71 秀吉が越後に来た──信長の使者は笑顔で俺を試しにきた
能登 福良津の迎賓館
福良津の空は、抜けるように青かった。だが、その穏やかな陽光とは裏腹に空気はひりつくような緊張感に支配されていた。
海風が吹き抜ける回廊に、二人の少女が静かに控えていた。
一人は、宇佐美の遺児・栞。
凛とした佇まいに、武家の娘らしい落ち着きと気品が漂う。
もう一人は、柚子。
明るい笑顔を浮かべているが、その奥にある警戒心は隠しきれていない。
堺から逃げてきた時、織田の兵が父親と自分に行った記憶が、まだ胸の奥に残っているのだ。
そこへ、派手な羽織を揺らしながら、木下藤吉郎が姿を現した。
「いやぁ、これはこれは! 能登の迎賓は美しい娘御が務めるのですなぁ!」
猿のような顔をさらにくしゃりと歪め、愛想よく笑う。
だが、その目は二人を値踏みするように細められていた。
栞は一歩進み、礼を取る。
「羽柴藤吉郎様。景虎様の側に仕える栞と申します。護衛を務めております。景虎様がお待ちです。どうぞこちらへ」
「おお、これはこれはご案内とは丁寧に。……ところで、そちらの娘御は?」
柚子は笑顔のまま、ほんのわずかに秀吉を睨んだ。
「柚子と申します。同じく護衛を務めております」
「護衛? 娘御ばかり? いやはや、北陸は進んでおる!」
秀吉は軽く笑い飛ばしたが、柚子の目は笑っていなかった。
「……織田の兵と同じ匂いがしますね」
「ほう? どんな匂いだ?」
「人を数字で数える匂い、です。堺で嗅ぎました」
秀吉の笑顔が、一瞬だけ固まった。
栞が静かに話を続ける。
「羽柴様。そちらは、贈り物でございますか?」
「お、おうおう。京の紅と南蛮の反物じゃ」
秀吉は懐から包みを取り出し、誇らしげに広げて見せた。
「いやぁ、奥方様方に喜んでいただければと思いましてな! どうじゃ、美しかろう?」
柚子が包みを見て、ぽつりと呟いた。
「……四つ、ないんですね」
秀吉の手が止まる。
「お、おう? いや、まあ、その……」
栞は淡々と微笑んだ。
「羽柴様。越後や能登の女たちは、豪奢な物を目当てに互いの役目を奪い合いませんよ」
秀吉は、初めてこの娘たちに手応えのなさを感じた。
(……なんだ、この娘ら。扱いづらい)
栞は一歩下がり、丁寧に案内の手を広げた。
「景虎様は応接の間にてお待ちです。どうぞこちらへ」
秀吉が歩き出すと、背後から柚子の目が気になった。
振り返った秀吉に向けられた柚子の目は、 堺で織田兵に追われた少女の、その時のままの鋭さだった。
秀吉は笑顔を保ったまま、内心で冷や汗を流した。
(……景虎殿の女、怖ぇな)
迎賓館 応接の間
俺、三郎景虎の目の前には、一人の男が座っている。
背は低く、身なりこそ立派な絹を纏っているが、その端々に「成り上がり者」特有の、隠しきれない狡知と野卑な活力が溢れ出ていた。
織田信長が最も信頼し、最も重用している男一人。木下藤吉郎である。
「いやはや、景虎様! 北条の貴公子が上杉の屋台骨を支えておられるとは聞き及んでおりましたが、これほどまでにお若いとは。驚きましたなぁ!」
藤吉郎は、猿のような顔をさらにクシャリと歪めて笑う。その態度は一見、愛想が良い。だが、その瞳の奥にある計算高い光までは隠せていなかった。
俺は、手元の茶碗を静かに置き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「木下殿。わざわざご挨拶にいらして頂き、恐悦です」
「こちらは奥方様に」
そう言って、すかさず、京の最高級の紅、そして南蛮渡来の反物を広げる。いずれも素晴らしい物だ。しかし、四人分はない。まるで奥方たちで争ってくれと言わんばかりだ。
「これはこれは感謝致します。妻たち喜ぶことでしょう。……それで、どのようなご要件でしょう。……本題を」
「ははっ、これは失礼を。では、我が主、弾正忠信長様からの直状、ならびに『ご相談』をお伝えに上がりました」
藤吉郎は懐から一通の書状を取り出し、それを恭しく――いや、どこか見下すような仕草で差し出した。
書状の内容は簡潔だった。だが、そこに込められた傲慢さは、紙面から溢れ出んばかりだった。
「……海運の使用料、ですか?」
俺の呟きに、藤吉郎は待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「左様にございます。今や織田様は京を抑え、天下の物流を整えようとされておる。北海から能登、越後、そして関東へ至るその『海の道』。そこを通る荷の上前、すなわち使用料を、これからは織田家へ納めていただきたい。さすれば、織田の保護のもと、景虎様の商いもより一層繁栄いたしましょう。……どうです、良い話ではございましょう?」
それは、交渉という名の脅迫だった。
北陸道水軍総管としての権益。それを、指一本動かさずに織田が飲み込もうというのだ。
藤吉郎は、俺の反応を愉しむように観察している。
(北条の血を引く若造だ。プライドを傷つけられれば、すぐに激昂するか、あるいは震え上がるか……)
信長の狙いは明白だ。俺を挑発し、その器を測ろうとしている。
だが、残念だったな、信長。俺もこういう交渉は昔、何度もしてきたんだ。俺は、これ以上ないほど晴れやかな笑顔を作った。
「なるほど。織田殿は実に信心深いお方のようだ」
「……は?」
藤吉郎の動きが止まった。予想外の返答だったのだろう。
「木下殿、よく考えても見てほしい。この大海原、そして荒れ狂う波を。これを作ったのは、果たして織田殿か? あるいはこの私か?
「そ、それは……神仏の御業にございましょうが」
「その通り。海の道は神仏の持ち物だ。特定の人間がその使用料を徴収するなど、神仏への不敬、天罰を恐れぬ振る舞い。……我が義父、上杉輝虎は『義』を重んじるお人。神仏の持ち物を勝手に売り買いするような不届き者とは、道を共にすることなどできませぬな」
俺は、輝虎譲りの「義」という名の正論を、織田の顔面に突き付けた。
藤吉郎の頬が微かに引き攣る。
「……それは、我らの要求を跳ね除けると? 京を制し、天下に号令をかけるあのお方の意志を?」
「いやいや、誤解しないでいただきたい。我らはただ、天の理に従っているだけだ。もし織田殿が『私は神仏を超えた存在だ』と仰るなら、その時はまた考えましょう」
俺は笑顔のまま、一切の妥協を許さぬ視線を藤吉郎にぶつけた。
藤吉郎は、しばらく俺を凝視していたが、やがて「カカッ」と短く乾いた笑い声を上げた。猿のような顔をさらにくしゃりと歪めて笑っている。だがその笑みは、不思議と人を安心させる温度を持っていた。
(……これが“人たらし”か)
敵だと分かっていても、油断すれば懐に入り込まれそうになる。その危うさが、逆に恐ろしい。
「いやはや……聞きしに勝る御方だ。景虎様、貴殿は確かに新たな世を作ろうとされる方じゃ。だが、我が主は……その想いも焼き尽くす男にございますぞ」
「それは楽しみだ。是非、機会があればご師事を仰ぎたいとお伝えください」
少しだけ顔をゆがめると、藤吉郎はこう続けた。
「しかし上杉の家は進んでいるのですな!まさか娘御ばかりが護衛とは。余程、荒事に合わなかったのか。それとも、余程、武術に自身が無いのか……」
柚子の笑顔が、ほんのわずかに冷えた。
いいね、藤吉郎さん。今度は軟弱者と言っていきり立たせたいのか。そうやって感情を揺さぶろうとするんだな。
「はい。彼女ら以上の腕を、俺は未だ見たことが無いのですよ」
秀吉の笑顔が、ほんの一瞬だけ引き攣った。
藤吉郎は、それ以上何も言わずに立ち上がった。
帰り際、彼は一瞬だけ足を止め、肩越しに俺を振り返った。
「景虎様。信長様は仰せでした。『景虎は俺に似ている。だが、どちらが上か、教えてやらねばならん』と」
その言葉を残し、藤吉郎は去っていった。
嵐の予感しかない。俺は一人、応接の間に残り、冷めた茶を飲み干した。
信長。あんたは俺を下だと。そんなの当たり前ではないか。だから、こっちは足掻いているのではないか。
俺は縁側に出て、遠く日本海の空を眺めた。
そこには、俺を支える妻たちの気配があった。
内政の綻びを突こうとする流言、家族を狙う罠。信長はあらゆる手段で俺を追い詰めようとするだろう。
「……受けて立ってやるよ、信長。俺はまだ、あんたに追いつけていない。だから、足掻いてやる。あんたの知らないやりざまを、たっぷり見せてやる」




