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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第18話 捨てられた者たち】



 古い礼拝所は、森に呑まれていた。


 かつては旅人が祈りを捧げる場所だったのだろう。


 崩れかけた石の柱。


 半分だけ残った壁。


 苔に覆われた床石。


 倒れた祭壇。


 屋根はとうの昔に抜け落ち、夜空が黒い穴のように見えていた。


 月明かりは木々に遮られ、ほとんど届かない。


 代わりに、地面のところどころで、青白い光が弱く脈打っていた。


 欠片の残滓。


 人の身体に染み込み、捨てられた者たちの周囲で、まだ腐ったように光っている。


 アレックスは足を止めた。


 止めざるを得なかった。


 人がいた。


 一人ではない。


 二人でもない。


 礼拝所跡の内側と、その周囲の草むらに、何人もの人が横たわっていた。


 動かない者。


 かすかに呻く者。


 身体を丸めて震える者。


 黒い筋が腕や首に浮かんでいる者。


 布切れのような服をまとい、泥と血に汚れ、もはや生きているのか分からないほど静かな者たち。


 捨て場。


 人買いの男は、そう言った。


 その言葉の意味を、アレックスは今、目の前で突きつけられていた。


「……っ」


 胸の奥が、焼けるように痛んだ。


 怒り。


 悔しさ。


 吐き気。


 そして、遅すぎたかもしれないという恐怖。


 走り出したアレックスの腕を、さっきまでレクスターは止めていた。


 けれど今は止めなかった。


 止めるべきではないと判断したのだろう。


 アレックスは最も近くで呻いていた女のそばへ膝をついた。


「聞こえますか」


 声が震えないようにした。


 けれど、完全には抑えきれなかった。


「大丈夫です。助けに来ました」


 女のまぶたが、かすかに震えた。


 唇が乾ききっている。


 喉から空気だけが漏れる。


「……みず……」


「水だ」


 アレックスはすぐに水袋を取り出した。


 だが、女の口元へ運ぼうとした瞬間、レクスターが低く言う。


「少量ずつ」


「分かってる」


「一気に飲ませれば危険です」


「分かってる」


 アレックスは女の頭を支え、水を一滴ずつ唇に含ませた。


 女は弱く喉を動かす。


 飲めている。


 生きている。


 その事実に、ほんのわずかに息ができた。


 だが、周囲にはまだ何人もいる。


 アレックスは顔を上げる。


「レクスター」


「確認します」


 レクスターは水の本を開いた。


 青い革表紙が、闇の中で淡く光る。


 だが、彼はすぐに大きな術式を使わなかった。


 まず、全体を見た。


 冷静に。


 息のある者。


 出血の多い者。


 黒い筋が深い者。


 子ども。


 老人。


 体力の残り。


 搬送可能かどうか。


 助ける順番を、感情ではなく命の残り時間で判断していく。


 その顔は冷たい。


 だが、その冷たさは必要だった。


「生存確認。少なくとも七名」


 レクスターの声が低く響く。


「意識あり三名。意識混濁二名。反応弱い者二名。……動かない者が四名」


 アレックスの手が止まった。


 動かない者。


 それが何を意味するのか、聞かなくても分かる。


 礼拝所の奥。


 崩れた壁のそばに、布をかぶせられることもなく横たわる人影があった。


 アレックスの視線がそちらへ向かう。


 レクスターが短く言う。


「今は生存者優先です」


「……分かってる」


「見ないでください」


「分かってる」


「アレックス」


 鋭い声だった。


 アレックスは奥歯を噛み、視線を戻した。


「分かってる」


 今は怒る時間ではない。


 悼む時間でもない。


 生きている人を助ける時間だ。


 その判断が、あまりにも苦しかった。


 レクスターは膝をつき、意識のない少年の腕を確認する。


 年は十二、三ほど。


 手首に黒い筋が浮かび、呼吸が浅い。


「水脈ではなく、体内魔力の乱れです」


「助かるか」


 アレックスが聞く。


「今なら」


 その一言で、アレックスはすぐに動いた。


「何をすればいい」


「水を温めます。体温が落ちている。あと、黒い筋が深い者には直接触れないでください」


「触れると?」


「汚染を受ける可能性があります」


「分かった」


 レクスターは水の本へ手をかざす。


「清水循環」


 小さな水の輪が空中に浮かび、少年の腕の上をゆっくり巡った。


 黒い筋がすぐ消えるわけではない。


 だが、脈動が少し弱くなる。


 少年の呼吸が、ほんのわずかに深くなった。


「……よし」


 レクスターが短く言う。


 その声にも、微かな安堵があった。


 アレックスは別の男へ向かった。


 肩に深い傷。


 縄の跡。


 足の怪我。


 そして、首元に黒い筋。


 男は意識があった。


 ぼんやりとした目で、アレックスを見る。


「……また、運ぶのか」


「違います」


「売るのか」


「違う」


「じゃあ……」


「助けに来た」


 男は笑おうとした。


 だが、笑いにならなかった。


「そんなこと……言う奴は……いた……」


「うん」


 アレックスは否定しなかった。


「いたと思う」


「みんな……いなくなった」


「俺は戻る」


「……戻る?」


「ここから連れて戻る」


 男の目が揺れる。


 信じていない。


 信じられない。


 でも、信じたい。


 その感情が、弱った目の奥で揺れていた。


「名前は?」


 アレックスが聞く。


 男は、しばらく黙った。


 自分の名前を思い出すことすら、苦しそうだった。


「……リオル」


「リオルさん」


 アレックスはその名を繰り返した。


「連れて戻ります」


 リオルの目から、涙が一筋落ちた。


「……名前……」


「はい」


「久しぶりに……呼ばれた……」


 アレックスは言葉を失った。


 ただ名前を呼んだだけ。


 それだけで、涙が出るほどの場所に、この人たちはいた。


 番号。


 荷。


 商品。


 使えないもの。


 そう呼ばれ続けて、人としての名前すら奪われていた。


 アレックスの中で、何かが静かに切れた。


 怒鳴りはしない。


 刃も振らない。


 けれど、もう絶対に引かないと決まった。


「レクスター」


「はい」


「全員、連れて帰る」


「そのつもりです」


「動かない人も」


 レクスターの手が、一瞬だけ止まった。


 それから、彼は静かに頷いた。


「……分かっています」


「ここには置いていかない」


「当然です」


 その言葉に、アレックスは少しだけ救われた。


 レクスターは冷静だ。


 時に冷たい。


 でも、人を物として見ない。


 動けない者も、生きている者も、亡くなった者も、ただの荷物にはしない。


 その信頼があった。


「搬送手段が必要です」


 レクスターが言う。


「ここから見張り小屋まで、意識のない者を運ぶには人数が足りません」


「俺が二人運ぶ」


「無茶です」


「一人は背負って、一人は抱える」


「無茶です」


「でも」


「助けるためにあなたが倒れれば意味がありません」


 レクスターの声が強くなる。


 アレックスは言葉を詰まらせた。


「……分かってる」


「いいえ。今のあなたは分かっていません」


 鋭い断言だった。


「怒りで視野が狭くなっています」


「狭くなってるか」


「はい」


「でも、ここで待つ時間が惜しい」


「同意します」


「なら」


「だから考えます」


 レクスターは地面を見た。


 礼拝所の周囲。


 崩れた木材。


 古い扉の板。


 蔦。


 布。


「簡易担架を作ります」


「担架」


「二人で一人ずつ運ぶより、引きずれる形にした方がよい。揺れは抑える必要がありますが、人数が足りない状況では現実的です」


「作れるか」


「作ります」


「俺は?」


「木材を集めてください。ただし、動かない者の周辺は踏まないように」


「分かった」


 アレックスは動いた。


 崩れた扉板。


 折れた柱の一部。


 古い布。


 使えそうな蔦。


 それらを集める。


 手が汚れる。


 石で指を切る。


 そんなことはどうでもよかった。


 レクスターは手早く担架を組みながら、負傷者の状態を確認していく。


 水の本から細い水糸を伸ばし、蔦を補強する。


「三つ作れます」


「七人いる」


「歩ける者は支えて歩かせます。意識混濁二名、重症一名を担架。残りは肩を貸す」


「亡くなった人は」


「最後に」


 レクスターは短く言った。


「生存者を安全圏に移してから、戻ります」


「一度で全員は無理か」


「無理です」


「……分かった」


 アレックスは唇を噛んだ。


 分かっている。


 分かっているが、置いていくことが苦しい。


 たとえ一時的でも。


 その気持ちを見透かしたように、レクスターが言った。


「戻ります」


 アレックスが顔を上げる。


「あなたが約束する前に、私が言います。戻ります。だから今は、生きている人を運ぶ」


「……ありがとう」


「礼は不要です」


「でも言う」


「知っています」


 その時、礼拝所の奥から小さな声がした。


「……だれか……」


 アレックスが反応する。


 崩れた祭壇の陰。


 そこに、小さな影があった。


 子どもだ。


 十歳にも満たない。


 身体の半分が古い布に覆われ、腕には黒い筋が浮いている。


 目は開いている。


 けれど、焦点が合っていない。


「レクスター!」


「見えています」


 アレックスが近づく。


 子どもは震える唇で言った。


「……くらい……」


「いる。ここにいる」


「……おかあ……さん……」


 胸が抉られるようだった。


 アレックスは膝をつく。


「名前は?」


「……ユミ……」


「ユミ」


 彼はそっと呼んだ。


「助けに来た」


「……うそ……」


「嘘じゃない」


「みんな……そう言う……」


「そうか」


「でも……いなくなる……」


「俺はいる」


「……ほんと?」


「ほんと」


 ユミの手が、震えながら伸びた。


 黒い筋が浮いた手。


 触れるのは危険だとレクスターが言っていた。


 でも。


 アレックスは布を手に巻き、その手をそっと握った。


 小さかった。


 冷たかった。


 ひどく軽かった。


「いるよ」


 ユミの目から涙が溢れた。


「……こわかった……」


「うん」


「ずっと……こわかった……」


「うん」


「いたい……」


「うん」


「さむい……」


「すぐ温かいところへ連れていく」


 ユミは弱く頷いた。


 アレックスは彼女を抱き上げた。


 あまりにも軽い。


 子ども一人の重さではない。


 奪われ続けた命の重さだった。


 レクスターが厳しい顔で近づく。


「彼女は優先です」


「分かった」


「汚染が深い。見張り小屋で処置が必要です」


「助かるか」


 短い沈黙。


 それだけで怖かった。


「助けます」


 レクスターは言い切った。


 珍しく、確率を言わなかった。


 可能性とも言わなかった。


 助けます。


 それは、彼なりの怒りだった。


「頼む」


「はい」


 一方、見張り小屋では、マーガレットが立っていた。


 ハルバードを手に、焚き火の前で。


 アレックスとレクスターが森の奥へ消えてから、空気は少し緊張していた。


 解放された人々は、二人がどこへ行ったのかを詳しくは知らない。


 ただ、何か危険な場所へ向かったのだと感じ取っていた。


 子どもたちは小屋の中で身を寄せ合い、ミナは浅い眠りを繰り返している。


 トマは入口に座り、棒を握ったまま外を見ていた。


「……戻るよ」


 マーガレットが言った。


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 トマが顔を上げる。


「分かってる」


「心配?」


「別に」


「そっか」


「……少しだけ」


「うん」


 マーガレットは小さく笑った。


「私も」


「まーがも?」


「心配だよ。アレックス、すぐ無茶するし。レクスターは止めるけど、自分もけっこう無茶するし」


「じゃあ止めに行けばいい」


「行きたい」


 彼女は森の奥を見る。


 今すぐ走り出したい。


 捨て場。


 その言葉を聞いた時から、胸の中で怒りが暴れている。


 でも、ここにはミナがいる。


 トマがいる。


 解放された人々がいる。


 人買いたちもいる。


 ここを空にするわけにはいかない。


「でも、任されたから」


「任されたら、行かないのか」


「うん」


「なんで」


「信じてくれたから」


 マーガレットはハルバードの柄を握り直す。


「アレックスもレクスターも、私ならここを守れるって思ってくれた。だから守る」


 トマは彼女を見た。


「守るって、怖くないのか」


「怖いよ」


「強いのに?」


「強くても怖いよ」


 マーガレットは笑った。


「怖いけど、怖いからちゃんと立つの」


「……変なの」


「よく言われる!」


「お前たち、みんな変だ」


「それもよく言われる!」


 トマは少しだけ笑った。


 ほんの少し。


 けれど、確かに笑った。


 その時、縛られていた人買いの一人が、身じろぎした。


 縄をこすり、何かをしようとしている。


 マーガレットの目が一瞬で変わった。


「動かないで」


 声は明るくなかった。


 男が硬直する。


「逃げたら、追うよ」


「ひっ……」


「追うだけじゃなくて、たぶんちょっと怒る」


「怒るとどうなる」


 トマが小声で聞いた。


 マーガレットはにっこり笑った。


「地面がかわいそうになる」


 男たちは全員、動かなくなった。


 トマはしばらく黙り、それから言った。


「……まーが、怖い」


「味方には優しいよ!」


「それも変だ」


「そう?」


 焚き火の火が揺れる。


 見張り小屋の夜は、まだ続く。


 森の奥で何が起きているか分からない。


 でも、マーガレットは立っていた。


 自分に任された場所を守るために。


 礼拝所跡では、搬送の準備が整い始めていた。


 簡易担架が三つ。


 意識のない少年。


 重傷の男。


 そして、小さなユミ。


 残る者は、アレックスとレクスターが肩を貸しながら歩かせる。


 リオルは立とうとして、膝をついた。


「無理するな」


 アレックスが支える。


「……歩ける」


「歩けない」


「歩く……置いていかれるのは、もう嫌だ……」


 その言葉に、アレックスは一瞬息を止めた。


 置いていかれるのは嫌だ。


 それは、ここにいる全員の叫びだった。


「置いていかない」


 アレックスは言った。


「でも、無理に歩かせない。担架に乗ってくれ」


「……本当に、戻るか」


「戻る」


「置いていかないか」


「置いていかない」


 リオルは震えながら頷いた。


 レクスターが静かに言う。


「移動します。時間をかけすぎると夜気で悪化する」


「分かった」


 アレックスはユミを抱き上げた。


 レクスターは水糸で担架を補助する。


 歩ける者には、互いに肩を貸させる。


 誰も強くは歩けない。


 足取りは遅い。


 だが、動き出した。


 捨て場と呼ばれた場所から、人々が離れていく。


 それだけで、アレックスの胸は少しだけ震えた。


 まだ終わりではない。


 見張り小屋まで戻らなければならない。


 亡くなった者たちを迎えに戻らなければならない。


 グレイルへ行かなければならない。


 黒外套を追わなければならない。


 欠片を取り戻さなければならない。


 約束は増えるばかりだ。


 重い。


 本当に重い。


 それでも、腕の中でユミがかすかに息をしている。


 その呼吸がある限り、歩ける。


「……おにい、さん」


 ユミが小さく呟いた。


「いるよ」


「くらい……」


「うん」


「でも……あったかい……」


 アレックスは言葉を飲み込んだ。


 泣くわけにはいかなかった。


 腕に力を込める。


「すぐ、もっと温かいところへ行く」


「……うん」


 レクスターが横を歩きながら、低く言う。


「足元、右に根」


「分かった」


「速度を落としてください。担架が揺れます」


「分かった」


「呼吸も乱れています」


「……分かった」


「無茶をしない」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


 レクスターは少しだけ息を吐いた。


「ならいいです」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 森の中を、静かな行列が進む。


 捨てられた者たち。


 捨て場から戻る者たち。


 その足音は弱い。


 でも、確かに前へ進んでいた。


 やがて、木々の向こうに小さな灯りが見えた。


 見張り小屋の焚き火。


 マーガレットが守っている場所。


 アレックスは、その灯りを見た瞬間、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。


 灯りの前で、マーガレットが立ち上がる。


 遠くからでも分かる。


 彼女がこちらを見つけた。


「アレックス!」


 声が森に響いた。


 それは不安と安堵が混ざった声だった。


 マーガレットが走り出しかけ、すぐに止まった。


 周りに怪我人がいると気づいたからだ。


 彼女はハルバードを置き、両手を空けて駆け寄ってきた。


「人が……!」


「生きてる人がいる」


 アレックスが言う。


「手伝ってくれ」


「もちろん!」


 マーガレットはユミを見て、顔を歪めた。


 でも泣かなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 今は、泣くより先にやることがある。


「小屋の中、空ける!」


 彼女は振り返って叫んだ。


「みんな、場所作って! 怪我人が来る!」


 解放された人々が一斉に動いた。


 毛布を広げる者。


 水を温める者。


 子どもを端へ寄せる者。


 さっきまで救われた側だった人々が、今度は救う側へ回ろうとしていた。


 その光景に、アレックスは息を呑んだ。


 人は、助けられるだけでは終わらない。


 助かったあと、誰かを助けようとする。


 その連鎖が、ここに生まれている。


「アレックス」


 マーガレットが小さく呼ぶ。


「うん」


「戻ってきたね」


「うん」


「ちゃんと」


「うん」


 彼女は少しだけ笑った。


「おかえり」


 アレックスは、ようやく少しだけ笑えた。


「ただいま」


 見張り小屋の夜に、新たな呻き声と慌ただしい足音が加わる。


 けれど、それは絶望の音だけではなかった。


 捨てられた者たちが、捨て場から戻ってきた音だった。


 そして、その夜。


 森の小さな見張り小屋は、檻から解放された者たちと、捨て場から連れ戻された者たちを抱え、静かに、しかし確かに、ひとつの避難所になった。


 グレイルの闇は、まだ遠くで口を開けている。


 黒外套は、その先で待っている。


 けれど今だけは。


 この小さな灯りの下で。


 誰も、誰かを捨てなかった。

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