87 信長、景虎の茶を飲む──戦は鉄砲から商いへと変わる
数日後。半壊した寺の境内で、景虎は信長、そして信忠と向き合っていた。
信長の瞳には、怒りよりも、全てを見透かしたような静けさと、虚脱と、そしてかすかな退屈の終わりのような感情が同居していた。
俺は、茶を点てながら、一枚の書類『八洲商会・設立趣意書』を差し出した。
「信長様。貴方をここで殺せば、日の本は再び奪い合いの時代に戻る。それは、俺にとっても、あんたの描いた『天下』にとっても、損失だと俺は思う」
そう言って、俺は茶を差し出す。
「……信長様。貴方の軍も、領地も、すべてこの商事が買い取る。……貴方のその天才的な才能を、世界市場開拓で使ってもらいたい」
信長は俺の茶を飲み、少し口元を上げて笑った。
「……世界市場か、退屈よりはマシなことだな。しかし、苦いな。儂は、少なくとも貴様に茶の点て方は教えられるぞ」
「……それは是非とも師事させてください。俺はそういう教育を受けてこなかった」
溜息つきながら信長は答える。
「茶など幾らでも教えてやる。……景虎。お主、いずれこの国すべてを養うつもりか。ならば見せてみよ。儂らにもその毒のような夢で酔わせてみせよ」
「……必ずや」
「……ところで、景虎。儂の家臣たちはどうした」
「柴田殿、丹羽殿は同じく謹慎中です。会ってやってください。二人とも、食を取ろうとしません。彼らは今後を担うであろう優秀な人材でしょう。明智殿は坂本への移動中、農民たちに襲われておりましたが、俺の部下が助け出しました」
「では、あの猿はどうした。豪華な生活でも満喫しているか?」
俺は視線を逸らさず、静かに答えた。
「……岐阜へ向かう途中で、一揆に遭ったそうです。運がなかった」
「……ふん」
信長は、すべてを見透かしたように鼻で笑った。
「……ふん。運、か。……あの男は優秀だったがな。あの男は、主君を裏切ることでしか己の価値を証明できなかった。世界を相手にする組織に、そのような不確定要素は不要というわけか」
信長は立ち上がり、宣言した。
「……よかろう。小賢しい裏切りではなく、儂のような者を、貴様がどこまで乗りこなせるか……。見せてもらうぞ、景虎」
それまで黙っていた、信忠が発言を求めた。
「宜しいでしょうか」
「……信忠、控えよ」
「いえ。勿論、良いですよ。信忠殿、仰ってください」
「お許しを頂き、感謝を。……父上を、そして我ら織田を拾っていただき、感謝いたします」
そこから、姿勢を正して信忠は続けた。
「……景虎殿。貴殿は、実に憎たらしいほど自由だ。松をその手元に置き、父上を商売道具に変え、挙句の果てにはこの日の本を巨大な楽市に変えようとしている。……正直に言えば、私は貴殿を斬り捨てたいほどに、羨ましくて仕方がない」
俺は、胃を押さえながら苦笑いする。
「……羨ましい、ですか。代われるものなら、今すぐ、書類の山と胃薬を渡して、俺は隠居したいですよ」
「……ふん。その、余裕ぶった態度が一番鼻につくのだ」
信忠はそう吐き捨てると、しかし、どこか吹っ切れたような目で定款を見た。
「だが、貴殿一人が面白おかしく外海を駆けるのは、もっと癪だ。……私もその毒のような夢を見よう。貴殿が耐えられなくなった時、その隣で退場の引導を渡す役目は、私が引き受ける」
「ほう」
「だから、一つだけ聞かせて頂きたい。かつて私の許嫁であった松が、今、貴殿の側で笑っていると聞いた。彼女は、幸せであろうか」
俺は、点て終えたばかりの二杯目の茶を信忠に差し出した。
「……松姫は今、武田の遺臣たちと、うちの鉄砲隊を繋ぐ重要な役割で、騎馬鉄砲隊を担っています。……幸せかどうかは彼女に聞いていただきたいが、少なくとも、誰かの身代わりとして死ぬ場所は、もうここにはありません」
信忠は俺のいれた茶を飲み干し、深く頭を下げた。
「……承知した。ならば、私は父の狂気を支える調整役となりましょう。世界という市場に挑むには、父の槍だけでは足りぬはず。松が守りたかったこの国を、私も守ってみせます」
その言葉を聞き、信長はフッと満足げに笑った。
「……ふん。似てほしくないところばかり似おって。……景虎、準備を急げ。儂は、世界を早く見てみたくなったぞ」
会談が行われている寺の周囲を、独特の地響きが囲んでいた。武田伝統の騎馬隊でありながら、その背に跨る兵たちは最新式のライフルを背負っている。その中心で、一際小柄ながらも凛とした空気を纏う少女が、鋭い視線で周囲を警戒していた。
寺から出てきた信忠は、その指揮官の姿を見て、息を呑んだ。
「……まさか。松、なのか?」
鎧を纏い、采配を握る松姫は、かつての許嫁に向かって、優雅に、しかし事務的な一礼を返した。
「織田信忠殿。……武田鉄砲騎馬隊隊長の松にございます。会談の無事、慶賀に存じます」
信忠は言葉を失った。自分が文で知っていた、しとやかで守られるべき松姫ではない。自分の足で荒野に立ち、軍を統べる一人の専門家がいた。
「景虎様!」
信忠との挨拶を早々に切り上げた松が、景虎の姿を見つけるなり、パッと表情を輝かせて駆け寄る。
「周囲の警戒、不審な動きはございませんでした。……それで、景虎様。お疲れではありませんか? 胃のお薬、新しいものを用意させておりますよ」
指揮官としての厳格さはどこへやら、景虎に向けられたその瞳には、隠しきれない親愛と、ほんの少しの「独占欲」が滲んでいる。
景虎は、松の頭を軽く撫でながら、苦笑いして信忠を見た。
「……ご覧の通りです。彼女はもう、誰かの身代わりではありません」
信忠は、その光景を焼かれるような思いで見つめ、やがて自嘲気味に笑った。
「……完敗だな。貴殿は、彼女に彼女自身の人生を与えたというわけか」
会談は終わった。
俺の胃は、かつてない激痛に悲鳴を上げている。
「……鶴。準備はいいか」
「はい。北条、武田、そして今、織田も。……すべての決定者が揃いました。皆、駿府に目指しております」
俺は、背後に控える五人の妻たちを見渡した。その先頭で、松が誇らしげに胸を張り、鶴が静かに頷いた。




