81 信長が偽金を撒いたので、ふるきが織田経済を破裂させた
元亀四年(1573年)、初夏。 岐阜城の最上階。
かつては天下を見下ろす高揚感に満ちていたこの天守閣は、今や冷え切った火薬の匂いと、行き場のない殺気で満たされていた。
信長は、景虎から送られてきた「武田家吸収合併」の知らせを記した書状を、一文字も読まずに火鉢へ投げ込んだ。
「――武田が、消えただと?」
その声は低く、地這うような響き。傍らに控える羽柴秀吉は、噴き出す冷汗を拭うことも忘れて平伏していた。
「……はっ。武田勝頼、ならびに重臣一同、松姫を伴い越後へ撤退。信濃・甲斐の諸城には、既に上杉の旗が……。徳川殿も遠江にて、北条の『三つ鱗』に道を塞がれたと激昂しております」
「無血開城、そして武田家臣団を手に入れる……。景虎め、あやつ、あれだけ我らに武田との戦いを仕掛けさせて、その武田を全て奪うだと」
信長が床を強く踏みつける。その足元には、光秀が提案した「偽銀貨」の試作品が転がっていた。
「殿、御案じ召されるな」
静かに、しかし断固とした口調で割って入ったのは、明智光秀だった。その瞳は、かつての教養人の面影はなく、執念深い狩人のようだ。
「景虎が武田という巨体を飲み込んだのは、自らの首を絞める行為でもあります。数万の食い詰め浪人と、その家族……。これらを養うには、いかに佐渡の銀山があろうとも、いずれ上杉の財政を食い破りましょう」
「十兵衛。儂は、奴の自滅を待つほど気の長い男ではない。今すぐ、どうにかしたいのじゃ」
「承知しております。ゆえに……このような毒も撒くのです」
光秀が指し示したのは、偽銀貨だけではなかった。それは、本願寺の門徒や比叡山の僧兵たちに密かに流している「檄文」だった。
「景虎の銀貨こそが、民を惑わし、神仏の秩序を壊す悪魔の石であると説かせました。銭の信用が崩れぬなら、その銭を持つこと自体が罪、いう恐怖を植え付けさせましょう。……信徒たちが各地で銀貨を拒絶し、上杉の物流網を内側から焼き払うはずです」
「……ククッ、銭をケガレに変えるか。十兵衛、お前も中々えげつない男になったな」
信長が初めて、狂気を孕んだ笑みをこぼした。
「殿! 丹羽様からもご報告です!」
秀吉がここぞとばかりに声を張り上げる。
「逃げ出した鉄砲職人どもの家族を捕らえ、岐阜の地下牢に閉じ込めました! 『景虎のライフルを超えるものを造らねば、家族の命はない』と。……奴ら、泣きながらでも造るでしょう。暴力と恐怖こそが、最も安上がりな統治にございます!」
「そうだ、それでいい。景虎が利益で人を動かすなら、儂は恐怖で人を動かす」
信長は、壁に掛けられた黒いマントを翻し、最前線へ向かうべく歩き出した。
「長秀には、偽金を使って西国の物資を無理やり徴収させろ。勝家には、越前より北陸道を封鎖させろ。……景虎、貴様がどれだけ家族を増やそうが、その全員を飢えさせてやる」
信長の後ろ姿を見送りながら、秀吉は獲物を狙う獣のような目つきで睨みつけた。
「……旦那様。そんなに顔を青くして、胃薬を飲むのはおやめなさいな」
春日山城の財務執務室。俺の目の前には、明智光秀が放った「偽銀貨」が数枚並んでいた。本物と見分けがつかないほど精巧だが、わずかに銀の含有量が低い。
「ふるき……。これ、笑い事じゃないぞ。市場にこれが出回れば、俺たちが積み上げてきた信用が一日で崩れる。そうなれば、武田の遺臣たちに払う給料も滞ることに」
俺が机に突っ伏すと、ふるきは冷めた手つきで偽銀貨を指先で弾いた。
「信用を壊すのが光秀の狙いなら。私なら……信長の財布をパンパンにして破裂させてあげますわ」
「破裂……?」
「ええ。旦那様、許可をいただけますか? 蔵田屋の全ルートを使って、織田領内に向けて『あるもの』を全力で逆流させます」
ふるきの表情が、相場師のそれに変わった。
数日後。岐阜の城下は大騒ぎとなっていた。
光秀が意気揚々と偽銀貨を流通させ、本願寺の門徒たちが「銀貨は悪魔の銭だ」と騒ぎ立てていた。そんな中、突如として寛永通宝が、岐阜の城下へ溢れ出したのだ。
「な、なんだこれは!? なぜこんなに銭がある!」
商人たちの悲鳴が上がる。
ふるきが仕掛けたのは、これまで上杉側が溜め込んでいた大量の旧銅銭の一斉投下、つまりダンピングだった。
「報告します…… 城下に、見たこともない量の銅銭が溢れています! 誰かが、織田領内の米や塩を、この銅銭で二倍、三倍の値段で買い漁っているのです」
丹羽長秀が、震える手で報告書を信長に差し出した。
「銭があるなら良いではないか」
「いえ、殿……! 誰でも彼でも相場より高い値段で買うせいで、昨日まで一斗につき百文だった米が、今は二千文を出しても買えません! 銭の価値が、一刻ごとに下がっていく、……銭の価値が消えていくのです!」
これが、ふるきが仕掛けたハイパー・インフレ。
光秀が銀貨の信用を落とそうとしている隙に、ふるきは逆に「織田の通貨」の価値をゼロにしてしまった。
岐阜の市場は、パニックになった。
「明日には銭がゴミ屑になる」と感じた民衆が、手元の銅銭を物資に替えようと殺到する。
「神仏を溶かした銭だろうが何だろうが、銀貨に変えた方がマシだ! 銅銭なんかで米は売れん!」
「今すぐ現物をよこせ! さもなくば蔵へ押し掛けるぞ!」
恐怖で職人を縛っていた秀吉も、これにはお手上げだった。
「殿……! 職人たちに支払っていた給金(銅銭)では、彼らの家族が米も買えない状況です! 武器への恐怖よりも飢えへの恐怖が勝っております!」
そこへ、ふるきは織田領の境目に、蔵田屋が巨大な炊き出し所を幾つも設置した。
「織田の銭はいりません。無償ですよ〜、どんどん召し上がってください。そこの貴方、どうです? その腕一本、上杉に預けませんか? 上杉では銅銭でなく、価値の変わらぬ銀貨を差し上げますわよ」
ふるきの甘い誘いに、恐怖で繋ぎ止めていた職人たちが、次々と夜逃げを始めた。
「……えげつない。えげつないよ、ふるき」
報告を聞いた景虎は、もはや胃の痛みを感じる気力もなく、ふるきを凝視した。
「あら、旦那様。あちらが偽造などというルール違反をしたのですから、こちらは市場の飽和という正攻法で返しただけですわ。今頃、岐阜城の金蔵は、重たい金属のゴミ捨て場になっているはずです。床が落ちないと良いですわね」
ふるきは優雅に扇子を広げると、景虎の肩にそっと手を置いた。
「さあ、旦那様。信長様が完全に理性を失って、全軍で殴りかかってくる前に……。武田の赤備えと、栞さんのライフル隊、その使い道を決めましょう?」
「……ああ。もう、やるしかないか」
景虎は、手元の「上杉銀貨」を一枚、力強く握りしめた。
経済で追い詰められた信長が、最後にして最大の暴力、美濃・尾張の全戦力投入を決断するのは、もう時間の問題だった。俺は春日山城の軍議に足を向けた。
「……上杉め。貴様ら、儂の領地を銅で埋める気か」
岐阜城。崩れ落ちる銅銭の山を前に、信長は静かに、殺意を込めて、太刀を手に取った。
「経済が何だ。……すべて、燃やしてしまえば同じことよ」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
光秀の偽金&ネガティブキャンペーンに、ふるきがハイパーインフレさせる回でした。楽しんでいただけましたでしょうか。
経済で逃げ道を塞がれた信長が、理性を捨てて全戦力投入を決断しました。
明日配信の第82話より、総力戦です。ここから結末まで、一気に駆け抜けますのでどうぞお楽しみください。
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