79 武田が沈む前に救済する──松姫と勝頼が選んだ未来の行き先
「……父上。もう、限界です」
諏訪湖を臨む、晴信の療養の館。武田勝頼は、血の滲むような声でそう絞り出した。
部屋の外には、最強と謳われた「赤備え」の兵たちが並んでいる。だが、その具足は煤け、名馬たちは飼い葉不足で肋骨が浮き出ていた。
度重なる織田・徳川とに戦闘は、武田を追い詰めていた。亀のように守りに徹する相手に、武田の将兵は少しずつ、確実にすり潰されていた。
「勝頼よ……。いま、お前が握っているのは、武田という泥舟の舵だ」
病床の武田晴信(信玄)が、枯れ木のような手で嫡男の腕を掴む。これだけ病んでいるのに、その眼光だけが鋭く俺を射抜いた。
「上杉三郎景虎よ……。お前は我らが織田と争っている間に、宇都宮を取り込みし、佐竹を潰した。次は、用済みとなった我ら武田を叩くか」
俺は、激しく鳴り響く胃痛をこらえながら、静かに茶を啜った。
「……多くの上杉、北条の将兵はそう思っておりましょう。しかし、俺は、武田というブランドが消滅するのを防ぎたいと考えています」
俺は、懐から一通の書状――現代で言うところの「M&A提案書」を取り出した。
「これは以前の約定を明文化したものです。条件は三つ。武田家は本日をもって上杉・北条による相越同盟の傘下に入ること。信濃と甲斐は相越同盟に管理下に入る。二つ、武田全軍は、北陸へ即座に戦略的撤退を行うこと。そして三つ――」
俺が言葉を濁すより早く、晴信が割って入った。
「三つ目、松を……お前にやる。娶れ、景虎」
「っ!? 父上、何を!」
勝頼が激昂する。松姫は織田信忠との婚約者。それを破棄して目の前の男に差し出すなど、武田の、そして妹への矜持が許さない。
「黙れ、勝頼。 ……松はまだ十二。信忠との縁はすでに冷え切った。織田はもはや、略奪と暴力でしか物資を揃えられぬ破綻者だ。そんな男に、わが娘を、家臣を預けられるか!」
晴信は苦しげに咳き込みながらも、俺を凝視した。
「お前は信長を経済で殺そうとしている。ならば、松を上杉に迎え入れろ。武田の血を、その新しい統治の中に混ぜろ。そうすれば、家臣たちも『上杉の身内』として、誇りを捨てずに飯が食える」
俺は目を伏せ、しばし沈黙した。
(十二歳の少女に、信長への最大級の挑発を背負わせるのか。決めていたこととはいえ、このタイミングでか。……この老いた虎は)
胃の底が、焼け付くように痛む。
(俺は……この子の未来まで背負う覚悟があるのか? 俺の戦略の歯車にしていいのか――だが、ここで迷えば武田は死ぬ。背負わなければならない)
「……承知いたしました、大膳大夫様。松姫様は妻として責任を持って守りましょう。武田家臣団も、私の身内として雇用します。燕三条の最新兵装と、家族が一生食べていける給与を保証します」
松姫はただ静かに立っていた。
(……怖い。でも、誰かが決めなければ、武田は本当に終わってしまう)
胸の奥がぎゅっと痛む。十二歳の少女には重すぎる現実。だが、父の手の震えを見た時に、松姫は悟っていた。
(父上はもう長くない。兄上は戦で心をすり減らしている。……私が、武田を未来へ繋がなければ)
景虎の瞳を見つめる。そこには、戦国の荒波を渡り切ろうとする強い意志があった。
(この方なら。……この方なら、武田の兵を飢えさせない。兄上の誇りも、父上の願いも、全部抱えてくれる)
松姫は、震える指先を袖の中でそっと握りしめた。
「……景虎殿」
それまで沈黙を守っていた松姫が、一歩前に出た。
わずか十二歳。だが、父・晴信の決意を受け入れたその瞳には、凛とした覚悟があった。
「私が……貴方のもとへ参れば、武田の兵たちは皆、粥を啜れるのですか?」
その声は震えていたが、決して折れてはいなかった。
「ええ。約束します、松姫様」
松姫は静かにうなずくと、勝頼の袖を引いた。
「兄上、もう……十分です。父上の最期の策、私が全ういたします。織田との過去を捨て、武田を未来へ繋ぎます」
「松……っ、あああああ……っ!」
勝頼は床に拳を叩きつけた。何度も、何度も。
最強の騎馬軍団が、歴史の表舞台から武士として退場し、常備軍の軍人へと変貌を受け入れた。その慟哭が、諏訪の夜に響き渡った。
数日後。
織田軍の先鋒が信濃に雪崩れ込もうとした時、そこには武田の四つ菱は何処にもなかった。その代わり、上杉軍の精鋭が街道を塞いでいた。徳川軍も遠江の武田に奪われた城を攻めようとしたが、そこには同様に北条の三鱗がたなびいていた。
「なぜ、北条が遠江におる! この盗っ人め」
「人聞きの悪いことを言うな。我ら相越同盟、武田を傘下と致した。武田の旧領は我らの管理下だ。そこに土足で足を踏み入れるのであれば」
ジャキっと、連装式火縄銃が徳川に照準を合わせる。
「お相手つかまつる」
一方、北陸道。
「……おい、本当にいいのか。これ、米だぞ。しかも銀貨まで……」
撤退する武田の兵たちに、俺たちが手配した炊き出しの列が続いていた。温かい粥を啜り、涙を流す将兵たち。その先頭で、勝頼は一人の少女の馬を引いていた。
「景虎殿、と申して良いか……。一つ、聞いておきたい」
勝頼が、並走する景虎に、複雑な表情で声をかける。
「信長は、この国ごとの『寝取り』に間違いなく発狂する。生涯の敵として、貴方を呪うであろう。分かっているのか」
俺は、宇佐美栞が差し出した強力な胃薬を飲み込み、ため息をついた。
「分かっていますよ。ですが、勝頼殿。先に仕掛けてきたのは織田です。それに、恨みだけではね。信長が怒り狂って市場をさらに荒らせば、それだけ民は俺たちの『上杉銀貨』を求めます」
俺は振り返り、輿の中から自分を見つめる松姫に微笑みを向けた。
「俺も大膳大夫様(武田信玄)とデカい約束した。……さて、信長が理性を失う前に、次の経済戦、始めようか」
胃の痛みは消えない。
だが、武田の赤備えという「最強の鉾」が俺の手元にやってきた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
ついに、景虎が描く信長包囲網の最後のピースが完全に揃いました。
本来の歴史では、信長が堺や京を制圧し、圧倒的な財力と兵力で信長包囲網を各個撃破していきました。
しかし本作の景虎は、地道に技術力を高め、諜報網を広げ、日本海の海運力を握り、佐渡の銀山と上杉銀貨を手に入れ……そして今回、最後まで足りなかった「最強の武力(武田の赤備え)」を手中に収めました。
武田の誇りと松姫の未来、そして強烈な胃痛を背負った景虎。
物語はこれより、織田家との最終決戦へと向かいます。結末まで一気に駆け抜けますので、どうぞお見逃しなく!
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