72 織田の流言で家庭崩壊? いいえ、四人の妻が武田の姫を推してきた
木下藤吉郎が去って数日後。直江津を中心に感じの悪い噂が広まり始めた。
市場では、魚を捌く手を止めて噂話に花が咲き、春日山の侍女たちは怯えた顔で囁き合い、越中の国衆は「景虎は女に溺れた」と密かに書状を交わしていた。
春日山の評定でも、老臣たちが互いを疑い始めていた。噂は、家を壊す前に組織を壊す。
噂は、火より速く国を焼く。織田信長は、戦わずして敵を壊す術をよく知っている。
「……随分な噂を流してくれたものだ」
俺は書斎で、届けられた報告書を放り投げた。
城下から越後全域にかけて、ゴシップが広まっている。
曰く、『景虎は北条の血に狂い、四人の女を侍らせて政務を放り出している』。
曰く、『正室・伊保野は景勝(顕景)と通じ、景虎を排斥しようとしている』。
曰く、『前回の論功で虐げられた景虎は、側室・鶴と謀反を企てている』、『側室・ふるきは上杉の財を着服して私腹を蓄えている』、『側室・栞が宇佐美の遺児というのは真っ赤なウソだ』
あまりに稚拙だ。だが、それゆえに大衆の耳には届きやすい。
さらに悪い報せは重なる。越中――顕景が治める富山周辺で、沈静化していた一向一揆が再び蜂起の兆しを見せているという。
「織田から、大量の鉄砲と黄金が越中へ流れ込んでいますわ」
越中の情報を持ってきたのは、ふるきだった。彼女の表情はいつになく硬い。
「信長は本願寺と敵対しているはずだが、上杉を叩くためなら敵の敵とさえ手を組むか。合理的といえば合理的だな」
「感心している場合ではありません。このままでは顕景様の足元が崩れます。そして何より……」
ふるきが言葉を濁した瞬間、奥の襖が開いた。そこには伊保野、鶴、そして栞が顔を揃えていた。
「景虎様」
伊保野が静かに進み出る。その手には、巷に流れる誹謗中傷を記した文があった。
「……信長殿は、私の不貞まで疑うようですね。私が貴方を裏切り、弟を立てようとしていると」
伊保野の瞳には、怒りよりも悲しみが宿っていた。
俺は立ち上がり、彼女の肩を抱き寄せた。
「馬鹿げている。そんな言葉に、一分の理もない。伊保野、お前を疑う者など、この春日山には一人もいない。……信長の狙いは、俺の家庭を壊し、俺たちの心を乱すことだ」
「……旦那様。吾は、信長が許せぬ」
鶴が、ふっくらとした腹をいたわるように押さえながら、鋭い殺気を放つ。影として生きてきた彼女にとって、身内を汚す策動は最も許しがたいものだ。
「今は、俺たちの絆がどれほど強固か、魔王に見せつけてやる時だ」
俺は四人を見渡した。
「伊保野、お前は上杉の正室として、堂々と城下に姿を見せよう。鶴、春日山を中心に密偵を狩り出せ。ふるき、お前は織田の金の流れを逆に辿り、越中の一揆を経済的に干上がらせる策を考えてくれ。そして栞、お前は宇佐美衆を率いて、福良津の防衛に回ってくれ、多分、何か仕掛けてくるだろう」
四人が一斉に頷く。その瞳に迷いはない。
伊保野が、誹謗中傷の記された文を扇子で叩いた。
「景虎様。よろしいですか。ひとつ、献策致します」
「どんな策だ」
「この流言を止めるには、噂を上書きするほどの事実を叩きつけて差し上げましょう。……そう、織田が歯ぎしりするような、巨大な利権を伴う婚姻ですわ」
「婚姻?」
俺が聞き返すより早く、ふるきが身を乗り出した。
「そうですね! 織田が越中に金を流して一揆を煽るなら、こっちはもっと大きな財と武力を奪えばいいわ。……旦那様、武田を狙いましょう」
伊保野が続ける。
「旦那様。つまり、こういうことです。武田に裏で手助けするのです。……そう、武田の織田攻めを邪魔しない、と。その担保に姫を娶るのです。織田が最も嫌がることをしてあげればよいのです」
「栞、お前まで……。だが、上杉の義を考えると家中の反発が――」
「反対する連中は、私が黙らせます」
伊保野が、腹をいたわりながらも、声音に刃を混ぜる。
「上杉の不義理? 笑わせますわ。不義理を働いた織田に、何の遠慮がいりましょう。景虎様、私は怒っているのです」
更に鶴は続ける。
「裏取引のひとつとして、武田の忍びを貰い受け、上杉の影として再編するのじゃ……。そやつらの忠誠を得る為に武田の姫が必要なら、吾がその女を監視してやる。信長に飲み込ませる必要などない。武田は旦那様が武田を食らって、血肉にすればいいのじゃ」
栞が顔を上げた。
「戦略的には……最良です。武田の姫を側室に迎え、武田の騎馬隊と技術を『景虎様個人』の私兵として取り込む。そうすれば、景虎様は上杉・北条を繋ぐだけの存在ではなく、第三の勢力……いいえ、新たな王になれます。……旦那様、その姫は私たちが教育します。景虎様の邪魔をしないように、徹底的に」
四人の妻たちは、嫉妬を「実利」と「執着」でねじ伏せ、景虎に武田の姫を娶るよう詰め寄った。それは信長の流言を粉砕し、武田という巨星を丸ごと飲み込むための、女たちの宣戦布告だった。
「良いですね?」
「……はい。わかりました」
信長よ。あんたの流言は、俺たちの間に楔を打つどころか、結束をより固くした。そして四人の妻たちをこんなにも変えてしまった。
(……俺も仕事をするか)
久しぶりに胃がキリキリと鳴る。前世、本社の会議室で、キレ散らかす役員を相手にしていた時と同じ感覚だ。
春日山城、義父・上杉輝虎(謙信)の前で、俺は冷や汗を拭いながら地図を広げていた。
「――義父上。今、上杉に武田と戦う余裕はありません」
輝虎の眉が跳ね上がる。殺気が膨らむが、俺は止まらない。
「越中の一向一揆は織田の金で再燃し、能登の国衆も不穏です。今ここで武田の背中を突けば、越後は内側から崩壊します。……織田は、それを狙っているでしょう」
「……ならば、何故武田に物資を流す! 兵糧、薬、塩。いずれも越後の血肉ではないか!」
「投資です。織田に直接殴り返す代わりに、武田という『狂犬』に餌を食わせて、織田の喉元に放り込むんです。そして、 その狂犬の首輪を、私が握ります」
俺は深く頭を下げた。ここからが本題だ。
「武田の姫を、私の側室に迎えます」
「貴様……狂ったか。宿敵の娘をこの春日山に入れるというのか! 不義理にも程がある!」
「伊保野も、鶴も、ふるきも、栞も承知の上です。これは単なる縁組ではありません。武田の牙である『三ツ者』と、天下無双の『金堀り衆』を景虎個人に繋ぎ止め、上杉の財力と情報網に組み込むための契約です。……義父上、俺に泥を被らせてください。上杉の『義』を汚さず、俺が不義理の汚名をすべて背負って、信濃と武田の遺産を無傷で献上してみせます」
輝虎はしばらく絶句していたが、やがてこう言った。
「……四人の妻が許したというのか。ふん、お前は本当に物量で戦の仕方を変えるのだな。だが、その汚い算盤、ひとつ良い点がある。甲斐と信濃の民の疲弊が少なくなることじゃな」
「はい。それに。軍のいなくなった信濃など、速やかに飲み込めましょう」
「……許す。儂らは北陸道を固め、仮に武田が織田に勝っても、加賀にいつでも侵攻する準備を整える」
息をつく暇もなく小田原へ馬を飛ばす。
実父・北条氏康と現当主の氏政は、さらに「取り分」にシビアだった。
「三郎。唐沢山で死にそうになったというのに、今度は何を企んでいる」
「間に合ったから良かったものの、お主は博打を打ちすぎじゃ。そのお主が、武田を見逃すだけならまだしも、武田の姫を娶るだと?」
氏康の瞳に鋭い光が宿る。北条にとっても、武田は不倶戴天の敵だ。
「父上。これは気兼ねなく関東を掃除するための保険です。武田の姫は、北条にとっての質草となります。彼女が俺の手元にいる限り、武田は北条を裏切れません」
俺は氏康の耳元で、ふるきから授かった策を囁いた。
「武田には『共闘』と言い、上杉には織田の盾と言う。その間に、俺が武田の利権を吸い上げ、北条の流通網に乗せる準備を致しましょう。……父上、兄上。信玄と武田が死にゆく今、一番美味しい肉を食うのは、じっと動かず待っていた北条であるべきでしょう? 駿河どころか、遠江まで北条の版図に入れられる絶好の機会です」
「……お前、本当に因果なことを考える。えげつない男だな」
「氏政様。それが北条に提案できる、軍を動かす意味です」
氏政が心底嫌そうな顔をして、隣の老練な男に視線を振るった。
「そういうわけなのですが、久野殿(北条幻庵)。駿河での軍備をお願いできますか」
「まあ、鶴の婿殿の頼みだからのう」
幻庵が細い目を開けて笑う。
「景虎よ、その武田の姫とやらをしっかり手なずけろ。武田の忍びを奪い取り、北条の耳目として働かせる……それが条件じゃ。たまには東海道にも顔を出せよ」
「はっ。次回は必ず、鶴と伺います」
輝虎へは国力強化のための時間と、信濃侵攻のオプション。氏康と氏政には、遠江と甲斐への、将来の買収特権の提案。
稀代の怪物二人のエゴを逆手に取った泥臭い根回しを終え、俺が一息ついていると、ついに待っていた人物がやってきた。後藤源三郎だ。
「景虎殿、準備が整ったぞ……その顔を見るに、大変な調整であったようだな」
「ああ、久しぶりに胃が痛くなったよ。……そうか、会ってくれるか」
「……会ってはくれるが、どうなるかは分からぬぞ。案内するが」
「世話になる」
その足で甲州街道を進む。目的地は、甲斐国境。
信長という脅威に対抗するため、俺はついに武田晴信と面会することになる。
信長の流言で家が崩れかけましたが、四人の妻たちは逆に武田を推してきました。
ここから景虎は、ついに武田晴信との密会へ向かいます。
武田の未来と、晴信の父としての願いが景虎に託される――物語の大きな転換点です。
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次回、武田晴信との会談をお楽しみに。




