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鶴姫と景虎の国盗り経営録 ──戦国の怪物たちを円卓に集めたら資本で世界を取りに行った件  作者: みなと
第6章 信長・天下編 ~戦国の終わり、八洲商会の誕生と世界の始まり~

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75 信長が京を捨てたので、俺は貨幣改革でトドメを刺す

 元亀四年(1573年)、春。

 信長は、誰もが予想しなかった撤退を断行した。

 日ノ本の中心――京から織田の旗が消えた。


 信長は、美濃や尾張といった自らの「コア資産」を死守するため、京を捨てた。その決断は「損切り」だった。

 せっかく手に入れた京の都、そして栄華を極めた堺。それらを惜しげもなく放り出し、軍勢を近江の防壁まで一気に下げたのである。

 京の公家衆は、織田の旗が消えたと知った瞬間、右往左往し始めた。

「な、なぜじゃ! なぜ都を捨てるのだ信長は!」

「朝廷はどうなる! 誰が我らを守るのだ!」

 屋敷の廊下では、位の高い公家が喚き散らし、下級の者たちは荷物を抱えて逃げ出し始める。

 「中央は京」という幻想が、音を立てて崩れていく。


 浅井・朝倉の陣でも混乱が広がっていた。

「信長が……京を捨てた?」

「何を考えている、あの男は!」

 「……戦線を縮小させたのであろうが」

 「それならば、京は死守するだろう。なぜ、手放す」

 「やはり、罠ではないか?」

 勝機を掴んだはずの両家は、逆に敵の意図が読めず、疑心暗鬼になっていた。


 織田の本陣では、あまりに過激な戦略に、宿老たちが困惑を隠せずにいた。

「殿、正気でございますか!」

 柴田勝家が、激しさのあまり地図を叩く。

「京を捨てるなど、朝廷も将軍も、本願寺の好き勝手にさせると仰るか! 堺の富も、今や全て北の景虎へ流れております。これでは戦わずして敗北したも同然!」

 信長は、冷めた目で勝家を見据えたまま、筆を止めなかった。

「権六、貴様は未だに『地面』の広さで戦を測るのか」

 隣で地図を書き換えていた丹羽長秀が、静かに勝家を制した。

「柴田殿。京や堺は、守るにはあまりに広く、脆い。あそこに兵を割けば、我らは武田と本願寺に挟まれ、薄く引き延ばされて終わりだ。殿は『死に金』となる領地を捨てられたのだ」

「その通りだ、五郎左(長秀)」

 信長は筆を置き、真っ赤に塗られた尾張、美濃、南近江、伊勢志摩の範囲を指差した。

「京など、本願寺に持たせておけ。あそこは古い権威と利権の泥沼よ。奴らが義昭という名の『重石』を抱えて身動きが取れなくなる間に、俺はこの狭い、だが精緻な『要塞』を磨き上げる。……光秀、どうだ」


 襖が開く。明智光秀が、京から持ち出せる限りの「価値あるもの」――戸籍、地図、一部の職人を連れて戻っていた。

「……はっ。京の公家衆は、我らが都を捨てたことに腰を抜かしております。しかし、防御線は劇的に短縮されました。これにより、我が軍の伝令速度、兵の密度は以前の三倍以上に跳ね上がっております」


 そこへ、這うようにして入ってきたのは木下藤吉郎だった。その目は、恐怖と興奮で充血している。

「殿! 堺の豪商ども、上杉景虎が誘う能登の『特区』へ一斉に逃げていきましたわ! まるで肥溜めから奇麗な水溜まりへ飛び移るように!」

「……逃がしてやれ。銭など、後で根こそぎ奪えば済む」

 信長は、不敵な笑みを漏らした。

「藤吉郎、景虎は何をしていた」

「へえ、それが……。奴め、能登を『巨大な工場』に作り変えております。職人を分け、作業を揃え、まるで命のない木偶を組み立てるように鉄砲を造っておる。あれは……一人の天才を、数多の凡夫で殺す仕組みにございます」

 信長の瞳が、愉悦に細まった。

「景虎め、俺と同じ結論に辿り着いたか。だが奴は『北海』というぬるま湯で経済を回しておる。俺はこの『要塞』の中で、戦を極める」

 信長は立ち上がり、地図を足蹴にした。

「勝頼という肉壁をすり潰し、防衛線に近づく全ての敵を、集中した火力で灰にする。版図を広げるのは、敵が疲弊し、日ノ本の既存の価値が完全に崩壊した後だ。……今はただ、この狭い領地を血と鉄の味に染め上げろ」


 戦略的後退ではない。

 それは、来るべき「総力戦」に備え、余分な脂肪を削ぎ落とした、織田信長という名の獣の「脱皮」であった。

 

 信長は伊勢、志摩、南近江、美濃、そして尾張に強固な防衛線を敷き、そこへ兵糧と弾薬を山のように積み上げた。

 中央というブランドを捨ててでも、自らの「資本」を死守し、反撃の機を待つ。魔王は、最も厄介な「引きこもり」へと変貌したのだ。

「こうなると、会社、いや組織は簡単に潰れないんだよなぁ」

 俺は海王丸をあやしながら、伊保野と話す。

「八方塞がりでジリ貧になるのではないですか」

「その通りなんだけど、時間がかかるんだ。その間に、周りが先に息切れする場合もあってさ」

「……ああ、なるほど。少ない宝を皆が奪いあう、と」

「そう。今頃、京も堺も大混乱だろうよ。だから、次の手をうつ」

「景虎様、海王丸の前ではあまり悪い顔をしないでください」

「……すまん」

 

 京は想像通り、大混乱となった。

 足利義昭は念願の復権に鼻を高くしているが、実態は浅井、朝倉、本願寺、松永久秀といった面々が「京と堺の利権」というパイを巡って、互いの喉元を食い破らんとする泥沼の抗争に明け暮れている。


 まず、最大取引先の織田家が堺から忽然と姿を消した。撤退時、詰めるだけの物資や資金も持って行った。中には踏み倒された商人も少なくない。瀬戸内の海路は、織田家の撤退で治安が悪化し、南蛮船も「越後の福良津に行けば、安価な銀が手に入る」という噂を信じて北へ舵を切る。

 物流が止まった街は、緩やかに腐り始めていた。栄華を誇った堺の街は、今や閑古鳥が鳴いている。南蛮船の姿はなく、主要な蔵からは、金子も、職人も消え去っていた。

「……銭の匂いがしまへんなぁ、この街は」

 堺のトップ商人、今井宗久は、もはや抜け殻となった堺の街を見つめ、溜息をついた。

「そろそろ、北陸道に屋敷を作らないと」

 彼らのような移動が出来る豪商の大部分は、すでに財産の拠点を「北」へと移し始めていた。

 

 織田信長が「絶対防衛線」の奥に引きこもったことで、近畿は権力抗争のるつぼと化した。朝倉義景は背後の加賀からの一向宗が押し寄せる状況に対応せざるをえず、越前の内乱を抑えるべく京を離れた。そして、その加賀の一向宗の動きをまさに策謀した石山本願寺が、入れ替わるように軍勢を上洛させる。彼らは速やかに、将軍・足利義昭を「保護」という名目で拘束し、事実上の傀儡としたのだ。

 そんな中、石山本願寺が堺に兵を進め、強引な矢銭(軍資金)の徴収に乗り出した。

「銭を出せ。仏敵を討つため、堺の富を差し出せ!」

 本願寺の僧兵たちが、威圧的に大商人の蔵の扉を蹴り開ける。

 だが、そこで彼らが目にしたのは、空っぽの床に転がる埃だけだった。

「……何やて? 銭がないやと?」

 堺の豪商たちは、死んだ魚のような目で、しかし口元には微かな笑みを浮かべて応えた。

「へえ、見ての通りにございます。近頃は不景気でしてな。……商いの方は、越後の福良津や直江津の支店へ移させていただきましたわ」

 彼らは景虎の「上杉銀」という決済通貨の信頼性に賭け、財産の大部分をすでに北へと動かしていた。本願寺や義昭が徴収に来た時には、堺は「抜け殻」になっていたのだ。


 同じ頃、能登半島の懐に抱かれた七尾湾。

 湖のように静かなこの海面に、巨大な影がいくつも落ちていた。

「ここを、日ノ本最大の工廠こうしょうにする」

 俺、上杉景虎は、湾を見下ろす高台に立っていた。

 福良津はあくまで「表の窓口」だ。だが、この七尾は違う。周囲を能登島に守られたこの湾こそが、景虎艦隊の真の本拠地――バックオフィスである。

 俺は、京から亡命してきた堺の商人たちを一堂に集め、「ピッチ(投資説明)」を始めた。

「このドックとガレオン船の建造権は、俺の『芯』だ。引き継ぎ直轄事業として俺が運営する。だが、この七尾を囲む街、倉庫、市場……これらすべてを『特区』として開放する。あんたらに、この街のインフラへの出資を認める」

 商人たちは、俺が差し出した図面を見て息を呑んだ。

 そこには、分業化されたパーツ工場、規格化された職人宿舎、そして「上杉銀貨」による独占決済市場の青写真が描かれていた。

「俺の銀で価値を保証し、俺の船が世界から物を運んでくる。あんたらが銭を出せば、ここは信長の撰銭令も、本願寺の略奪も届かない自由経済都市になる。……どうだ、堺の発展をもう一度創れると思うが、この未来に、いくら張る?」

 商人たちは顔を見合わせた。迷いはなかった。彼らにとって、混迷の京より、景虎が提示する「管理された自由」の方が、遥かに信頼に値したからだ。

 「……旦那、出資の枠は、あとどれくらい残っておりますんや?」

 堺のトップ商人が身を乗り出す。景虎は冷めた茶を飲み干し、胃の痛みを感じながらも、心の中でガッツポーズを作る。

(自分の金で工場を建て、他人の金で街を造る。信長、お前は今、何をしている)

 

 日本海から吹き付ける荒々しい風が、福良津の港を揺らしている。

 ふるきがポルトガル商人から買い叩いてきた中古のガレオン船が、ドックでその巨体を解体されつつあった。

「……これ、本当にバラして構造がわかるのですか?」

 ふるきが、複雑な木組みを見上げながら尋ねる。

 俺は、図面代わりに用意した大量の紙を広げた。

 「ああ。外側の形だけ真似ても意味がない。竜骨の太さ、外板の張り方、大砲の反動をどう逃がしているか。その構造を完全に理解していくんだ。和船や、ふるきたち知っている唐船の造船技術と、こいつの剛性を組み合わせるんだ」

「旦那様、でも、これまでのやり方では追いつきませぬ」

 ふるきが、大量の木札を抱えながら報告する。

 俺は、燕三条から招いた金属加工の職人、荒浜の熟練工、そして堺から「亡命」してきた精密技術者たちを一堂に集めた。技術革新で小机からの付き合いの鉄造、七介、蓮次に説明を任せる。

「これからは一人の天才が全行程を担う時代じゃない。分業化だ」

 俺たちはガレオン船の構造を、数千の「パーツ」へと分解した。

 竜骨を組む者、外板の曲げ加工を担う者、燕三条の技術で滑車や固定金具を大量生産する者。

 これまで鉄砲の改良で培ってきた「部品の互換性」という概念を、船という巨大な構造物に適用する。

「燕三条は金具を、堺からの連中は観測機器と内装を。そして福良津衆がそれらを組み上げる。一つ一つの部品の精度を揃えろ。そうすれば、修理も増産も、これまでの数倍の速さで可能になる」

 俺が求めているのは、越後の杉を使い、荒れる外洋に耐えうる「規格化された要塞」としての巨大船だ。

 職人たちは最初、その「個性を殺す」ようなやり方に戸惑ったが、やがて気づき始めた。このシステムこそが、信長の火力さえも凌駕する「圧倒的な物量」を生み出すのだと。

 七尾の工廠は、昼夜を問わず動き続けている。木槌の音、金具を打つ火花、職人たちの怒号、運び込まれる材木の匂い。誰もが、俺の描く、未来の船、和製のガレオン船を一刻でも早く形にしようと動いていた。その熱気は、信長の火薬工房に匹敵する戦争の匂いを孕んでいた。


 一方、遠江 三方ヶ原。

 勝利の地であるはずのこの場所に敷かれた武田の本陣は、停滞感に包まれていた。信長の絶対防衛線に阻まれ、武田の全軍は攻めあぐねていた。

 本陣の奥、病床の晴信は、傍らに控える息子・勝頼を見つめていた。勝頼は、前線で織田の防衛線を今にも食い破らんとする勢いを見せ、将兵の信頼も厚い。頼もしい限りだが、その危うさを晴信は見抜いていた。

「勝頼よ。……お前、この停滞の正体がわかるか」

「……信長が震えて引きこもっているだけのこと。父上、俺が全軍で突っ込めば、あの防衛線など紙同然にございます」

 晴信は、激しく咳き込みながらも、力なく笑った。

「……そうだな。お前の武勇は、もはや儂を超えている。勝頼、儂は隠居する。武田の家督、お前に譲る」

「父上!? なぜ、今、この大事な時に……!」

「……死にかけの老いぼれが軍を率いるなど、士気に関わる。勝頼、お前に全権を預ける。だがな……」

 晴信は、枕元から一通の証文を取り出した。そこには、上杉景虎との密約が記されている。

「お前がどうしようもなく壁に突き当たった時、あるいは、武田という家が折れそうになった時。……迷わず、この景虎を頼れ。奴に牙を貸せ。その代わりに、奴に『路』を作らせろ」

 勝頼は、証文を受け取りながらも、その瞳には納得のいかない色が混じっていた。

「父上、俺に……あの北条の倅に頭を下げろと仰るのですか? 武田が、他家の助けを借りねば立ち行かぬと?」

「……いつか分かる。刀の時代は、もう終わったのだ」

 勝頼は証文を懐にねじ込み、深々と頭を下げて本陣を去った。本陣を出る勝頼の背中に、誰も声をかけられない。

 その背中には、「自らの力で信長を粉砕し、父の弱気を晴らしてやる」という強固な決意が張り付いていた。

 「強すぎるがゆえに脆い」

 晴信は小さく呟いた。

 

 数日後。俺は、朝廷から届いたばかりの書状を広げた。

 混迷する京へ送り込んだ「投資」の成果だ。

「正五位、鋳銭長官・上杉輝虎。ならびに、鋳銭次官・上杉景虎」

 俺は、その官位を記した紙を眺め、冷めた茶を飲み干した。

 朝廷への「精錬銀」の寄進。それが朝廷を動かし、日ノ本における「貨幣鋳造権」の公的な認可を俺たちにもたらしたのだ。

「信長。あんたが撰銭令えりぜにれいで古い銅銭の価値を操作して、民を混乱させている間に、俺は『銀』という絶対的な基軸通貨を世に出す。あんたの国で粥一食買うのにも、俺の許可が必要になる仕組みを作ってやるぞ」

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