73 四人の妻に背中を押されて武田晴信に会いに行ったら、娘を託された件
甲斐と武蔵の国境、深い霧に包まれた古寺の境内。
張り詰められた武田の四菱の幕の内側で、真田昌幸が待っていた。
「昌幸殿、今回の会談調整に感謝を」
「……景虎殿。ここからは『墓場まで持っていく話』になりますぞ」
彼はこの密会を仲介した。武田という沈みゆく巨船から、何を救い出し、何を見捨てるか――その選別のために、特等席でその仕分けを確認しようとしているのだ。
奥に座していたのは、武田晴信。「甲府の御館様」と呼ばれ、俺を小僧と見下した男だ。病が身体を蝕んでいても、その双眸には、なお武田を維持せんとする強い執念が宿っていた。
「……待っておったぞ、北条の小倅。いや、上杉で軍神の愛弟子とか言われているらしいじゃないか。異端児よ」
晴信の声は掠れていたが、その眼光は少しも衰えていない。
「お久しぶりにございます、御館様。……いえ、大膳大夫様。北条西堂丸改め、上杉三郎景虎にございます」
「ふん。礼儀など今更よ」
俺は晴信の前に座る。
「織田の狐が、越後で女を嘲笑い、越中で一揆を操る小細工をしておる。……だがな、そんなものはあの男の本質ではない。あれは、世のすべてを焼き尽くし、神仏さえも己の足元に跪かせようとする、天災のようなものよ」
俺は一歩踏み込み、晴信の土気色の顔を見据えた。
「はい、俺もそう思います。……今日はご提案に伺いました。信玄公の西進作戦、その背中を俺に預けていただきたい」
「……ほう。宿敵の上杉が、俺に背を向けると言うか」
「条件は三つです」
俺は指を立てる。
「一つ、上杉は此度の武田の西進に対し、一切の背後を突きませぬ。これは密約です。家中の強硬派には、私と直江景綱が泥を被ってでも釘を刺す」
「二つ、北条の動き。此度の遠征で仮に……万が一、武田が徳川らに敗れた場合。北条は即座に駿河から遠江へ侵攻する支度を整える。これは武田への追撃を阻む防波堤であり、織田の東進を止める楔となる」
「……北条が動くか。氏康公も人が悪い」
「その代わり、北条は背後の憂いなく上総、下総、そして里見領への攻略に集中させていただきます。これが北条にとっての実利だ」
晴信の眉が動く。上杉と北条という脅威が背後から消えれば、武田は全戦力を織田・徳川へ向けることができる。これ以上の「贈り物」はない。
晴信は激しく咳き込みながらも、上機嫌に鼻を鳴らした。
「……カカッ。相越同盟は、俺を擦り減らすための盾に使いおったか。……して、最後の一つはなんだ」
俺は、懐から徳本先生に教わった薬学の処方箋を取り出した。
「武田の金堀り衆すべて、そして三ツ者(忍び)の半分を私に譲ってください。……彼らには、私が描く海の路作りの為に働いてもらう」
「……あやつらは、武田の努力の結晶であり牙だ。それを寄越せと?」
「甲斐の山はもう乾いている。金堀り衆を佐渡へ送り、最新の掘削技術で銀を掘り出す。そして、三ツ者を情報の網として日本中に張り巡らせる。その対価として……薬の原材料を国外から直接、安価に仕入れ、甲斐と信濃の民へ等しく配りましょう。博多も堺も通さない――診察もしていた徳本先生はこう仰った『薬が高すぎて、救える命も救えん。いっそ自由に海を渡れればな』と。駿河に侵攻しようとしたのも、兵站が限界に近いからでしょう。疲弊させた民を救う。それが、武田の名を未来へ繋ぐ道だ」
晴信の瞳に、激しい葛藤が走る。
だが、彼は知っている。自分が死んだ後、勝頼がどれほど意固地に「武田の伝統」を守ろうとし、自滅していくかを。
「わかった、持っていけ。……だが、景虎。お前、それだけで来たのではないだろう」
「……」
俺の胃がどんどんと痛くなっていく。
「言えぬのか。では、儂から一つ、条件を出してやろう」
「……何なりと」
晴信は掠れた声で、しかしはっきりと告げた。
「武田の姫、松を娶れ。儂の娘じゃ」
「……え?」
俺は思わず顔を上げた。晴信の瞳には、打算ではなく、親としての色が走っていた。
昌幸が息を呑む。
「御屋形様、松姫様は織田の……」
その昌幸の声を遮って、晴信が続ける。
「武田の家が限界を迎えた時。……その時は、武田の誇りである騎馬隊を、お主の、その大法螺の船に乗せて未来へ運ぶと約束せよ。玉砕などさせるな。船に乗せ、武田の名を冠した武勇を末代まで残させろ……。その誓いの証として、儂の娘を、お主の妻として迎えいれよ」
俺は晴信の瞳に、激しい葛藤と、そして親としての深い愛を見た。
「なにを黙っている。どうせ、輝虎、氏康と話してきたのだ。あの二人ならそこまで言うであろう。これは、当たり前のことじゃ」
「……妻たちに、言われました」
言った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
「四人の覚悟に比べて、自分はまだ迷っている――その事実が、情けなくて仕方がない」
晴信は、そんな俺の揺れを見透かしたように、静かに頷いた。
「お主には出来た妻たちじゃ。……この世は残酷よ。因果な世じゃな」
晴信は俺の肩に手をかけて言った。
「……約束せよ、景虎。織田に、徳川に、この山、この川、諏訪の湖。一歩も踏ませるな。武田の民を、そして勝頼たちを……救ってやってくれ」
俺は唇を噛んだ。これは、逃げられない。
「……約束しましょう、この命に代えても。武田の誇り、私が未来へ繋ぎます」
「ならば、証文に致せ。勝頼に伝えておいてやる。姫は ……姫の祝言に儂は出席出来ないがな。思えば、儂は、あの子に父として何もしてやれなかった」
晴信は、ふっと目を伏せた。
「せめて、幸せにしてやれ。あの子は、戦のために生まれたわけではない」
その一言が、胸に刺さった。俺はただ、深く頭を垂れることしかできなかった。
暗がりの中で、時を超えた師弟のような契約が成った。
「愉快、愉快よ……! 昌幸、源三郎。お主たちがこの男に惚れた理由が分かったわ。……この小倅、武田を救うと言いながら、俺の宝を根こそぎ奪い去り、己の夢に組み込もうとしておる」
晴信は震える手で、俺の腕を強く掴んだ。死臭と、それ以上の凄まじい意志が鼻を突く。
昌幸が、その光景を満足げに、しかし静かに涙を浮かべて眺めていた。
帰り道、霧の晴れ間に月が見えた。
俺の背後には、すでに数名の三ツ者が影のように付き従っている。
「早速、依頼がある。織田の流言、黙らせてくれないか。これは支度金だ」
俺が金子を入れた袋を取り出して渡す。
「ただちに」
何人かの三ツ者の気配が遠ざかる。あの武田の忍びだ。信長の流言など、もはや些事だ。
「……さあ、背中を気にしない、全力の武田を準備出来たぞ。信長、お前も全力で戦ってみろよ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
只の人質だった北条の小倅、三郎は、ついに甲斐の虎・武田晴信と密会になりました。
織田信長という圧倒的な力を前に、晴信の「父親としての願い」を背負った景虎のここからの大立ち回りにご期待ください。
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