少し」


「うん。行く」


「俺も行く」


 即答だった。


 マーガレットが慌てる。


「トマ、それは」


「道を知ってる」


「でも危険だよ」


「知ってる」


「ミナは?」


「ミナは……」


 トマは言葉に詰まった。


 小屋の奥で、ミナは眠っている。


 熱は下がりきっていない。


 兄が必要だ。


 それはトマ自身が一番分かっている。


 でも、彼はグレイルのことも知っている。


 捕まった人々のことも知っている。


 何より、置いていかれるのが嫌なのだ。


 自分だけ知らない場所に残されるのが。


「トマ」


 アレックスは膝を折った。


「ミナのそばにいてほしい」


「またそれか」


「うん」


「俺はそればっかりだ」


 トマの声が震える。


「ミナを守れ。待ってろ。ここにいろ。俺だって、何かしたい」


「してる」


「してない!」


「してるよ」


 アレックスは真っ直ぐに言った。


「ミナを守ってる。昨日も小屋の入口に立ってた。怖いのに逃げなかった。ユミにも声をかけてた。子どもたちが泣きそうになると、棒持って立ってた」


「そんなの……」


「それは、ちゃんと戦いだ」


 トマは言葉を失った。


 マーガレットがそっと続ける。


「私も昨日、同じこと思ったよ」


「まーがが?」


「うん。私も行きたかった。でも残った。残って守るの、すごく難しかった」


「まーがでも?」


「私でも」


 マーガレットは笑った。


「だから、トマもすごい」


「……子ども扱いするな」


「してないよ」


「してる」


「してない。守ってる人として言ってる」


 トマの目が揺れた。


 怒り。


 悔しさ。


 認められたい気持ち。


 守りたい気持ち。


 全部が混ざっている。


 レクスターが静かに言う。


「さらに現実的な理由もあります」


「何だよ」


「あなたがグレイルへ入れば、顔を知る者に見つかる可能性があります。追手から逃げた子どもですから」


「……」


「あなたが捕まれば、ミナが危険になります」


「……分かってる」


「なら、ここに残るべきです」


「言い方が嫌いだ」


「結構です。内容が伝われば十分です」


 トマはレクスターを睨んだ。


 だが、反論はしなかった。


 やがて、小さく言う。


「……戻れよ」


 アレックスは頷く。


「戻る」


「また言った」


「うん」


「約束、多すぎる」


「そうだな」


「でも、守れ」


「守る」


 トマは棒を握りしめた。


「ミナは俺が見る。ユミも、ルカも見る。まーがもいるし」


「うん」


「だから、グレイルのやつら、ちゃんと見てこい」


 アレックスは少し笑った。


「分かった」


 朝が進むにつれ、人々が少しずつ目を覚まし始めた。


 最初に起きたのはナージャだった。


 彼女は自分の子どもシアを抱きしめたまま、周囲を見回し、見張り小屋にいることを確認してから、深く息を吐いた。


「……朝」


 その声に、近くの者も目を覚ます。


「朝だ……」


「生きてる……」


「また、朝が来た……」


 小さな言葉が広がっていく。


 昨日まで、彼らにとって朝は保証されたものではなかった。


 檻の中で迎える朝。


 荷車の上で迎える朝。


 捨て場で迎えられなかった朝。


 それが今、焚き火の灰と森の空気の中で訪れている。


 マーガレットが明るい声を出した。


「おはよう!」


 人々は驚いたように彼女を見る。


「おはよう、言える人は言ってみよ!」


「え?」


「朝だから!」


 困惑。


 沈黙。


 やがて、子どもの一人が小さく言った。


「……おはよう」


 マーガレットの顔がぱっと明るくなる。


「おはよう!」


 別の子も言う。


「おはよう……」


「おはよう!」


 大人たちも、少しずつ口を開いた。


「おはよう」


「……おはようございます」


「おはよう」


 見張り小屋の周囲に、ぎこちない朝の挨拶が広がった。


 ただの挨拶。


 けれど、それは人間らしい時間を取り戻すための第一歩だった。


 レクスターはその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「効果的ですね」


 アレックスが言う。


「マーガレットらしい」


「ええ」


「褒める?」


「あとで」


「本人喜ぶぞ」


「調子に乗ります」


「それもマーガレットらしい」


 レクスターは何も言わなかった。


 否定もしなかった。


 その後、三人は被害者たちへ説明をした。


 今の場所が危険であること。


 炭焼き小屋跡へ移動すること。


 マーガレットが護衛として残ること。


 アレックスとレクスターがグレイルへ行き、裏市と欠片について調べること。


 その説明を聞いた人々の間には、不安が広がった。


「ここを離れるのですか」


「また歩くのか」


「グレイルへ行くなんて危険です」


「裏市に見つかったら……」


 当然の反応だった。


 アレックスはひとつひとつ受け止めた。


「無理に急がせません。でも、ここに留まる方が危険です」


「炭焼き小屋が安全かは確認します」


「移動できない人は担架で運びます」


「マーガレットが残ります」


 その最後の言葉に、子どもたちの表情が少しだけ変わった。


「まーが、残るの?」


 ルカが地面に指で書く。


 マーガレットはしゃがみ込んだ。


「残るよ」


 ルカは彼女を見つめる。


 声は出ない。


 けれど、少し安心したように外套を握った。


 ユミも、毛布の中から小さく言った。


「……まーが……いる……?」


「いるよ」


「……おいて……いかない……?」


「置いていかない」


 マーガレットははっきり言った。


「私はここに残る。みんなを守る」


 ユミの目が潤む。


「……うん……」


 ナージャがアレックスへ向き直った。


「あなたは、グレイルへ行くのですね」


「はい」


「夫のこと……」


「カイルさんですね」


 ナージャの目が揺れた。


 昨日、彼女は夫の名を言った。


 アレックスは覚えていた。


「覚えています」


「……ありがとうございます」


「必ず探すとは、簡単には言えません」


 アレックスは正直に言った。


「でも、情報を見つけたら必ず伝えます。手が届くなら、助けます」


 ナージャは涙をこらえながら頷いた。


「それで、十分です」


「いいえ」


 アレックスは静かに首を振った。


「十分ではありません。だから、もっとできるように行きます」


 その言葉に、人々は黙った。


 追放された王子だとは誰も知らない。


 ただの旅人だと思っている。


 でも、その旅人は、重すぎる約束をまた背負おうとしている。


 レクスターが横から低く言った。


「背負いすぎです」


「分かってる」


「分かっていません」


「でも、行くだろ」


「行きます」


「なら一緒だ」


「違います」


「違うか」


「違います。私は背負う量を計算しています」


「俺は?」


「感情で増やしています」


「耳が痛いな」


「痛くするために言っています」


 マーガレットが笑う。


「レクスター、容赦ない」


「必要です」


 移動準備が始まった。


 担架を組み直し、荷物を分け、歩ける者が歩けない者を支える。


 人買いたちは、ザイルを含めて一か所にまとめられた。


 彼らをどうするかも問題だった。


 連れていけば負担になる。


 置いていけば逃げる。


 殺すという選択肢は、誰も口にしなかった。


 レクスターが結論を出した。


「連れていきます。水糸で拘束したまま、炭焼き小屋跡へ。そこで別に縛り直し、情報源として保持します」


「逃げたら?」


 マーガレットが聞く。


「あなたが残るので、逃げないでしょう」


 ザイルがうっすら目を開ける。


 マーガレットと目が合う。


 彼は顔を引きつらせ、すぐに目を閉じた。


 マーガレットはにっこり笑う。


「逃げない方がいいよ」


 誰も反論しなかった。


 出発直前、アレックスは小屋の前に立った。


 この場所も、もう離れなければならない。


 短い時間だった。


 けれど、ここで多くのものがあった。


 名前を呼んだ。


 捨て場から人を連れ戻した。


 襲撃を退けた。


 朝を迎えた。


 ただの古い小屋が、一晩だけ避難所になった。


 誰も捨てないと決めた場所になった。


「……行こう」


 アレックスが言う。


 人々がゆっくり動き出す。


 森の朝の中、弱い行列が進む。


 先頭はレクスター。


 地図と水の本で道を確かめながら。


 中央に怪我人と子どもたち。


 その横にマーガレット。


 後方にアレックス。


 敵の気配を警戒しながら進む。


 炭焼き小屋跡までは長くない。


 だが、足取りは遅い。


 それでも、全員が進んでいた。


 昨日、檻にいた人々。


 捨て場にいた人々。


 その足が、前へ出ていた。


 森の中、ユミが担架の上で小さく呟いた。


「……どこ、いくの……?」


 マーガレットがすぐに答える。


「少し安全な場所」


「……まーがも……?」


「一緒」


「……アレックスは……?」


 アレックスが後ろから近づく。


「ここにいるよ」


「……あとで……いなくなる……?」


 胸が痛んだ。


 アレックスは担架の横を歩きながら、静かに言う。


「グレイルへ行く。でも、戻る」


「……もどる……」


「うん」


「……ほんと……?」


「ほんと」


 ユミは目を閉じた。


「……じゃあ……なまえ……また……よんで……」


「もちろん」


「……ユミ……って……」


「ユミ」


 アレックスは呼んだ。


「ユミ」


 マーガレットも呼ぶ。


「ユミ、ここにいるよ」


 ユミの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 その小さな変化を見て、アレックスは思った。


 名前を呼ぶ。


 ただそれだけのことが、こんなにも大事なのだと。


 やがて、炭焼き小屋跡が見えてきた。


 レクスターの言った通り、石積みの壁が一部残り、古い煙突が斜めに立っている。


 屋根は半分崩れているが、見張り小屋より森の奥に隠れており、周囲から見つかりにくい。


 近くには小さな沢もある。


 水の確保もできそうだった。


「悪くありません」


 レクスターが周囲を確認しながら言った。


「ただし、補強が必要です」


「私がやる!」


 マーガレットが手を上げる。


「壊さないでください」


「分かってる!」


「補強です。破壊ではありません」


「分かってるってば!」


 人々の間から、少しだけ笑いが起きた。


 朝の森に、その笑いが小さく広がる。


 完全な安心ではない。


 でも、昨日より少しだけ生きている音だった。


 午前のうちに、炭焼き小屋跡は簡易避難所になった。


 マーガレットが崩れた木材を運び、壁を支える。


 アレックスが周囲の枝を払う。


 レクスターが沢の水を確認し、煮沸場所を決める。


 歩ける大人たちは、できる範囲で手伝った。


 誰かに守られるだけではなく、自分たちも居場所を作る。


 その作業が、人々の顔に少しずつ力を戻していった。


 そして昼前。


 アレックスとレクスターは、グレイルへ向かう準備を整えた。


 マーガレットは小屋の前に立っていた。


 ハルバードを背に、少しだけ唇を尖らせている。


「……やっぱり行きたい」


 正直な言葉だった。


 アレックスは頷く。


「うん」


「裏市、ぶっ飛ばしたい」


「うん」


「黒外套も殴りたい」


「うん」


「でも残る」


「ありがとう」


「帰ってきたら、絶対話聞かせて」


「もちろん」


「危なかったら呼んで」


「どうやって?」


「大声!」


「届くかな」


「私なら聞こえるかも!」


「その自信はどこから」


 レクスターが冷静に言う。


「物理的に不可能です」


「夢がない!」


「現実です」


 マーガレットは頬を膨らませ、それから二人を見た。


「……ほんとに気をつけて」


 アレックスは頷く。


「行ってくる」


 レクスターも言う。


「留守をお願いします」


「任せて」


 トマがミナのそばから出てきた。


「戻れよ」


「うん」


「ミナが起きたら、そう言っとく」


「頼む」


「ユミにも」


「うん」


「ルカにも」


「うん」


「みんなにも」


「うん」


 トマは少しだけ悔しそうに顔を歪めた。


「約束、多すぎる」


「そうだな」


「でも、守れ」


「守る」


 アレックスはそう言って、森の南西を見た。


 木々の先に、グレイルがある。


 交易町。


 裏市。


 腐敗。


 黒外套。


 欠片。


 そのすべてが待っている。


 アレックスは雷の刃に手を添えた。


 優しさだけでは足りない。


 怒りだけでも足りない。


 守るためには、見なければならない。


 考えなければならない。


 踏み込まなければならない。


「行こう、レクスター」


「はい」


 二人は歩き出した。


 マーガレットは、背後で手を振っている。


 子どもたちも、小さく手を上げていた。


 名前を取り戻した人々が、彼らを見送っている。


 アレックスは一度だけ振り返り、手を上げた。


 そして前を向く。


 森の向こう。


 グレイルの影へ。


 追放王子の放浪記は、また一つ深い闇へ踏み込もうとしていた。

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