【第15話 古い橋の解放戦】
青白い光が、古い橋の上で脈打っていた。
森の奥。
苔むした石橋。
その下を流れる細い川。
壊れた荷車。
粗末な檻。
縄で縛られた人々。
剣を抜いた人買いたち。
そして、その中心で布に包まれた欠片が、まるで生き物の心臓みたいに淡く光っている。
アレックスは雷の刃を構えたまま、静かに息を吸った。
怒りはあった。
胸の奥で、熱く燃えている。
子どもを叩こうとした男。
檻に閉じ込められた人々。
怯えた目。
疲れ切った顔。
助けを求めることすら諦めかけた沈黙。
ラドナ村で見たものと同じだ。
王都の外には、こういう痛みがある。
そして今、それを見てしまった。
見てしまった以上、もう通り過ぎられない。
「……もう一度言う」
アレックスは、棒を斬られて呆然としている男へ向けて言った。
「子どもを叩くな」
声は荒くない。
怒鳴ってもいない。
だが、その静けさが逆に森の空気を押し沈めた。
人買いの男たちは、一瞬だけ動きを止めた。
突然現れた三人。
雷のように走った剣士。
巨大なハルバードを担ぐ少女。
水の本を開く冷静な青年。
ただの旅人ではない。
それは誰の目にも明らかだった。
だが、太った男だけはすぐに我に返った。
商人風の上等な外套。
指には安っぽい宝石の指輪。
顔には脂汗。
それでも、声だけは大きい。
「な、何をしている! 殺せ! こいつらを始末しろ!」
その命令に、剣を持った男たちが動き出す。
数は七人。
橋のこちら側に三人。
荷車のそばに二人。
檻の近くに二人。
さらに奥の木陰に弓を持った者が一人いる。
レクスターは一瞬で数え終えていた。
「前衛六、弓一、指揮役一。檻の周囲に人質。欠片は指揮役の後方、布包みの中」
「了解」
アレックスが短く答える。
「マーガレット」
「うん」
「檻の近くは壊しすぎないで」
「分かってる!」
「本当に?」
「ほんと!」
「信用度四割です」
レクスターが即座に切る。
「今下げた!?」
「人質が近い状況でのあなたの信用度は慎重に見積もるべきです」
「ぐう……!」
マーガレットは悔しそうに唇を噛んだが、反論はしなかった。
自分でも分かっているのだ。
力任せに振れば、敵ごと檻も荷車も吹き飛ばしかねない。
今は壊す戦いではない。
守りながら倒す戦いだ。
彼女にとって、それは少し苦手な部類だった。
けれど、苦手だからやらない理由にはならない。
檻の中で、小さな子どもがこちらを見ている。
泣く力もないほど怯えた目。
それを見た瞬間、マーガレットの中で覚悟が決まった。
「……大丈夫」
彼女はハルバードの柄を握り直した。
「今日は、壊しすぎない」
「良い心がけです」
レクスターが言う。
「褒めた?」
「褒めました」
「あとでちゃんと聞く!」
「今は前を見てください」
「はい!」
最初に動いたのは、弓兵だった。
木陰から矢が放たれる。
狙いはアレックスではない。
レクスター。
後方支援を潰すつもりだ。
判断は悪くない。
だが、遅い。
レクスターの水の本が青く光った。
「水幕」
空気中の湿気が薄い膜となり、矢の軌道をわずかに逸らす。
矢はレクスターの頬をかすめることもなく、背後の木へ突き刺さった。
「狙いは合理的ですが、精度が三流です」
レクスターが冷たく言う。
弓兵の顔が歪んだ。
「てめえ……!」
「二射目はありません」
レクスターが本を指でなぞる。
橋の下を流れる川から細い水の線が伸び、木陰へ走った。
水は弓兵の足首へ絡みつき、そのまま強く引く。
「うわっ!?」
弓兵が転倒し、弓を落とした。
マーガレットが思わず声を上げる。
「便利!」
「便利ではなく術式です」
「便利な術式!」
「雑ですが間違いではありません」
その間に、前衛の男三人がアレックスへ斬りかかってきた。
剣筋は荒い。
だが、街道の盗賊よりは慣れている。
人を脅し、捕まえ、痛めつけることに慣れた動き。
アレックスはその動きを見て、胸の奥の熱が少し強くなる。
この剣は、人を守るためではない。
人を従わせるための剣だ。
一人目の刃を、半歩で避ける。
二人目の突きを、雷の刃で弾く。
三人目が横から回り込む。
アレックスは振り向きざま、雷を纏った鞘でその手首を打った。
「ぐあっ!」
剣が落ちる。
そのまま膝を蹴って倒す。
殺さない。
だが、立てない程度には止める。
二人目が再び踏み込む。
アレックスは刃の背で顎を打ち上げた。
男の意識が飛び、地面へ崩れる。
一人目が怯んだ。
その一瞬で、アレックスは喉元へ刃を突きつける。
「降伏して」
穏やかな声。
男は震えた。
「な、なんなんだ、お前……!」
「旅人だよ」
「嘘つけ!」
「本当なんだけど」
アレックスは少し困ったように笑った。
「ただ、見逃せないものを見た」
男は歯を食いしばり、懐から短剣を抜こうとする。
だが、その手が動く前に、水の線が絡みついた。
「悪手です」
レクスターが言う。
「降伏を勧められた時点で従うべきでした」
「助かる」
アレックスが言う。
「あなたが甘いので」
「そうだな」
「否定しないのですね」
「最近、少し慣れた」
レクスターは小さくため息をついた。
「慣れる方向性が違います」
一方、マーガレットは檻の近くへ走っていた。
人質を守るため、敵を檻から引き離さなければならない。
檻のそばにいた男二人が、彼女を見て笑った。
「女だ!」
「武器はでかいが、隙だらけだ!」
マーガレットは一瞬だけきょとんとした。
「私?」
「ああ、そうだよ!」
「隙だらけ?」
「そうだ!」
「そっか」
彼女はにっこり笑った。
「じゃあ来ていいよ」
男たちは顔を見合わせた。
挑発か。
それとも本気で言っているのか。
分からない。
だが、二人は同時に踏み込んだ。
一人は斧。
一人は短槍。
マーガレットはハルバードを大きく振らなかった。
柄を短く持ち替え、まず短槍の穂先を柄で受ける。
そのまま手首をひねって槍を逸らす。
次に斧の一撃を半歩で避け、石突で男の腹を突いた。
「ぐえっ!」
男が膝から崩れる。
「ごめん、ちょっと痛いよね」
「ちょっとじゃ……ねえ……」
「だよね!」
マーガレットはすぐにもう一人へ向き直る。
短槍の男が怯えて距離を取った。
「な、なんだよお前……」
「マーガレット!」
彼女は元気よく名乗る。
「覚えなくていいよ!」
「どっちだよ!」
「倒すから!」
短槍が突き出される。
マーガレットは身を低くし、穂先の下へ潜る。
そのままハルバードの柄で男の足を払った。
男の身体が宙に浮く。
マーガレットは慌てて手を伸ばし、襟首を掴んだ。
「おっと、飛びすぎると檻に当たる!」
そのまま地面へ丁寧に叩きつける。
丁寧。
本人としては。
実際には男は白目を剥いた。
檻の中の子どもが、ぽかんと彼女を見る。
「……すごい」
マーガレットは振り返って笑った。
「大丈夫?」
子どもは小さく頷いた。
檻の中には、大人が五人、子どもが四人いた。
皆、縄で縛られている。
顔色は悪く、服は汚れている。
明らかに長時間まともに扱われていない。
マーガレットの笑顔が少しだけ消えた。
「……すぐ出すからね」
彼女は檻の錠前を見る。
鉄製。
古いが頑丈だ。
「壊していい?」
檻の中の大人が慌てて言う。
「え、あ、はい……!」
「じゃあ壊すね」
「ちょっと待ってください」
レクスターの声が飛ぶ。
「檻ごと壊さないでください」
「分かってる!」
「錠前だけです」
「錠前だけ!」
マーガレットは深呼吸した。
ハルバードの石突を錠前へ当てる。
ほんの少しだけ力を込める。
ばきん。
錠前が砕けた。
扉は無事だった。
マーガレットは目を輝かせる。
「できた!」
「当然のことを大成功のように言わないでください」
「でもできた!」
檻の扉が開く。
中の人々はすぐには出てこなかった。
信じられないのだ。
今まで閉じ込められ、脅され、諦めかけていた。
急に扉が開いても、身体が動かない。
マーガレットはしゃがみ込み、声を柔らかくした。
「大丈夫。出てきて。ゆっくりでいいから」
子どもが一人、恐る恐る出てくる。
マーガレットが手を伸ばす。
子どもは一瞬びくりとしたが、その手が自分を掴むためではなく支えるためだと分かると、小さく握った。
「よし。えらい」
その一人が出ると、他の人々も動き出した。
泣きながら外へ出る女。
足を引きずる老人。
子どもを抱える男。
マーガレットは一人ずつ支えた。
その姿を見て、檻の中の人々の目に、少しずつ生気が戻っていく。
助かるかもしれない。
そう思った瞬間、人は泣く。
何人もが声を殺して泣いていた。
アレックスはその光景を横目で確認し、残る敵へ向き直る。
太った指揮役の男は、顔を真っ赤にしていた。
「ふざけるな! 貴様ら、これが誰の荷か分かっているのか!」
「人は荷じゃない」
アレックスが言った。
「黙れ! お前のような若造が――」
「人は荷じゃない」
二度目。
今度は、声が少し低かった。
太った男の言葉が止まる。
アレックスは雷の刃を下ろさない。
「もう一度、人を荷と言ったら、少し怒る」
「今すでに怒っていますね」
レクスターが冷静に言う。
「かなり怒ってるよね」
マーガレットも檻のそばから言う。
「そうか」
アレックスは困ったように笑った。
「自分では普通のつもりだった」
「普通ではありません」
「アレックス、今めっちゃ怖いよ」
「そうか」
太った男は後ずさった。
その手が、布に包まれた欠片へ伸びる。
レクスターが叫ぶ。
「触らせないでください!」
男の指が布へ触れた。
瞬間。
青白い光が爆ぜた。
空気が震える。
橋の下の水が逆巻き、森の葉がざわめく。
檻から出たばかりの人々が悲鳴を上げる。
「な、なんだ!?」
太った男自身も驚いていた。
欠片を制御できていない。
ただ持たされていただけ。
そう分かった。
欠片の光が男の腕へ絡みつく。
黒い筋が皮膚に浮かび上がる。
「ぎゃあああっ!?」
男が悲鳴を上げる。
アレックスが踏み出す。
「離せ!」
「離れない! 離れないっ!」
男は必死に欠片を振り払おうとする。
だが、青白い光はさらに強くなる。
地面に倒れていた人買いたちの何人かも、光に反応したように呻き始めた。
黒い結晶の粒が、彼らの服や肌に浮かび上がる。
マーガレットの顔色が変わる。
「まさか、こいつらも汚染されてるの!?」
「欠片を近くで扱い続けた影響でしょう」
レクスターが水の本を開く。
「かなりまずいですね」
「どうまずい!」
「暴走すれば、人間のままではいられません」
その言葉の直後、太った男の腕が不自然に膨れた。
皮膚の下で何かが蠢く。
青白い筋が首元まで走る。
男は目を剥き、口から泡をこぼした。
「た、助け……!」
さっきまで人を荷と言っていた男。
子どもを叩こうとした男。
捕らえた人々を売ろうとしていた男。
その男が、今は助けを求めている。
マーガレットの表情が歪んだ。
「……アレックス」
「分かってる」
アレックスは走った。
怒りはある。
許せない。
だが、目の前で人が怪物に変わりながら苦しんでいる。
それを見殺しにできない。
それが甘いと言われるなら、きっとそうなのだろう。
でも、この場で自分がすることは決まっている。
「レクスター!」
「欠片と腕の接続を切ってください!」
「分かった!」
アレックスの雷の刃が光る。
だが、太った男の周囲に青白い根のようなものが立ち上がった。
ラドナ村の地下で見たものと似ている。
欠片を守るように、うねりながらアレックスを阻む。
マーガレットが飛び込む。
「邪魔!」
ハルバードの柄で根を叩き折る。
刃は使わない。
近くに人がいるから。
檻から出た人々が避難しきっていないから。
「みんな下がって!」
マーガレットが叫ぶ。
「橋から離れて! 早く!」
捕らわれていた人々は、震えながらも動き出す。
レクスターの水の線が彼らを誘導するように地面へ伸びる。
「こちらへ! 川沿いではなく、森側へ!」
普段の冷たい声が、今は不思議と頼もしい。
人々はそれに従う。
群衆が動く。
泣く子ども。
足を引きずる老人。
支え合う大人たち。
混乱の中でも、少しずつ橋から離れていく。
アレックスは根の隙間を抜けた。
太った男の腕に絡みつく青白い光。
その中心に、欠片がある。
布は破れ、中の結晶がむき出しになっていた。
ラドナ村で見たものより小さい。
だが、光は強い。
まるで、周囲の恐怖や苦痛を吸っているみたいだった。
「……こんなものを」
アレックスの声が低くなる。
「人に持たせたのか」
黒外套。
あの軽い声。
楽しそうな笑い。
全部が頭をよぎる。
怒りが刃に乗る。
「雷閃」
一閃。
雷の刃が、欠片と男の腕を繋ぐ青白い筋だけを断ち切った。
肉は斬らない。
骨も斬らない。
ただ、魔力の接続だけを斬る。
青白い光が悲鳴のように弾けた。
太った男は地面へ倒れ込む。
腕の膨張が収まり、黒い筋が薄れていく。
欠片は宙に一瞬浮かび、地面へ落ちた。
レクスターが即座に水の膜で包む。
「触らないでください!」
マーガレットが動きを止める。
「分かってる!」
「あなたが一番触りそうなので!」
「失礼!」
「事実です」
欠片は水の膜の中で、まだ脈打っていた。
だが、先ほどほど激しくはない。
レクスターが慎重に本をかざす。
「……これは、ラドナ村から抜かれた欠片の一部です」
「取り戻せた?」
マーガレットが息を弾ませながら聞く。
「一部は」
「一部?」
「黒外套が持っていた欠片そのものではなく、さらに分けられた破片のようです」
アレックスの表情が険しくなる。
「分けたのか」
「ええ」
レクスターの声も低い。
「おそらく、欠片を小分けにして各地で使っている。実験、取引、汚染の拡散。目的はまだ不明ですが」
「最悪だね」
マーガレットが吐き捨てる。
「はい。最悪です」
その時、倒れていた太った男が呻いた。
「た、助け……」
マーガレットは振り返る。
複雑な顔だった。
許せない。
でも、さっき苦しんでいた姿を見てしまった。
アレックスは男のそばへしゃがむ。
「誰からこれを受け取った」
「し、知らない……」
「黒い外套の人物か」
男の顔が引きつる。
それが答えだった。
レクスターが冷たく言う。
「嘘は無駄です。反応が出ました」
「し、知らないんだ! 本当に! 顔も名前も! ただ、これを持っていれば商品が弱る、逃げなくなると言われて……!」
マーガレットの目が鋭くなる。
「商品?」
男が震える。
「ひっ……」
「人を商品って言った?」
「ち、違……」
「言ったよね」
マーガレットが一歩踏み出す。
アレックスが静かに手を上げて止める。
「マーガレット」
「……分かってる」
彼女は歯を食いしばる。
「分かってるけど、殴りたい」
「私も気持ちは理解します」
レクスターが言う。
「ただし、情報が先です」
「レクスターも怒ってる?」
「怒っています」
「だよね」
アレックスは男を見る。
「捕まえた人たちはどこへ運ぶ予定だった」
「グ、グレイル……」
「交易町か」
「そこの裏市だ……俺たちは仲介で……」
「黒外套は?」
「知らない! 本当に知らない! 橋の向こうで会っただけだ! 石を渡されて、使えと言われた!」
「目的は」
「知らない!」
男は泣きそうに叫んだ。
「ただ、あいつは言った……人が弱るほど石が馴染むって……馴染んだら回収しに来るって……!」
沈黙。
森の空気が、冷たく固まった。
マーガレットが顔を青ざめさせる。
「何それ」
レクスターの目が鋭くなる。
「人間を媒体にして欠片を汚染、あるいは増幅させている?」
「子どももいた」
アレックスの声は低かった。
「子どもも檻に入っていた」
「……はい」
「許せないな」
アレックスは静かに言った。
その声は穏やかだった。
だからこそ、誰も何も言えなかった。
彼は怒っている。
けれど怒鳴らない。
剣を振り回さない。
ただ、心の底で線を引いた。
これは越えてはいけないものだ、と。
その時、森の奥から拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
全員が振り向く。
古い橋の向こう側。
木々の影の中に、黒外套が立っていた。
顔の半分を布で覆い、片手を軽く上げている。
まるで舞台を見終えた観客のように。
「すごいね」
軽い声。
ラドナ村の地下で聞いた声。
マーガレットがハルバードを構える。
「出た……!」
アレックスが雷の刃を握る。
「欠片を返せ」
「返すって、どれのこと?」
黒外套は首を傾げた。
「もうずいぶん分けちゃったから」
レクスターの目が細くなる。
「やはり意図的に拡散していますね」
「うん」
黒外套はあっさり頷いた。
「だって、見たいから」
「何を」
アレックスが問う。
「人が追い詰められた時、何になるのか」
その一言で、マーガレットの表情が変わった。
「……ふざけんな」
「ふざけてないよ」
黒外套は楽しそうに笑う。
「けっこう真面目」
「人を実験にしてるの?」
「実験って言い方、冷たいね」
「冷たいのはお前だ!」
マーガレットが踏み出そうとする。
だが、その前に黒外套が指を鳴らした。
欠片が強く光る。
水の膜の中で脈打っていた破片が、まるで呼び声に反応するように震えた。
レクスターが歯を食いしばる。
「引き寄せられている……!」
「抑えられるか!」
アレックスが叫ぶ。
「抑えます!」
レクスターの水の本が光る。
水の膜が厚くなる。
しかし、欠片は内側から膜を押し破ろうとする。
黒外套は橋の向こうで笑っていた。
「それ、まだ返してもらうね」
「させるか!」
アレックスが雷を纏って踏み込む。
橋を渡る。
だが、黒外套の足元から青白い光が広がった。
橋の石材が歪む。
まるで空間が揺れたように、黒外套の姿が遠ざかる。
「また逃げるのか!」
「逃げるんじゃないよ」
黒外套は笑う。
「次の場所へ行くだけ」
「待て!」
「追っておいで」
その声が、森に響いた。
「グレイルで待ってる」
次の瞬間、黒外套の姿は青白い光に溶けるように消えた。
同時に、水の膜の中の欠片が大きく跳ねる。
レクスターが叫ぶ。
「抑えきれない!」
アレックスは振り返った。
マーガレットが檻から離れた人々を庇っている。
レクスターが欠片を抑えている。
橋の上には倒れた人買いたち。
逃げた黒外套。
選ぶ時間はなかった。
「欠片を斬る!」
「壊せば情報が失われます!」
「暴走したら人が死ぬ!」
「……っ、なら外殻だけ!」
「分かった!」
アレックスは雷の刃を構えた。
欠片の中心ではなく、周囲にまとわりつく青白い濁り。
黒外套の呼び声に反応している流れ。
そこだけを狙う。
ラドナ村で見た黒い線。
それと同じだ。
「雷閃」
刃が走る。
青白い濁りが断たれた。
欠片の暴れが弱まる。
レクスターが即座に水の膜を締め直す。
「封じます!」
水の膜が薄い氷のように固まり、欠片を包み込む。
光はまだ漏れている。
だが、暴走は止まった。
森に、ようやく静けさが戻る。
マーガレットが大きく息を吐いた。
「……逃げられた」
アレックスは橋の向こうを見た。
黒外套が消えた場所。
グレイル。
交易町。
そこに、次の歪みがある。
「でも、行き先は分かった」
レクスターが欠片を慎重に布で包み直す。
「欠片の破片も確保しました。ラドナ村の修復に役立つ可能性があります」
「捕まってた人たちは?」
マーガレットが振り返る。
解放された人々は、まだ怯えていた。
だが、檻の外にいる。
縄も解かれている。
子どもたちの何人かは泣きながら抱き合っていた。
老人が地面に座り込み、空を見上げていた。
助かった。
まだ完全ではない。
でも、助かった。
アレックスは彼らを見て、雷の刃を鞘に納めた。
「まず、この人たちを安全な場所へ」
「見張り小屋?」
マーガレットが聞く。
「一時的には」
レクスターが答える。
「その後、グレイルへ行く前に人買いたちを拘束し、情報を整理します」
「忙しいね」
「当然です。面倒事が増えました」
アレックスは少し笑った。
「ごめん」
「謝罪は不要です」
マーガレットがにっと笑う。
「でも、助けられたよ」
「うん」
アレックスは頷く。
「それは、よかった」
森の古い橋に、捕らわれていた人々のすすり泣きが響く。
川の水音が、その声を静かに運んでいく。
黒外套は逃げた。
欠片はまだ足りない。
グレイルという新たな場所が見えた。
けれど今、ここで救えた命がある。
その事実だけは、確かに三人の手の中に残っていた。
そしてアレックスは、橋の向こうの森を見つめる。
優しい顔の奥に、消えない怒りを宿して。
「次は、逃がさない」
その声は小さかった。
けれど、マーガレットもレクスターも、確かに聞いていた。




