【第22話 グレイルの門】
森を抜ける道は、静かだった。
炭焼き小屋跡を背にして歩き出してから、しばらくは誰の声もなかった。
アレックスとレクスター。
二人だけの道。
いつもなら、そこにマーガレットの声があった。
木の根につまずきかけて「今のは地面が悪い!」と言い張る声。
空腹を訴える声。
不意に真剣なことを言って、こちらの胸を刺してくる声。
重すぎる空気を、明るさで少しだけ押し返す声。
その声が、今はない。
森の葉擦れが、やけに大きく聞こえた。
湿った土を踏む音。
遠くの沢の音。
鳥の声。
そして、二人分の足音。
それだけだ。
アレックスは、何度か振り返りそうになった。
炭焼き小屋跡は、もう見えない。
木々の向こうに隠れている。
そこにはマーガレットがいる。
トマがいる。
ミナがいる。
ユミがいる。
ルカがいる。
名前を取り戻した人々がいる。
そして、拘束された人買いたちもいる。
安全とは言い切れない場所だ。
マーガレットは強い。
誰よりも頼りになる。
それでも、アレックスの胸から不安は消えなかった。
「振り返りたいなら、振り返ればいいのでは」
隣を歩くレクスターが言った。
アレックスは苦笑する。
「顔に出てた?」
「出ていました」
「そんなに?」
「何度も背後を意識していました。足取りもわずかに鈍っています」
「よく見てるな」
「見ていなくても分かります」
「それはそれで傷つく」
「現実です」
「いつものやつだ」
レクスターは水の本を片手に、道の先を見ている。
顔色はまだ少し悪い。
夜通し処置を続けた疲労が残っているはずだ。
それでも歩調は乱れない。
背筋も伸びている。
彼は、疲れている時ほど余計に隙を見せない。
そういう人間だった。
「レクスター」
「はい」
「本当に大丈夫か」
「何がですか」
「体調」
「問題ありません」
「そう言うと思った」
「なら聞く必要はありません」
「聞きたかった」
「無意味です」
「無意味でもいい」
レクスターは横目でアレックスを見た。
「あなたは本当に、無駄を大切にしますね」
「無駄かな」
「効率だけで見れば」
「じゃあ、効率以外では?」
レクスターは少しだけ黙った。
歩きながら、落ち葉を踏む音が二人の間に挟まる。
「……悪くはありません」
「それ、かなり褒めてる?」
「解釈は任せます」
「じゃあ褒めてることにする」
「勝手にしてください」
アレックスは笑った。
笑い声は小さい。
けれど、森の空気を少しだけ軽くした。
それでもすぐに、胸の奥へ別の重さが戻ってくる。
グレイル。
交易町。
裏市。
黒外套。
欠片。
人買いの帳簿。
捨て場。
そこへ向かっている。
しかも、マーガレットなしで。
「……やっぱり、マーガレットがいないと静かだな」
アレックスが言った。
「そうですね」
レクスターは即答した。
「やはりそう思うか」
「彼女の声量は通常時でも大きいので」
「そこ?」
「そこもあります」
「他には?」
「空気の圧が違います」
「圧?」
「彼女は良くも悪くも場の空気を変えます。沈んでいる場所に踏み込んで、強引に呼吸を通す力がある」
アレックスは少し驚いた。
「すごく褒めてるな」
「評価です」
「本人に言えば喜ぶ」
「言いません」
「なぜ」
「調子に乗ります」
「言うと思った」
レクスターは淡々と続ける。
「ですが、今回は残すべきでした」
「分かってる」
「彼女がいれば、被害者たちの不安は軽減される。襲撃があっても防衛できる。子どもたちも彼女を信頼し始めている」
「うん」
「それに」
レクスターは少しだけ言葉を切った。
「私たちが戻る理由にもなる」
アレックスは足を止めかけた。
レクスターは前を向いたままだ。
今の言葉を、何でもないことのように言った。
けれど、アレックスには分かった。
それはレクスターなりの本音だった。
「戻る理由か」
「はい」
「ラドナ村にも戻る。炭焼き小屋にも戻る。約束だらけだ」
「あなたが増やすので」
「ごめん」
「謝罪は不要です。事実確認です」
「でも、レクスターももう増やしてるだろ」
「私は計算しています」
「そうかな」
「そうです」
「本当に?」
「……ある程度は」
アレックスは少し笑った。
「珍しく弱まった」
「疲れているのかもしれません」
「やっぱり休んだ方が」
「今のは冗談です」
「レクスターが冗談?」
「撤回します」
「撤回しなくていい」
森の道は、少しずつ開けていった。
木々の密度が薄くなる。
湿った土の匂いに、乾いた砂と煙の匂いが混じり始める。
遠くから、人の気配がした。
荷車の車輪の音。
馬のいななき。
人の話し声。
木を打つ音。
そして、かすかな鉄の匂い。
町が近い。
アレックスは自然と姿勢を正した。
レクスターも地図をしまい、水の本を外套の内側へ隠す。
「ここからは目立たないように」
レクスターが言った。
「分かった」
「王族らしさを消してください」
「またそれか」
「重要です」
「具体的には?」
「堂々としすぎない。人の目を真っ直ぐ見すぎない。困っている人を見つけても即座に駆け寄らない。財布を見せない。丁寧すぎる言葉遣いを避ける」
「多いな」
「あなたに必要な注意事項です」
「全部できるかな」
「信用度四割です」
「低い」
「マーガレットよりは高いです」
「それは褒めてる?」
「比較対象が悪いだけです」
アレックスは苦笑した。
「じゃあ、普通の旅人っぽくする」
「疲れた旅人です」
「疲れは本物だ」
「なら半分は成功です」
「嬉しくない成功だな」
森を抜けると、道が広くなった。
古い街道の石畳が再び姿を見せる。
ラドナ村側よりは整っている。
荷車が通った跡もある。
しかし、王都近郊の道とは違い、ところどころに亀裂があり、脇には捨てられた木箱や割れた樽が転がっていた。
道の先に、町が見えた。
グレイル。
小さな交易町と聞いていた。
だが、想像より大きい。
木と石で作られた外壁が町を囲み、入口には簡素な門がある。
門の前には荷車が数台並び、旅人や商人らしき者たちが順番を待っていた。
外壁の内側からは、煙がいくつも上がっている。
鍛冶場。
料理場。
染物屋。
生活の煙。
ぱっと見れば、活気のある町だ。
だが、何かが違った。
アレックスは門の前で足を止めた。
「……変だな」
「気づきましたか」
レクスターが低く言う。
「人は多い。でも声が低い」
「はい」
グレイルの門前には人がいる。
荷車もある。
商人もいる。
なのに、どこか押し殺したような空気があった。
王都の市場のような、値段を巡る明るい怒鳴り声がない。
旅人同士の軽口も少ない。
人々は話している。
けれど、声を抑えている。
周囲を気にしている。
誰が聞いているかを恐れているように。
「交易町なのに、商人が楽しそうじゃない」
アレックスが言う。
「的確です」
「褒めた?」
「観察として正しいという意味です」
「それは褒めてる」
「解釈は任せます」
門のそばには、警備兵が二人立っていた。
片方は中年。
もう片方は若い。
服装は町の警備隊のものだろう。
だが、手入れが行き届いているとは言いづらい。
革鎧は傷だらけで、剣の柄には汚れがこびりついている。
中年の警備兵は、門を通る商人から何かを受け取っていた。
小袋。
硬貨だ。
それを何の隠しもなく懐へ入れる。
若い警備兵は、それを見て見ぬふりをしていた。
レクスターの目が冷える。
「腐敗の匂いがしますね」
「もう?」
「門前で賄賂が当然のように行われています。隠す気が薄い。つまり、日常化している」
「町に入るだけで?」
「ええ」
「どうする」
「普通に並びます」
「賄賂は?」
「払わない方向で様子を見ます。ただし、揉めないように」
「俺が?」
「はい」
「できるかな」
「信用度三割です」
「下がった」
「相手が不当な要求をした場合、あなたは顔に出ます」
「出さない努力をする」
「努力では足りません」
「じゃあどうすれば」
「私が話します」
「最初からそう言えばいいのに」
「あなたが黙っていられるか確認しました」
「ひどい」
列に並ぶ。
前には、干し魚を積んだ荷車。
後ろには、薬草を背負った老女と少年。
門前には、重い空気が漂っている。
時折、門の内側から笑い声が聞こえる。
だが、その笑い声はどこか乾いていた。
心からのものではなく、場を壊さないための笑い。
そんなふうに感じる。
アレックスは周囲を見る。
荷車の陰で、痩せた男が腕を押さえている。
袖口から黒い筋が見えた気がした。
思わず視線が止まる。
男はそれに気づくと、慌てて袖を下ろし、顔を背けた。
「見すぎです」
レクスターが小声で言う。
「今の」
「分かっています」
「欠片の影響か」
「可能性があります」
「町の中にも広がってる?」
「その可能性を考えるべきです」
「……」
「顔に出ています」
「分かってる」
「分かっていません」
順番が近づく。
前の商人が警備兵へ小袋を渡し、何事もなく通される。
中年警備兵は、次にアレックスたちを見た。
目が上から下へ動く。
外套。
荷物。
武器。
アレックスの顔。
レクスターの眼鏡。
そして、二人の雰囲気。
警備兵の目が少しだけ細くなった。
「旅人か」
レクスターが答える。
「はい」
「どこから」
「東の村の方から」
「ラドナか」
アレックスの胸がわずかに揺れた。
レクスターは表情を変えない。
「その方面です」
「曖昧だな」
「森を抜けてきたので」
「森を?」
警備兵の目が鋭くなる。
「旧街道を通ったのか」
「はい」
「何か見たか」
問い方が変だった。
ただの確認ではない。
何かを探っている。
レクスターは淡々と答える。
「倒木と壊れた荷車をいくつか」
「人は?」
「見かけませんでした」
嘘ではない。
今この場で言うべき人は、見かけていないことにする。
レクスターの声は揺れない。
警備兵はしばらく二人を見た。
「通行税だ」
「いくらですか」
「二人で銀貨四枚」
後ろの老女が小さく息を呑んだ。
高い。
アレックスにも分かった。
一般的な通行税としては明らかに不自然だ。
レクスターの目が少しだけ冷える。
「掲示には一人銅貨五枚とありますが」
門の横の板には、確かにそう書かれていた。
警備兵の顔が歪む。
「森越えの旅人は別だ」
「その記載はありません」
「今決めた」
アレックスの手がわずかに動いた。
レクスターが小さく足で制す。
黙っていろ、という合図。
「では、森越え追加税の正式な記録をいただけますか」
レクスターが言った。
警備兵の眉が跳ねる。
「あ?」
「後で宿へ提出する必要がありますので。町の規定であれば、簡易の受領書は発行されるはずです」
「面倒な奴だな」
「仕事なので」
「何の仕事だ」
「記録係です」
レクスターは平然と嘘をついた。
アレックスは内心で少し驚く。
レクスターは嘘が上手い。
というより、嘘を事実のように扱うのが上手い。
警備兵は舌打ちした。
「……銅貨十枚でいい。さっさと行け」
「ありがとうございます」
レクスターは銅貨を払い、受け取った札を懐にしまう。
アレックスは黙って頭を下げた。
頭を下げるだけに留めた。
余計なことを言わない。
それだけで、レクスターからの信用度が少し上がる気がした。
門をくぐる。
グレイルの町の中へ入る。
最初に感じたのは、匂いだった。
焼いた肉。
古い油。
馬糞。
鍛冶場の鉄。
染料。
酒。
そして、その下に隠れるような湿った臭気。
人の多い町特有の匂い。
だが、それだけではない。
アレックスは眉をひそめる。
「鉄の匂いがする」
「はい」
レクスターも低く答える。
「ラドナ村、欠片、捨て場と同種のものが薄く混じっています」
「町全体に?」
「部分的に。風の流れから見て、南区か地下水路付近でしょう」
「地下水路」
「裏市がありそうな場所ですね」
町の通りは、表面上は賑わっていた。
露店が並び、荷車が通り、商人が客を呼び込んでいる。
だが、やはり声は低い。
客も店主も、時折周囲を気にする。
通りの角には警備兵がいる。
店主は彼らを見るたび、笑顔を作り直す。
子どもが走りかけると、母親が慌てて腕を掴み、路地へ引き戻した。
町は動いている。
だが、生き生きとはしていない。
何か大きな手に、首元を掴まれたまま生活しているような空気だった。
「嫌な町だな」
アレックスが小声で言う。
「まだ入口です」
レクスターが答える。
「この時点で嫌なのか」
「はい」
「正直だな」
「現実です」
二人は通りを歩く。
目立たないように。
ただの旅人として。
まず宿を探す。
情報を集めるには、拠点が必要だ。
だが、宿も選ぶ必要がある。
裏市と繋がっている宿に泊まれば危険。
警備隊に近すぎても危険。
かといって外れすぎれば狙われやすい。
レクスターは周囲の看板を見ながら、歩く速度を調整していた。
「宿は三種類あります」
「三種類?」
「商人向けの高い宿。労働者向けの安宿。裏の連中が使う半ば溜まり場の宿」
「どれがいい」
「高い宿は目立つ。安宿は情報が多いが治安が悪い。溜まり場は論外」
「じゃあ安宿?」
「比較的まともな安宿を選びます」
「見分けられる?」
「ある程度は」
「すごいな」
「観察です」
その時、通りの向こうで騒ぎが起きた。
小さな露店の前。
若い男が警備兵に胸ぐらを掴まれている。
周囲の人々は見ているが、誰も近づかない。
「だから払ったって言ってるだろ!」
若い男が叫ぶ。
警備兵は冷たい顔で言う。
「場所代が足りねえんだよ」
「昨日払った!」
「今日は今日だ」
「そんなの無茶だ!」
警備兵が男を殴った。
鈍い音。
男が地面へ倒れる。
周囲の人々は、目をそらした。
アレックスの足が止まる。
レクスターが小声で言った。
「動かないでください」
「でも」
「ここで動けば、私たちは目立ちます」
「……」
「助けたいなら、今ではありません」
「今殴られてる」
「見えています」
「レクスター」
「見えています」
レクスターの声も、冷たく震えていた。
彼も平気ではない。
それでも止めている。
若い露店主は、地面に手をつきながら歯を食いしばっていた。
警備兵がさらに蹴ろうと足を上げる。
アレックスの指が、雷の刃の柄へかかる。
その瞬間、別の声がした。
「その辺にしときなよ」
軽い声。
通りの反対側から、一人の女性が歩いてきた。
年は二十代半ばほど。
短い栗色の髪。
腰には短剣。
服装は旅装にも町人にも見える。
目元は笑っているが、笑みの奥が読めない。
彼女は片手に小袋を持ち、警備兵へ投げた。
「今日の分でしょ」
警備兵は小袋を受け取り、中を確認する。
「……足りる」
「なら仕事終わり。通りの邪魔だよ」
「お前、口に気をつけろよ」
「気をつけてるから、この程度で済ませてる」
警備兵は舌打ちした。
だが、それ以上は何もせず離れていく。
周囲の人々が、ほっと息を吐いた。
女性は倒れた露店主を起こす。
「立てる?」
「す、すみません、エイナさん……」
「謝るなら商売で返しな。今日はもう店閉めた方がいい」
「でも」
「閉めな」
その声に、露店主は黙って頷いた。
エイナと呼ばれた女性。
彼女は周囲を軽く見回し、ふとアレックスたちの方を見た。
目が合う。
アレックスは一瞬だけ動きを止めた。
見られていた。
警備兵を止めようとしていたのを、見抜かれたかもしれない。
エイナは、にこりと笑った。
そして、歩いてくる。
レクスターの気配が鋭くなる。
「警戒を」
「うん」
エイナは二人の前で止まった。
「旅人さん?」
アレックスは自然に頷く。
「はい」
「この町、初めて?」
「はい」
「じゃあ忠告」
彼女は笑ったまま言った。
「今みたいなの見ても、すぐ手を出さない方がいいよ」
アレックスの胸が跳ねる。
やはり見抜かれていた。
レクスターが淡々と返す。
「なぜそう思うのですか」
「お兄さん、顔に出てたから」
エイナはアレックスを見る。
「助けたいって顔」
「……そんなに出てましたか」
「うん。めちゃくちゃ」
レクスターが小さく言う。
「やはり」
「やはりって言うな」
エイナは楽しそうに目を細めた。
「そっちのお兄さんは冷静そうだね。眼鏡の方」
「どうも」
「褒めてないよ?」
「分かっています」
「面白いね」
彼女は一歩近づき、声を少し落とした。
「グレイルで正義感を見せると、すぐ食われる」
その言葉は、昨日人買いの男が言ったものと似ていた。
優しい奴から死ぬ。
正直な奴から食われる。
アレックスは静かに問う。
「この町では、それが普通なんですか」
「普通になっちゃってる」
エイナの笑みが少しだけ薄くなる。
「嫌な話だけどね」
「あなたは」
レクスターが口を開く。
「何者ですか」
「ただの小間使い」
「小間使いにしては、警備兵が引きました」
「顔が広いだけ」
「裏市の人間ですか」
空気が一瞬だけ止まった。
通りの喧騒が遠くなる。
エイナは笑顔のまま、レクスターを見た。
「いきなり切り込むね」
「時間が惜しいので」
「嫌いじゃないよ」
「私は好きではありません」
「だろうね」
エイナは肩をすくめた。
「半分当たり。半分外れ」
「どういう意味です」
「裏市を知ってる。でも、裏市の味方じゃない」
アレックスとレクスターは黙った。
信じるには早い。
疑うには情報が足りない。
エイナは二人の反応を見て、少しだけ真面目な声になった。
「森で何か見た?」
アレックスの表情が動きかける。
レクスターが先に答えた。
「倒木と壊れた荷車を」
「門でもそう言った?」
「はい」
「上手いね」
「必要なので」
エイナは低く言った。
「人買いの橋、潰したのはあなたたち?」
アレックスの手が、わずかに動いた。
レクスターの目が細くなる。
「なぜそう思うのですか」
「橋の連中が戻らない。町に処理班が出た。でも、その処理班も戻ってない」
「詳しいですね」
「顔が広いから」
「便利な言葉です」
「でしょ」
エイナはアレックスを見る。
「もし、何も知らない旅人なら、今の話は忘れて宿を探しな。安宿なら“銀兎亭”がまだまし」
「もし、知っている旅人なら?」
アレックスが聞いた。
エイナは、ほんの少し笑みを消した。
「夕方、南区の古い染物倉庫に来な」
「罠では?」
レクスターが問う。
「罠かもね」
「正直ですね」
「この町で安全を約束する奴は信用しない方がいい」
エイナは再び軽い笑みを浮かべた。
「でも、あなたたちが裏市を探ってるなら、たぶん来る」
「なぜ」
「顔に出てるから」
そう言って、彼女はアレックスを指した。
「助けたいって顔。怒ってるって顔。放っておけないって顔」
「……」
「隠すの下手だね」
レクスターがため息をつく。
「私の指摘が証明されました」
「今そこか」
「重要です」
エイナは笑った。
「じゃ、またね。来るなら一人か二人で。大人数はなし。まあ、そもそも二人しかいないみたいだけど」
「なぜ分かる」
アレックスが聞く。
エイナは振り返らず、手だけ振った。
「三人旅なら、一人足りない顔してる」
その言葉を残して、彼女は人混みの中へ消えた。
アレックスはしばらく、その背中が消えた方を見ていた。
レクスターは周囲を確認する。
「尾行は?」
「今のところなし。ただし、彼女自身が接触してきたことは想定外です」
「信用できると思う?」
「現時点では不可」
「でも、裏市の情報は持ってる」
「持っているでしょう」
「罠の可能性」
「高い」
「行くべきか」
「行くべきです」
即答だった。
アレックスは少し驚く。
「罠かもしれないのに?」
「罠でも、情報があります。こちらの存在をすでに知られている可能性も高い。なら、受け身より能動的に動くべきです」
「レクスターらしい」
「ただし、準備してからです」
「まず宿?」
「はい。銀兎亭を確認します。エイナが紹介した宿なら警戒すべきですが、逆に選択肢として使えます」
「難しいな」
「グレイルでは、簡単なものほど危険です」
二人は再び歩き出した。
通りには人がいる。
声もある。
商売もある。
だが、町全体を覆う薄い恐怖は消えない。
その上を、エイナという女の言葉が漂っている。
裏市を知っている。
味方ではない。
南区の古い染物倉庫。
夕方。
罠かもしれない。
それでも、行かなければならない。
アレックスは懐にしまったダンのお守りに触れた。
そして、次にユミの声を思い出した。
なまえ、またよんで。
戻る約束。
増え続ける名前。
背負った灯り。
そのすべてが、彼の足を進ませる。
「レクスター」
「はい」
「この町、変えることになるかもしれない」
「また大きく出ましたね」
「大きすぎるかな」
「かなり」
「でも、このままは嫌だ」
「同感です」
レクスターは静かに言った。
「この町は、腐っています」
「うん」
「腐った部分を切れば、出血します。切り方を誤れば、町そのものが壊れる」
「それでも?」
「切らなければ、もっと腐る」
アレックスは頷いた。
「じゃあ、切ろう」
「慎重に」
「うん」
「本当に慎重に」
「分かってる」
「信用度五割です」
「少し上がった」
「グレイルに入ってから、今のところ我慢しているので」
「評価されてた」
「ただし、夕方までに下がる可能性があります」
「努力する」
「その言葉が不安です」
二人は、銀兎亭の看板を見つけた。
通りの端にある、古い木造の宿。
派手さはない。
だが、入口は掃除されており、窓も割れていない。
安宿としては悪くなさそうだった。
看板には、銀色に塗られた兎の絵。
少し剥げている。
アレックスは扉の前で立ち止まった。
「ここからだな」
「はい」
「宿を取って、情報を整理して、夕方に倉庫へ」
「その前に町の南区を確認します」
「分かった」
「そして、あなたは目立たないように」
「分かってる」
「困っている人を見ても、即座に動かない」
「……分かってる」
「今の間は何ですか」
「努力する間」
「やはり不安です」
アレックスは苦笑した。
そして、扉を開けた。
銀兎亭の中から、古い木の匂いと、薄い麦酒の匂いが流れてくる。
奥では、宿の女将らしき人物が、二人をちらりと見た。
その視線は、ただの客を見るものではなかった。
値踏み。
警戒。
そして、ほんのわずかな同情。
グレイルの町は、入口からすでに試してきている。
アレックスはそれを感じながら、静かに一歩を踏み入れた。
黒外套が待つ町。
裏市が人を喰う町。
優しさが弱点になる町。
それでも、彼は進む。
灯りを守るために。
そして、奪われた名前を、もう一度呼ぶために。




