80 家族が揃ったので、信長との決算に挑むことにした
元亀四年(1573年)、春。 春日山城の奥、景虎(三郎)の執務室。
そこは今や、日ノ本で最も「銭」と「情報」が動く経済の心臓部となってきた。
机の上に山積みにされたのは、武田家から引き継いだ膨大な債務(家臣団の扶養家族リスト)と、佐渡から届いたばかりの銀の精錬報告書。
俺は、栞が淹れてくれた「特製胃薬茶(ドクダミ入り)」を啜り、天を仰いだ。
「旦那様、そんなに死にそうな顔をなさらないで。せっかく新しい家族が増えたのですから」
横から楽しげに声をかけてきたのは、蔵田屋の女主人、ふるきだ。
彼女は今、俺の財務責任者として、堺の商人たちを「上杉銀貨」のレートで翻弄している。
「……ふるき。家族が増えるのは喜ばしいが、それが『武田信玄の娘』で、しかも十二歳となると、各方面への説明がとんでもないんだよ」
「あら、面倒くさがらないで。松姫様は『歩く武田ブランド』ですよ? 彼女がここにいるだけで、甲斐信濃の旧臣たちは、織田に寝返るより旦那様に仕える方を選びますわ」
ふるきがパチリと算盤を弾く。その音は、まるで「利益確定」の合図のようだった。
そこへ、襖が静かに、だが威圧感を持って開いた。
「――景虎様。いつまで油を売っておられるのです」
入ってきたのは、正室の伊保野。
腕には、まだ赤ん坊の海王丸を抱いているが、その背中には上杉の正室としての圧倒的なオーラが渦巻いている。
「松姫様なら、先ほど私のところで挨拶を済ませました。……なかなかに骨のある娘ですこと。甲斐の虎も、最期に良い遺産を貴方に残しましたわね」
「伊保野、彼女をいじめてないだろうな?」
「心外ですわ。ただ、上杉の作法と、北条の処世術と、そして旦那様を甘やかさない技術を少しばかり指南しました」
(それが一番怖いんだよ……)
景虎は喉まで出かかった言葉を胃薬で流し込んだ。
「入るのじゃ……」
部屋の隅の影からスッと現れたのは、娘の風羽を抱いた側室の鶴。彼女は甲斐から連れてきた忍び「三ツ者」の選別を終えたばかりだ。
「……旦那様。松姫は面白い。この娘、夜道でも目が見えるんじゃ。……武田の血か、この娘の特徴か。吾が鍛えれば、良き『隠れ路』の管理人になれそうじゃ」
「鶴……。この子は十二歳の少女なんだ、もう少し普通に接してやってくれ」
「旦那様。この乱世に普通などありませんわ」
最後に口を開いたのは、銃の整備を終えた栞だ。
彼女は銀色の銃身を愛おしそうに撫でながら、景虎を真っ直ぐに見据えた。
「松姫様は、武田という沈みゆく船から、たった一人で未来という名の岸へ泳ぎ着いたのです。……私と同じ。居場所を失い、貴方に救われた。……だからこそ、彼女は誰よりも貴方に執着するでしょう」
部屋を包む、静かな、しかし濃密な空気。
伊保野(権威)、鶴(諜報)、ふるき(経済)、栞(軍略と火力)。四人それぞれの利害が俺を取り囲んでいる。
そこへ、震えるような声で、しかしはっきりと返答があった。
「……あ、あの」
入り口で、小さな影が揺れていた。
武田から輿入れしてきたばかりの、松姫だ。
彼女は、独特な女たちが集うこの空間の熱気に圧倒されながらも、小さな拳をぎゅっと握りしめていた。
「……景虎様。私、お姉様方に教えていただきました。ここは、石高を奪い合う場所ではなく、新しい路を、海の路を造る場所なのだと」
彼女はトテトテと景虎のそばに歩み寄ると、その着物の袖を掴んだ。
「クッ、あざとい」
小さくふるきがつぶやく。
「……父上は、仰いました。景虎は、山と海へ繋ぐ男だと。……私、お姉様たちに負けないくらい、働きます。甲斐の金山も、信濃の秘密の抜け道も。そして武田の軍を。全部、景虎様のために使ってください」
十二歳の少女の、真っ直ぐな瞳。
それは、かつて景虎が前世のオフィスで忘れてきた「純粋な情熱」そのものだった。
「……松」
景虎がその小さな頭に手を置こうとした瞬間。
「あの、旦那様。感動のシーンの邪魔をして悪いけれど」
ふるきが、一枚の分厚い書類を机に置いた。
「信長様、激怒して、織田領での『上杉銀貨』使用禁止令を出しましたわ。……おかげで闇レートが暴騰してしまって。今が、織田領内の物資を買い叩く最大のチャンスです。……さあ、松姫様の金山を担保に、一気に経済戦を仕掛けますわよ?」
「……景虎様、常備軍の給金も、銀貨払いに変更しました。兵たちの士気は上々です。いつでも出られますよ」
栞が銃を構える。
「……海王丸も、お腹を空かせています。早くこの戦を終わらせて、家族で静かに暮らせるようにしなさい」
伊保野が微笑む。
「……では、ますますあちらの情報網を混乱させないとな。……松、行くぞ。仕事だ」
鶴が松姫の首根っこをひょいと掴む。
「あ、はい! 鶴お姉様! ……景虎様、行ってまいります!」
「……もう復帰かよ、鶴」
嵐のように去っていく妻たち。
静まり返った執務室で、景虎は最後の一口の胃薬茶を飲み干した。
「……あー、ダメだ。やっぱり胃が痛い」
俺は、冷めた茶器を見つめながら、ポツリと独りごちた。
(……守りたい。戦国の荒波から、この家族だけは)
だが、俺の口元には、かつての孤独なサラリーマン時代には決して浮かぶことのなかった、どこか楽しげな笑みが刻まれているように思えた。
「……よし、やるか。信長、あんたの『暴力』が勝つか、俺の『仕組み』が勝つか……決算の時だ」




