83 信長の総力戦、開始前に崩壊──武田の鉄砲騎馬が歴史を塗り替える
織田信長が放った号令は、北陸道を震え上がらせた。
だが、北陸への行軍が始まるや否や、織田家の屋台骨たちに、目に見えないひびが入り始めていた。
米五郎左こと丹羽長秀は、前線への兵糧輸送を差配しようとしたが、出来ないことに愕然とした。
「……米を買えないとは」
長秀の目の前で、近江の商人が首を振る。彼らが差し出したのは、景虎が普及させた相越銀貨に紐付く手形だった。
上杉・北条の経済圏は、戦う前に美濃・尾張の物資を手形決済という方法で抑えていたのだ。どんなに買い付けようとしても物が先に抑えられているので履行できない。織田の命令書は、ただの紙屑となっていた。
長秀は筆を置き、天を仰いだ。
「戦う前に、物資が手に入れられなくなり……。殿、申し訳ございませぬ。進軍出来ませぬ」
彼は兵站維持不能という事実を淡々と報告し続け、進軍停止させるという、実務家ゆえの静かなるボイコットを選んだ。
一方の明智光秀も困惑していた。
光秀は上杉領の統治を破壊するために調査を進めていたが、そもそも武田の家臣や佐竹の残党等に領地は一石も与えられず、全て給金による支払いであった。その洗練された常備軍としての体系に、光秀は嫉妬と羨望が混じり合う気持ちを感じていた。
「……福利厚生、年金、合理的な給与体系。恐怖ではなく、利益と安心で人を縛る。何という……何という美しい法か。私もこのような法を作りたかった……」
この時、信長の天下は「終わりのない焦土」に光秀は見えてしまった。対して、景虎の提示する未来は、高度な秩序が保たれた「完成された世界」であった。
そこに鶴の密使が光秀の前に現れる。
「光秀殿。あなたが求める理は、最早、織田にはございません。越後にこそございますぞ」
「……その言葉、胸に刺さるぞ」
「わが主、景虎様は、貴殿を高く買ってらっしゃる。越後でその能力を活用致しませぬか?」
「……殿の天下はもう古い。私は……より高度な法の担い手になりたい」
光秀は信長の背後を遮断する布石を打ち、進軍ルートを景虎にリークする裏切りを決断した。
そして、北陸へ向かう軍列の中で、死ぬほど憂鬱な顔をしていたのが羽柴秀吉だった。
「……あーあ、勝てる気がしねえ。あの上杉の小僧、軍資金が無限にあるようなもんじゃ。殿や柴田殿の根性論じゃ、いずれガス欠だわ」
秀吉は、柴田勝家の背後を支えるという、一見すると名誉だが、実態は死に役に近い布陣に不満を募らせていた。そこへ、鶴からの密使が音もなく現れる。
「羽柴様。主君が泥沼に沈んでいくのに付き合うのは、人生の投資先として合理的と言えるでしょうか?」
密使が差し出したのは、一通の雇用契約書。
そこには、戦後の新体制における重心の椅子と、相越銀貨二千枚(約一万貫文相当 十二億円相当)の報酬が記されていた。
秀吉の手が、わずかに震える。一枚で五貫文。五枚で二十五貫。それが二千枚。
「……なるほどな。景虎様は、俺の才能を買い叩かずに、投資してくれるってわけか」
織田家でどれだけ功を立てても、これだけの「現物」を即座に用意されることはない。ましてや、今の長秀の窮状を見れば、信長の経済圏がいかに危ういかは誰の目にも明らかだった。
「ええ。側室の鶴様は秀吉様をとても高く買ってらして、景虎様に具申致しました。景虎様もそのようにお考えです」
秀吉は、先程までの憂鬱を吹き飛ばし、俄然やる気を見せた。
「そうかそうか!! わかった。やってやる」
秀吉は密使を返してから、すぐに部下たちを呼んで下知を出す。
「よおし、野郎ども! 勝家さんの『背後』をしっかり守ってやれよ! ……一番おいしいタイミングで、後ろからブスリと刺せる『特等席』にするぞ」
その顔は笑っていたが、目は一切笑っていない。
秀吉の軍勢は、獲物を狙う猿の如き獰猛さで、柴田勝家の背後——その最も致命的な死角へと、迷いなく布陣した。
天正元年(1573年) 9月 手取川。
史実では、今から四年後の天正五年(1577年)に、能登の救援に来た織田軍へ、既に能登は上杉軍により落城した報が入りる。そのため、撤退しようとした織田軍に対して上杉軍が急襲した場所だ。織田軍は上杉軍に完敗している。
その由来は今の俺たちには関係なく、大軍となって押し寄せる織田軍を足止めするべく、俺たちは、物量にモノを言わせて防衛陣地を敷いた。近隣の村々に大量の土嚢を買い上げると指示して、三重の防衛陣を作って行く。
「これも仕組み化、共通化の賜物なんでしょうねぇ」
小机からの古い付き合いとなった七介が、ブロックのように積み上げられていく土嚢に、半ば呆れながら感想を述べる。
「本来なら、掘って出た土を盛って、更に上から力を加えて地鳴らしせねばならない。だが、この方法なら、整地して詰めば完成だ」
「おまけに、堀の補強にも使える。地味なようで、本当にすごいものだ」
そうやって陣地を作った上で、銃座を順次設営していく。
「こっちでは、弾が回転して真っ直ぐ飛ぶように改良されてるから、有効射程が倍違う。その分、相手の射程外から一方的に打撃を加えられる。普通なら負けるわけがないんだ……」
「普通ならな。相手が味方の屍を乗り越えて、ただ物量で攻められると、簡単に押しつぶされることだってあるんだ」
俺たち、景虎軍は旧武田軍一万五千を加え、総勢三万。
対する勝家軍も三万、それに与力の秀吉軍が二万で五万。織田軍本体三万は、手取川から半日の距離にいる。数の上では圧倒的に不利、おまけに時間がかかれば包囲殲滅されかねない状況だ。
そんな不安な声をよそに、旧武田軍は黙々と準備を進めていく。やっぱり、歴戦の軍隊は迫力が違う。
「景虎殿、宜しいか」
武田勝頼が部下たちを連れて俺に声をかける。
「手取川の先だが、あそこに少し小高い山がある。相手は初めにそこへ陣取ると思われる。そこで、あの辺りに罠を仕掛けられないか。初戦で我らが一当てすると、時間を稼げると考える」
「勝頼殿、感謝を。……しかし、それでは武田軍の損耗が」
「案ずるな。退路を予め用意する。それで罠というのはな。敢えて、初戦から我らが鉄砲を使おうと考えている。宜しいか?」
「……成る程。鉄砲騎馬の有効性を見せつけ、迂闊に近づけないようにすと」
「然り」
武田の騎馬隊が銃撃してくる。迎撃しようにもすぐにアウトレンジに行ってしまう。これは確かに抑止力になるだろう。
「御実城様も上杉家としても、この戦でケリをつけたいのだろう。ならば出し惜しみは無だ。それに、我らの戦働きは、松の為にもなる」
「わかった。勝頼殿、頼みます」
「心得た!」
手取川の対岸。
武田軍の陣を三方から包囲殲滅しようと近づいてくる。
それを丘陵の上から見渡していた勝頼は、部下たちに激励をする。
「皆の衆! よく聴け。我ら武田の騎馬隊、此度の戦の初陣を賜った!! 良いか!我らの武勇、末代まで誇る一戦と致す」
「「「御旗楯無、ご照覧あれ!!!」」」
勝頼は父、武田晴信から譲り受けた軍配を頭上に上げ、そして振り下ろす。武田軍は静かに進み始め、次第に全力で駆け抜けていく。
「ふん。武田の騎馬隊など恐れるに足らん。迎撃準備!」
柴田勝家の与力として参戦している佐々成政、前田利家らが槍衾揃え、鉄砲を構える。
そして、まさに両軍の戦闘が始まろうとした時、異変が起きた。駆け抜けて、そして恐らく織田の鉄砲の餌食になると思われた先頭の騎馬が急停止する。その騎馬を中心に左右に騎馬が列を作って行く。
「……丘陵からの速度を殺して横列展開? しかも、まだ鉄砲の射程外ではないか。狂ったか勝頼!」
成政が嘲笑おうとした瞬間、武田の列から一斉に火を噴いた。
ガガガッ! と空気を切り裂く、今まで聞いたこともない鋭い発射音。
直後、織田軍の最前列で竹盾を持っていた足軽たちが、まるで目に見えない巨人によって殴られたかのように次々と後方へ吹き飛んだ。竹盾を貫通し、背後の足軽の胴体を食い破ってなお止まらぬ弾丸。
織田軍の常識では威嚇にしかならない距離からの武田の発砲。だが、上杉軍が供与した鉄砲にとっては必殺の圏内だ。成政や利家がこれまで経験によって築き上げてきた戦術が、音を立てて崩れ去っていく。
「馬鹿な。あの距離では届くわけが……」
その言葉は最後まで話されることはなく、武田の一斉斉射によって沈黙させられた。
「ッ!! 届くぞ! 伏せろ、伏せろ!」
利家が慌てて指示を出す。しかし、その指示を嘲笑うかのように、第二射、第三射が放たられる。
「次!! 第二陣、前へ。 第一陣、後退」
その勝頼の指示は速やかに実行され、すぐに第二陣が横列展開される。
織田軍の先頭は大混乱となっていった。そこに後方から援護に押し出した部隊も同様にアウトレンジからの武田軍の斉射によって薙ぎ払われていく。
「次!! 第三陣、突撃!!」
そして、第二陣が三射目を撃つのと同時に、第三陣、騎馬三千が織田軍に突撃した。
「駄目だ、もたないぞ。引け、引くんだ」
こうして織田軍の先陣は敗退を余儀なくされる。左右に展開していた織田軍も、援護に回ろうとするところを、同じく武田軍の第四陣と第五陣によるアウトレンジからの斉射のよって進路を塞がれているうちに、本隊は撤退、自身らも騎馬の機動力を活かし、悠々と撤退していった。
この初戦で、武田軍の死者は百二十名。対して織田軍の死者は二千、負傷者三千の大損害を与えた。武田軍の勝利であった。




