【第19話 名前を呼ぶ夜】
見張り小屋の夜は、終わらなかった。
空はまだ黒い。
森はまだ深い。
焚き火は弱く揺れ、湿った空気の中で橙色の光を小さく震わせている。
けれど、その小さな灯りの周りには、さっきまでとは違う熱があった。
檻から解放された者たち。
捨て場から連れ戻された者たち。
それを支える者たち。
誰も十分に眠っていない。
誰も完全には安心できていない。
それでも、見張り小屋の周囲は動いていた。
「水、もう少し温めて!」
「毛布、こっちに!」
「この子、震えてる!」
「足元気をつけて! 火に近づけすぎないで!」
マーガレットの声が、夜の中を走っていた。
いつもの明るさとは違う。
必死だった。
けれど、混乱してはいない。
彼女は大地のハルバードを小屋の壁に立てかけ、両手を空けて動き回っていた。
小さなユミを寝かせる場所を作り、リオルの身体を支え、熱を出している者に水を渡し、震える子どもに自分の外套をかける。
力がある。
だから運べる。
声が明るい。
だから人が少しだけ顔を上げる。
そして、感情が強い。
だから、誰かの痛みを見逃せない。
「ユミ、大丈夫? ここ、ちょっと温かいよ」
マーガレットは、小屋の奥に寝かされた少女のそばへ膝をついた。
ユミはアレックスが捨て場から抱えてきた子だった。
小さな身体。
細い腕。
首元まで走る黒い筋。
熱に浮かされ、何度も薄く目を開けては、また閉じる。
「……まーが……?」
ユミがかすれた声で呟いた。
マーガレットの顔が、少しだけ泣きそうに揺れた。
「うん。マーガだよ」
「……くらい……?」
「今は暗いけど、火があるよ。ほら、あったかい」
「……すてられ……ない……?」
その言葉に、マーガレットの息が止まった。
捨てられない。
その一言が、小さな身体からこぼれるには重すぎた。
マーガレットは、ユミの手を両手で包んだ。
黒い筋に直接触れないよう、布越しに。
でも、温もりだけは伝わるように。
「捨てない」
彼女は、はっきり言った。
「絶対捨てない。ここにいる人、誰も捨てない」
「……ほんと……?」
「ほんと」
「……うそ、じゃ……ない……?」
「うそじゃない」
ユミの目元から涙が滲んだ。
声も出ないほど弱っているのに、涙だけはこぼれた。
マーガレットは唇を噛みしめる。
怒鳴りたかった。
誰がこの子に、こんな言葉を覚えさせたのかと。
誰がこの子を、捨てられる側にしたのかと。
けれど、今ここで怒りを爆発させれば、ユミを怖がらせる。
だから飲み込んだ。
喉が痛くなるほど、奥歯を噛んで飲み込んだ。
「ねえ、ユミ」
「……なあに……?」
「名前、呼んでいい?」
「……なまえ……?」
「うん。ユミって、いっぱい呼ぶ。そしたら、ここにいるって分かるでしょ」
ユミは、ぼんやりとマーガレットを見つめた。
少し遅れて、弱く頷く。
「……うん……」
「ユミ」
マーガレットは呼んだ。
「ユミ」
もう一度。
「ユミ、ここにいるよ」
ユミの唇が震えた。
「……いる……」
「うん。いる」
「……わたし……いる……?」
「いるよ」
マーガレットの声が震えた。
「ちゃんといる。ここにいる」
小屋の中にいた者たちは、誰も声を出さなかった。
ミナも目を覚まして、毛布の中からこちらを見ている。
トマは入口のそばで、木の棒を抱えたまま黙っていた。
檻から解放された子どもたちも、焚き火の近くから小屋の中を見ていた。
名前を呼ばれること。
自分がここにいると確認されること。
それが、これほど大きな意味を持つ夜だった。
外では、レクスターが処置を続けていた。
水の本は開かれたまま。
ページから淡い光が漏れ、彼の指先に細い水糸が絡んでいる。
彼はひとりずつ状態を見ていた。
熱。
呼吸。
出血。
黒い筋の深さ。
欠片による汚染の進行。
優先順位を決め、処置をしていく。
冷静に。
無駄なく。
けれど、休まずに。
「レクスター」
アレックスが声をかけた。
彼は返事をしなかった。
リオルの腕に浮いた黒い筋へ、水の術式を重ねている最中だった。
水の輪がゆっくりと腕を巡る。
黒い筋は完全には消えない。
だが、脈打つような動きは弱まっていた。
「……よし」
レクスターが小さく息を吐く。
その瞬間、彼の身体がわずかに揺れた。
アレックスはすぐに支えた。
「休め」
「まだです」
「休め」
「まだ処置が残っています」
「倒れたら処置できない」
レクスターは眼鏡の奥からアレックスを見た。
いつもならすぐに皮肉が返ってくる。
けれど、今は返ってこなかった。
疲れている。
それが分かった。
彼は表情を崩さない。
声も乱さない。
だが、指先が少し震えていた。
水の本を支える手に、疲労が滲んでいる。
「……五分」
アレックスが言った。
「五分だけ目を閉じろ。その間、俺ができることをする」
「あなたに処置は任せられません」
「水を渡す。毛布をかける。怪我人が動かないよう見る。そのくらいならできる」
「……」
「レクスター」
アレックスは少しだけ声を柔らかくした。
「頼む。お前が倒れたら、みんな困る」
レクスターは長く沈黙した。
焚き火の音。
誰かの咳。
ユミを呼ぶマーガレットの声。
それらが夜に混ざる。
やがて、レクスターは小さく息を吐いた。
「三分です」
「五分」
「三分」
「間を取って四分」
「……四分で」
「よし」
「交渉成立のように言わないでください」
ようやく少しだけ、いつもの調子が戻った。
アレックスは笑う。
「座れ」
「命令口調ですか」
「お願いだ」
「最初からそう言ってください」
レクスターは焚き火のそばに腰を下ろした。
水の本を膝に置き、目を閉じる。
それでも、完全には休まない。
耳は周囲を聞いている。
気配も探っている。
そういう人間だ。
アレックスは水袋を手に取り、次の負傷者のところへ向かった。
リオルは横になっていた。
捨て場で名前を呼ばれて泣いた男。
肩に傷があり、足も痛めている。
だが意識はある。
「水、飲めるか」
アレックスが聞く。
リオルは弱く頷いた。
アレックスは少しずつ飲ませる。
リオルは喉を鳴らし、息を整えた。
「……本当に、戻ったな」
「見張り小屋に?」
「ああ」
「言っただろ」
「言う奴は、いた」
「そうか」
「でも、戻らなかった」
「……そうか」
リオルは天井のない夜空を見た。
小屋の外に寝かされているため、木々の隙間から星が見える。
「俺は、グレイルの外れで捕まった」
「グレイルの人か」
「いや、旅の荷運びだ。町へ入る前に襲われた」
「家族は?」
リオルは少し黙った。
「妹がいる」
「どこに」
「東の村に。帰る途中だった」
「名前は?」
「……ミリア」
リオルの声が震えた。
「ミリア。十二だ」
「覚えておく」
アレックスが言うと、リオルは目を閉じた。
「お前は、何でも覚えると言うな」
「忘れたくないんだと思う」
「苦しくなるぞ」
「もう苦しい」
リオルはかすかに笑った。
「変な奴だ」
「よく言われる」
「だろうな」
その会話を、少し離れたところで聞いていた解放者たちが、ひとり、またひとりと自分の名前を口にし始めた。
「……私は、ナージャ」
「俺は、ベルク」
「この子は、シアです」
「息子の名は、トール……」
誰に求められたわけでもない。
けれど、名前を言いたくなったのだ。
商品ではない。
荷ではない。
番号ではない。
自分たちには名前がある。
その当たり前を、取り戻すために。
アレックスはひとりずつ聞いた。
頷いた。
繰り返した。
「ナージャさん」
「ベルクさん」
「シア」
「トール」
呼ぶたびに、誰かの顔が少しだけ歪む。
泣きそうになり、堪え、でも堪えきれず涙を落とす。
マーガレットも小屋の中から出てきて、その輪に加わった。
「私はマーガレット! マーガでいいよ!」
少しだけ明るい声。
「こっちはアレックス! こっちはレクスター!」
レクスターは目を閉じたまま言う。
「寝ています」
「起きてるじゃん!」
「休息中です」
「紹介くらいいいでしょ」
「名前を雑に扱わないでください」
「雑じゃないよ。大事だから呼んだの」
レクスターは目を開けた。
マーガレットを見る。
少しだけ、何かを言い返そうとして。
やめた。
「……なら、構いません」
「やった」
マーガレットは笑った。
子どもたちにも名前を聞く。
答えられる子は答えた。
答えられない子には無理に聞かなかった。
声が出ない子には、マーガレットが「じゃあ今は、外套ちゃんって呼んでもいい?」と聞き、子どもが小さく首を横に振る。
「あ、嫌だった?」
子どもは少し迷い、地面に指で文字を書いた。
震える指で。
ゆっくりと。
――ルカ。
マーガレットは目を見開いた。
「ルカ」
子どもは小さく頷いた。
「ルカだね」
もう一度頷く。
「教えてくれてありがとう」
ルカの目に涙が浮かんだ。
声は出ない。
でも、名前は戻った。
それだけで十分だった。
見張り小屋の周囲に、名前が増えていく。
暗い森。
弱い焚き火。
傷だらけの人々。
それでもそこは、少しだけ人間の場所に戻り始めていた。
だが、その温かさの外側で、現実は待っている。
レクスターは四分どころか三分ほどで立ち上がった。
「まだ早い」
アレックスが言う。
「十分です」
「十分じゃない」
「最低限です」
「レクスター」
「情報整理をします」
彼は帳簿と、人買いの証言を書き留めた紙を広げた。
「まず、現状。ここには檻から解放した者が九名。捨て場から連れ戻した生存者七名。合計十六名。うち重症三名、発熱者四名、歩行困難者五名」
「多いね」
マーガレットが呟く。
「はい」
「この人数でグレイルに行くのは?」
「危険です」
「ラドナ村へ戻るのは?」
「距離、食料、村の余力を考えると現実的ではありません」
「じゃあどうする」
アレックスが聞く。
レクスターは地図を示す。
「見張り小屋に長居はできません。人買いの仲間が戻らないことに気づけば、捜索が来る可能性がある。捨て場も発見されれば、こちらの存在が露見します」
「安全な場所がない」
「はい」
「でも動かすにも危険」
「はい」
マーガレットが頭を抱える。
「うう、詰んでない?」
「詰んではいません。ただ、選択肢がどれも悪いだけです」
「それ詰みに近くない!?」
「近いですが違います」
レクスターは冷静に続ける。
「選択肢一。全員でグレイル近くまで移動し、町外の廃倉庫などを探して隠れる。危険は高いが情報収集に近い」
「却下寄りだね」
アレックスが言う。
「重症者が耐えられない」
「同意します」
「二つ目は?」
「ここで待機し、私たち三人のうち誰かがグレイルへ偵察へ行く」
「誰か?」
「理想は私です」
マーガレットが即座に反応する。
「レクスターひとりはだめ」
「なぜ」
「疲れてる」
「問題ありません」
「ある」
「ない」
「ある!」
マーガレットは珍しく強い声で言った。
「さっき倒れそうだったでしょ!」
「倒れていません」
「倒れそうだった!」
「それは主観です」
「アレックス!」
アレックスは頷いた。
「俺も同意。レクスターひとりはだめだ」
「……」
レクスターは眼鏡を押し上げる。
「では、アレックスと私で偵察」
「それもだめ」
マーガレットが言う。
「ここ誰が守るの?」
「あなたです」
「守る。でも二人ともいなくなるのは危ない」
「では」
レクスターは一瞬黙った。
そして、現実的に言う。
「今夜は動かない」
アレックスとマーガレットが彼を見る。
「今夜は処置と休息を優先。夜明け前に周辺確認。朝、比較的歩ける者を中心に小屋周辺の防衛位置を整える。その後、昼にグレイル方向へ小規模偵察」
「黒外套は?」
「逃げます」
はっきり言った。
マーガレットが悔しそうに唇を噛む。
「でも、ここを捨てて追えば、今度は私たちがこの人たちを捨てることになります」
その言葉に、全員が黙った。
捨てる。
この夜に、その言葉は重すぎた。
アレックスはゆっくり頷く。
「追わない」
「アレックス」
「今夜は、この人たちを守る」
彼の声は静かだった。
「黒外套は追う。欠片も取り戻す。グレイルにも行く。でも、今ここにいる人たちを置いていかない」
マーガレットが深く頷いた。
「うん」
レクスターも目を閉じる。
「それが最善です」
「レクスター的には?」
「非常に面倒ですが」
「だろうな」
「しかし、正しい」
その一言で、アレックスの胸に少しだけ力が戻った。
その時だった。
森の奥で、低い笛の音がした。
ぴぃ、と。
短く。
鋭く。
全員が止まった。
マーガレットがハルバードを掴む。
アレックスが雷の刃に手を添える。
レクスターが水の本を開く。
解放された人々が怯え、子どもたちが毛布を握る。
トマが小屋の入口に立ち、ミナを背に庇った。
「……今の」
マーガレットが低く言う。
「合図ですね」
レクスターの声が冷える。
「どこから」
「南東。古い橋の方向」
「人買いの仲間?」
「可能性が高い」
また笛が鳴った。
今度は二度。
それに応えるように、遠くで別の音が返った。
森の奥に、複数の気配がある。
人買いたちの戻りが遅いことに気づいたのか。
黒外套の仕込みか。
あるいは、グレイル側の追手か。
分からない。
だが、近づいている。
マーガレットがハルバードを肩に担ぐ。
「守るんだよね」
「うん」
アレックスは雷の刃を抜いた。
鞘鳴りが、夜に静かに響く。
「ここを守る」
レクスターが水の本を開く。
「防衛線を作ります。マーガレット、正面。アレックス、右側の林。私は左と後方を見ます」
「了解!」
「小屋の中の者は絶対に外へ出ないように」
トマが叫ぶ。
「俺も戦う!」
「トマ」
アレックスが振り返る。
「ミナを守ってくれ」
「でも!」
「それが一番大事だ」
トマは歯を食いしばった。
小さな手が棒を握りしめる。
「……分かった」
「頼む」
「戻れよ」
「戻る」
笛の音が、また鳴った。
今度は近い。
森の闇の向こうで、松明の光が揺れた。
一つ。
二つ。
三つ。
もっとある。
見張り小屋の周りに、緊張が走る。
傷ついた人々。
名前を取り戻した人々。
捨て場から戻った人々。
そのすべてを背に、三人は立った。
小さな灯りの前に。
森の闇へ向かって。
マーガレットが深く息を吸う。
「ねえ、アレックス」
「うん」
「今度は壊していい?」
アレックスは少しだけ笑った。
「人に当てすぎない範囲で」
「難しい!」
レクスターが冷静に言う。
「敵だけを壊してください」
「それなら得意!」
「本当に?」
「たぶん!」
「不安ですね」
こんな時でも、ほんの少しだけ空気が動いた。
アレックスは刃を構える。
胸の中の重さは消えない。
約束も増えた。
守るものも増えた。
それでも、今ここで立つ理由は明確だった。
誰も捨てない。
誰も荷にはしない。
誰も名前を奪わせない。
松明の光が近づいてくる。
森の夜が、再び刃の気配を帯びる。
アレックスは静かに告げた。
「ここから先へは行かせない」
雷が、刃の上で小さく鳴った。




