【第16話 救われた人々】
古い橋の上に、戦いの余韻が残っていた。
苔むした石畳。
折れた剣。
砕けた錠前。
倒れた人買いたち。
川の水音。
そして、檻から出たばかりの人々のすすり泣き。
森は静かだった。
つい先ほどまで怒号と悲鳴が響いていたのが嘘のように、木々はただ葉を揺らしている。
だが、その静けさは穏やかなものではない。
まだ恐怖の熱が引いていない。
解放された人々は、檻の外へ出ても、すぐには遠くへ逃げなかった。
逃げていいのか分からない。
本当に助かったのか分からない。
立ち上がればまた捕まるのではないか。
助けに来たこの三人も、実は別の誰かへ売り渡すために来たのではないか。
そんな疑いと恐怖が、痩せた肩や震える手に残っていた。
子どもが泣いていた。
声を上げて泣くのではなく、喉の奥で押し殺すような泣き方だった。
泣けば殴られる。
そう覚えてしまった泣き方だった。
それを見た瞬間、マーガレットの顔が歪んだ。
「……もう、大丈夫だよ」
彼女は膝をつき、子どもの前で両手を広げた。
ハルバードは少し離れた地面に置いている。
怖がらせないためだった。
「ほら、武器も置いた。怖くないよ」
子どもは震えながら、マーガレットを見た。
煤で汚れた顔。
乾いた唇。
細い腕。
まだ六歳か七歳くらいだろう。
その子はマーガレットの手を見て、それから背後に倒れている人買いの男を見た。
また何かされると思ったのか、びくりと肩を震わせる。
マーガレットは胸が詰まった。
怒りが湧く。
でも、今その怒りを見せたら、この子はもっと怯える。
だから、必死に笑った。
明るく。
柔らかく。
できるだけ、いつもの自分で。
「私、マーガレット。マーガでいいよ」
子どもは答えない。
「あなたの名前、聞いてもいい?」
沈黙。
子どもは隣にいた女の服を握った。
女もまた、怯えた目でマーガレットを見ている。
女は細い声で言った。
「……その子、声が出なくなっていて」
マーガレットの笑顔が一瞬だけ揺れた。
「そっか」
彼女はゆっくり頷く。
「じゃあ、無理に話さなくていいよ」
子どもが少しだけ目を動かす。
「うん。話したくなったらでいい。今は、泣いてもいいし、泣かなくてもいいし、座っててもいい」
マーガレットは自分の外套を外して、子どもの肩へかけた。
「寒いでしょ」
子どもは外套に触れた。
まだ警戒している。
でも、払い除けはしなかった。
それだけで、マーガレットは少しだけ息を吐いた。
少し離れた場所では、レクスターが解放された人々の状態を確認していた。
彼は水の本を開かず、まず目視で見ている。
怪我の程度。
脱水。
発熱。
意識の混濁。
欠片の影響が出ていないか。
無駄な言葉は少ない。
だが、手つきは丁寧だった。
「腕を見せてください」
年配の男が怯えたように腕を隠す。
「嫌なら構いません。ただし、黒い筋が出ている場合は処置が遅れるほど悪化します」
「黒い、筋……?」
「欠片の影響です」
男の顔色が変わった。
恐る恐る袖を捲る。
腕には縄の跡が食い込み、ところどころに青あざがあった。
だが、黒い筋はない。
レクスターは短く頷く。
「汚染は軽度。水を飲んで休めば動けます」
「……あ、ありがとう」
「礼より水分です」
「え?」
「水を飲んでください」
レクスターは水袋を差し出した。
男は戸惑いながら受け取る。
そのやり取りを見て、近くの女が小さく笑った。
まだ笑えるような状況ではない。
それでも、レクスターのあまりにも淡々とした言い方に、ほんの少しだけ緊張が緩んだのだ。
マーガレットがそれを見て、口元を緩める。
「レクスター、やっぱり助かるね」
「当然です」
「自分で言った」
「事実です」
「でも、そういうところ好きだよ」
「今その発言は不要です」
「照れた?」
「照れていません」
捕らわれていた子どもが、そのやり取りをぽかんと見ていた。
そして、ほんのわずかに口元を動かした。
笑った、のかもしれない。
マーガレットはそれを見て、胸の奥が熱くなった。
少しずつでいい。
本当に少しずつでいい。
怖いだけの時間から、別のものへ戻していければいい。
アレックスは橋の中央で、人買いたちを拘束していた。
倒れている男たちの武器をすべて集め、手足を縛る。
殺してはいない。
骨を折った者もいる。
意識を失っている者もいる。
だが命はある。
太った指揮役の男も、欠片の暴走から切り離されて地面に転がっていた。
顔色は悪く、腕はまだ黒く変色している。
それでも呼吸はある。
「……なんで」
男が掠れた声で言った。
アレックスは視線を向ける。
「なんで、助けた……」
その声には、怒りも怯えも混じっていた。
自分でも分かっていないのだろう。
助けを求めた。
実際に助けられた。
だが、その相手は自分が殺そうとした青年で、自分が捕らえていた人々を解放した敵だ。
理解できない。
その顔だった。
アレックスは縄を結び終え、男の前にしゃがんだ。
「助けてと言ったから」
「……は?」
「君が助けてと言った」
男の顔が歪む。
「馬鹿か、お前……俺は、人を売ってたんだぞ」
「そうだな」
「子どもも捕まえた」
「うん」
「なら、見捨てればよかっただろ」
「それは君の罪を俺が裁く理由にはならない」
アレックスの声は静かだった。
「君がしたことは許されない。ちゃんと裁かれるべきだ。でも、欠片に喰われて死ぬのを見ているのは違う」
男は呆然とアレックスを見た。
「……気持ち悪いな」
「よく言われる」
「言われるのかよ」
「主に仲間に」
男は笑いかけて、すぐ咳き込んだ。
その笑いは嘲笑ではなかった。
理解できないものを前にした、疲れた笑いだった。
「俺をどうする」
「情報を聞いたあと、グレイルの正規の詰所へ突き出す」
「正規ぃ?」
男はかすれた声で笑った。
「グレイルに、そんな綺麗なもんあると思ってんのか」
アレックスの表情が変わる。
「どういう意味だ」
「裏市が動いてんだ。町の連中が知らねえわけねえだろ」
レクスターが近づいてきた。
彼の目が鋭い。
「町ぐるみですか」
「全部じゃねえ。だが、役人も警備も何人か噛んでる」
「証拠は?」
「俺が話せば証拠になるだろ」
「口だけでは弱いですね」
「帳簿がある」
男は苦しそうに息を吐く。
「橋の向こうの荷車。底板の下。取引の控えが入ってる」
レクスターはすぐにマーガレットへ視線を向けた。
「マーガレット」
「はい!」
「荷車の底板を確認してください。壊しすぎないように」
「なんで先に言うの!」
「必要だからです」
「分かってる!」
マーガレットはハルバードを担ごうとして、すぐ思い直した。
檻から出た人々の近くで大きな武器を振るのは良くない。
彼女は素手で荷車へ向かった。
「これ?」
「奥から二台目です」
レクスターが言う。
「底板を外すだけですよ。粉砕ではありません」
「分かってるってば!」
マーガレットは膝をつき、荷車の底を覗き込んだ。
板が釘で留められている。
普通なら道具が必要だろう。
彼女は指を引っかけ、少しだけ力を込めた。
ぎし。
板が浮いた。
さらに少し。
べき。
釘が抜けた。
「……あ」
マーガレットが固まる。
レクスターが遠くから言う。
「何か壊しましたね」
「ちょっとだけ!」
「ちょっとではない音でした」
「でも底板は外れた!」
「結果だけで正当化しないでください」
マーガレットは底板の下から油紙に包まれた束を取り出した。
中には帳簿と、小さな木札が何枚も入っている。
名前。
人数。
金額。
日付。
受け渡し場所。
そして、グレイル裏市の印らしきもの。
マーガレットの顔が曇る。
「……これ、人の数?」
レクスターが受け取り、ざっと目を通す。
彼の表情が冷えた。
「売買記録です」
解放された人々の何人かが、それを聞いて息を呑んだ。
女が自分の子どもを抱きしめる。
老人が震える。
自分たちが、数字にされていた。
値段をつけられ、運ぶ荷として記録されていた。
その事実が、改めて彼らを傷つける。
マーガレットの手が震えた。
「……最低」
低い声。
「ほんと、最低」
「同意します」
レクスターの声も冷たい。
「ただし、これは武器になります」
「武器?」
アレックスが聞く。
「グレイルで人買いを追及するための証拠です。町の役人が腐っているなら、正面から持ち込むのは危険ですが」
「使い方を考えないといけない」
「はい」
アレックスは帳簿を見た。
文字列が並んでいる。
人数。
金額。
まるで麦袋や木材の取引みたいに。
人が書かれている。
怒りが、静かに深く沈んでいく。
大きく燃え上がる怒りではない。
刃の形に研がれていく怒りだった。
「グレイルへ行く理由が増えたな」
「はい」
レクスターが頷く。
「欠片、黒外套、人買い、裏市、町の腐敗。全て繋がっている可能性があります」
「ラドナ村だけじゃなかった」
マーガレットが呟く。
「うん」
アレックスは森の奥を見る。
「たぶん、もっとある」
沈黙。
森の葉が揺れる。
橋の下の水音が静かに続く。
解放された人々は、その言葉を聞いていた。
彼らの中には、グレイルから連れてこられた者もいるのだろう。
町に家族を残している者も。
別の村からさらわれた者も。
誰もが不安そうにアレックスたちを見ていた。
その中から、一人の女が震える声で言った。
「……グレイルに、行くのですか」
アレックスが頷く。
「行きます」
「危険です」
「分かっています」
「裏市に逆らった人は、消えます。役人に訴えた人も、いつの間にかいなくなりました。私の夫も……」
女の声が詰まる。
子どもが母親の服を握る。
「夫も、探しに行ったまま戻りませんでした」
マーガレットが目を伏せる。
レクスターは何も言わない。
アレックスは女をまっすぐ見た。
「名前を聞いてもいいですか」
「……夫の、ですか」
「はい」
「カイルです」
「カイルさん」
アレックスはその名を繰り返した。
「覚えておきます」
女は目を見開く。
ただ名前を聞かれただけ。
ただ繰り返されただけ。
けれど、彼女にとっては重かった。
消えた人。
戻らない人。
裏市に飲まれて、誰にも探されなくなった人。
その名前を、目の前の青年が覚えると言った。
女の目から涙がこぼれた。
「……お願いします」
声が震える。
「もし、もし何か分かったら……」
「はい」
アレックスは頷く。
「必ず」
レクスターが小さく息を吐く。
「また約束を増やしましたね」
「ごめん」
「謝罪は不要です」
「怒ってる?」
「いいえ」
レクスターは帳簿を丁寧に包み直した。
「この状況で約束しないあなたなら、私は同行していません」
アレックスは少しだけ驚いた顔をした。
マーガレットがにやりとする。
「レクスター、今のすごくいい」
「黙ってください」
「照れてる」
「照れていません」
解放された人々の中にも、少しだけ笑いが生まれた。
まだ小さい。
弱い。
でも確かにそこにある。
恐怖だけで固まっていた群衆に、人間らしい息が戻っていく。
そのあと三人は、人買いたちを一か所にまとめて拘束した。
レクスターの水糸で手首を縛り、簡単には逃げられないようにする。
武器は全て回収。
弓も剣も短剣も、荷車の中にまとめて置いた。
マーガレットがその荷車を見て言う。
「これ、動かせる?」
「一台は無事です」
レクスターが確認する。
「解放した人々のうち歩けない者を乗せましょう。人買いたちは歩かせます」
「こいつらも連れてくの?」
マーガレットが嫌そうに聞く。
「情報源です」
「逃げない?」
「逃げればマーガレットが追うでしょう」
「うん!」
「それを伝えれば逃げません」
人買いたちの何人かが青ざめた。
マーガレットは満面の笑みで振り返る。
「逃げたら追うね!」
その明るさが逆に怖かった。
男たちは必死に頷く。
アレックスは太った男の腕を確認した。
黒い筋は完全には消えていない。
欠片の影響が残っている。
「歩けるか」
「……歩ける」
「無理なら言え」
「敵に心配されるとか、気持ち悪いんだよ……」
「よく言われる」
「だから言われるのかよ」
男は苦しそうに笑い、それから顔を伏せた。
「……俺は裁かれるのか」
「そうする」
「グレイルで?」
「できれば」
「無理だ。裏市の連中は、役人にも金を流してる。俺を突き出しても、たぶん握り潰される」
「なら、握り潰せない形にする」
アレックスが言った。
男は顔を上げる。
「どうやって」
「考える」
「考えてから言えよ」
「それは私の仕事です」
レクスターが割り込む。
「グレイルへ入る前に情報を整理し、協力者の有無を探ります。裏市が完全に町を掌握していないなら、割る隙はある」
「もし完全に掌握してたら?」
マーガレットが聞く。
「町ごと敵です」
「分かりやすいけど嫌!」
「現実です」
アレックスは静かに言った。
「町ごと敵でも、人はいる」
レクスターが彼を見る。
「役人や裏市が腐っていても、苦しんでいる人、逆らえない人、助けを待っている人はいるはずだ」
「……でしょうね」
「だから全部を敵とは見ない」
「あなたらしい判断です」
「甘い?」
「面倒です」
「そっちか」
「ですが、必要です」
マーガレットが笑う。
「レクスター、最近アレックスの面倒さ好きになってきたよね」
「誤解です」
「ほんと?」
「正確には慣れました」
「それ、好きに近くない?」
「違います」
「違うんだ?」
「違います」
アレックスは少し笑った。
笑える状況ではない。
それでも、二人のやり取りがあるだけで、重い空気が少しだけ動く。
解放された人々も、そのやり取りを聞いている。
この三人は不思議だ。
戦えば強い。
怒れば怖い。
けれど、話すとどこか柔らかい。
特にアレックスは、剣を持っていても人を怯えさせないように立つ。
マーガレットは明るさで子どもたちを引き寄せる。
レクスターは言葉こそ冷たいが、誰より的確に必要なことをする。
だから少しずつ、人々は動き始めた。
荷車へ怪我人を乗せる。
歩ける者は互いに支え合う。
人買いたちは縄で繋がれ、レクスターの水糸も絡められる。
太った男だけは汚染の影響でふらつくため、別に監視されることになった。
「見張り小屋へ戻る」
アレックスが言う。
「ミナとトマもいる。まずは全員を合流させよう」
「その後は?」
マーガレットが聞く。
「グレイルへ行く前に、休ませる必要がある」
「うん」
「でも長居はできない」
レクスターが続ける。
「黒外套がグレイルへ向かったなら、こちらの動きも想定しているでしょう。人買いを潰したことも、いずれ伝わる」
「急ぐけど、急ぎすぎない」
マーガレットが言う。
「そうです」
レクスターが少し驚いた顔をした。
「理解が早いですね」
「褒めた?」
「褒めました」
「今日めっちゃ褒めるじゃん!」
「状況が特殊なので」
「特殊じゃなくても褒めて!」
「検討します」
「やった!」
「約束はしていません」
「えー!」
そんな会話をしながら、彼らは橋を離れた。
先頭はアレックス。
中央に解放された人々と荷車。
その横をマーガレットが歩き、子どもたちを励ます。
最後尾にレクスター。
人買いたちを水糸で監視しながら、周囲の気配も探っている。
森の中を、大人数で進む。
先ほどまで静かだった森に、人の足音が増えた。
怯えた息。
荷車の軋む音。
子どもの小さな咳。
縄に繋がれた男たちの重い足音。
それらが、森の葉擦れと混じり合う。
群れになって進むことは危険でもある。
目立つ。
速度も落ちる。
しかし、置いてはいけない。
アレックスは何度も振り返り、全員がついてきているか確認した。
マーガレットがそれに気づき、にっと笑う。
「大丈夫だよ」
「うん」
「みんな、ちゃんといる」
「うん」
「アレックス、心配しすぎ」
「そうかな」
「そう」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「でも、そういうところがいいんだよ」
アレックスは少しだけ照れたように笑った。
「ありがとう」
「うん!」
レクスターが後ろから言う。
「褒め合いは移動速度を落とさない範囲でお願いします」
「レクスターも混ざる?」
「混ざりません」
「褒めるよ?」
「不要です」
「レクスター、すごい!」
「不要です」
「水の本、便利!」
「それは本への評価です」
「レクスターも便利!」
「人に便利と言うのは失礼です」
解放された子どもの一人が、くすりと笑った。
マーガレットはその音を聞いて、少しだけ目を細める。
怖い森。
危険な追跡。
人買い。
黒外套。
欠片。
それでも、子どもが笑えた。
なら、今の会話にも意味があった。
見張り小屋へ戻る頃には、空の色が傾き始めていた。
小屋の前で、トマが棒を構えて立っていた。
彼は大人数の気配に気づくと、すぐに身構えた。
だが先頭のアレックスを見て、少しだけ目を見開く。
「戻った……」
「戻ったよ」
アレックスが言う。
トマの目が一瞬だけ揺れた。
本当に戻ってきた。
ミナのためにそう言っただけではない。
本当に。
小屋の中から、ミナの弱い声が聞こえる。
「兄さん……?」
「いる!」
トマはすぐに振り返る。
「大丈夫だ。戻ってきた」
マーガレットが小屋へ駆け寄る。
「ミナ、ただいま」
ミナは毛布にくるまったまま、薄く目を開けた。
「……まーが」
「うん。戻ったよ」
「ほんとに……」
「ほんとに」
マーガレットはしゃがみ込み、ミナの手をそっと握った。
その手はまだ熱い。
だが、朝よりは少し落ち着いているようだった。
「人、助けたの?」
ミナが聞く。
マーガレットは笑った。
「うん」
「すごい……」
「みんなで助けたんだよ」
トマは小屋の外に集まった人々を見て、言葉を失っていた。
自分たち以外にも、こんなに捕まっていた。
こんなに怯えていた。
そして、この三人は本当に助けた。
少年の胸の中で、何かが大きく揺れていた。
「……馬鹿だ」
トマは小さく言った。
アレックスが振り返る。
「うん?」
「本当に行って、本当に戻ってきて、本当に助けてきた」
「うん」
「馬鹿だ」
「そうか」
「でも」
トマは棒を握る手に力を込めた。
「……ありがとう」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、確かに届いた。
アレックスは微笑んだ。
「どういたしまして」
レクスターが周囲を見回す。
「ここで長く留まるのは危険です。ただし、今すぐグレイルへ向かうのも無謀。今日はここで最低限の休息を取ります」
「小屋に全員入る?」
マーガレットが聞く。
「無理です。怪我人と子どもを中へ。大人は外に簡易の陣を作ります」
「陣?」
「見張りと防御線です」
「よし、作ろう!」
「あなたはまず水を運んでください」
「はい!」
こうして、森の見張り小屋は一時的な避難所になった。
子どもと怪我人を小屋の中へ。
外には焚き火を小さく三か所。
人買いたちは木に縛られ、レクスターの水糸で監視される。
アレックスは周囲を見回り、マーガレットは水と薪を運び、レクスターは怪我人の処置と帳簿の確認を進めた。
夕暮れが森に降りてくる。
木々の影が濃くなり、空は少しずつ紫へ変わる。
小屋の周りには、不安と疲労と、わずかな安堵が混じっていた。
完全な安全ではない。
けれど、檻の中ではない。
それだけで、人々の顔は少し違った。
アレックスは焚き火の前に座る子どもたちを見た。
ミナは眠っている。
トマはそのそばに座り、相変わらず棒を抱えている。
でも、さっきより肩の力が抜けている。
マーガレットは子どもたちに干し芋を小さく分けていた。
「ちょっとずつね」
「まーがは食べないの?」
「私はあとで食べる!」
その声に、レクスターが遠くから言う。
「その“あとで”は本当ですか」
「本当!」
「あなたは空腹を我慢しすぎると動きが雑になります」
「心配してくれてる?」
「戦力管理です」
「はいはい」
アレックスは小さく笑った。
そして、橋の方角を見た。
黒外套はグレイルで待つと言った。
人買いの記録はグレイルへ繋がっている。
欠片の破片は手元にある。
ラドナ村へ戻るためにも、グレイルへ行かなければならない。
だがその前に、今夜を越えなければならない。
守るものが増えた。
約束も増えた。
敵も増えた。
それでも、不思議とアレックスの心は折れていなかった。
重い。
怖い。
でも、前を向ける。
隣にマーガレットがいる。
後ろにレクスターがいる。
そして、助けた人々の呼吸がある。
その一つ一つが、彼を立たせていた。
夜が森に落ちる。
見張り小屋の小さな灯りが、闇の中で揺れた。
グレイルへ向かう前の、長い夜が始まろうとしていた。




