70 魔王信長、俺を警戒して秀吉を送り込んできた──狙いはまさかのうちの妻たち
安土城、吹き抜けの広間。
天下を俯瞰するその最上階には、初夏の風と共に、ひりつくような緊張感が漂っていた。
主座に座すのは、天下布武を掲げる魔王・織田信長。その手元には、各地の素破(忍び)がもたらした、上杉家の最新情勢を記した書状が散らばっている。
「……ふん。見事な茶番よ」
信長が低く笑った。その瞳には、知的好奇心と隠しきれない不快感が混在している。
周囲を囲むのは、織田家の屋台骨を支える重鎮たち——柴田勝家、木下藤吉郎、そして丹羽長秀、明智光秀。
「権六、猿。お主らには、この越後の若造をどう見る?」
北陸制圧を任されている勝家は、その巨躯を震わせ、苦々しげに顎鬚を撫でた。
「……上様。正直に申し上げれば、某、戦慄を覚えております。能登を落とした功労者が、土地を蹴って『水軍の管理権』などという端金の出どころを喜んで受け取るとは。北条から来た小倅、欲がないどころか、底知れぬ強欲にございます」
勝家は地図の一点を、太い指で強く叩いた。
「某が最も懸念するのは、越前・加賀の喉元に突きつけられた刃にございます。此度の能登制圧により、日本海の海運は完全に上杉の手中に落ちました。某が必死に切り崩している一向一揆の残党も朝倉も、海から越後の物資が流れ込めば、いくらでも息を吹き返しましょう。奴は陸で戦わずとも、海から我らの北陸平定を兵糧攻めにできる。……あの若造、ただの養子ではありませぬ。北陸四か国を丸ごと飲み込むつもりですぞ」
「権六、お主もようやく石高以外の脅威に気づいたか」
信長が鼻で笑い、視線を「米五郎左」こと事務方の天才、丹羽長秀へ向けた。
「長秀、お主ならどう見立てる」
丹羽長秀は、届けられた報告書の「数字」をじっと見つめていた。その表情は、かつてないほどに険しい。
「……権六殿の懸念、正にその通り。上杉三郎景虎は、土地の管理という重荷を顕景らに押し付け、自分は自在に税をかけられる金脈を丸ごと掠め取りました。石高は凶作になれば減りますが、港の関銭と交易利権は、人が動く限り尽きませぬ。何より……」
長秀は信長を直視する。
「奴が北陸の港を独占すれば、我らが進めている楽市楽座による物流支配に、北から楔が打ち込まれます。敦賀、三国、そして能登。日本海の交易路が奴の掌の上に乗れば、堺や京の豪商たちさえもが、信長様ではなく景虎の顔色を伺うようになるでしょう。これは、領土の奪い合いではなく、富の奪い合い……戦の根幹を揺るがす事態にございます」
「左様。あやつは武士の皮を被った商いの怪物よ」
静かに口を開いたのは、明智光秀だった。その端正な顔立ちには、同業者ゆえの戦慄が浮かんでいる。
「私が危惧するのは、奴の内政政策にございます。聞けば景虎は、北条で既に常備軍を編成したとか。そして越後の蔵田屋などの豪商をただ利用するのではなく、組織の一部として組み込んでいるとか。これは既存の守護代官の仕組みを根底から覆すもの。……土地に縛られぬ自由な金が、農繁期に関係なく動かせる常備軍を養い、それが上杉の武威を支える。この仕組み、どこかで見たことがありませぬか?」
光秀の言葉に、広間の空気が凍りついた。
それは、まさに信長がこれまで進めてきた兵農分離と経済優先の統治そのものだった。
「光秀、お主もそう思うか」
「はい。よく見られております」
「儂が十年かけて築いた仕組みを、あやつは模倣しおったか。……面白い。だが、胸の奥がざわつくわ」
そのざわつきが、怒りか、焦りか、あるいは喜びか。信長自身にも判然としなかった。
信長は、苛立ちを隠すように朱塗りの扇子で膝を叩いた。
「猿、お主はどう思う。あやつは、お主に似ているか?」
木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)は、揉み手をしながらその猿面に鋭い光を宿した。
「滅相もございません! 儂のような小利口な男とは格が違います。景虎様は、人心と金を同時に握る術を心得ておられる。上杉の旧臣たちは、功績を譲った景虎様を『無欲な聖人』と崇めているとか。……その裏で、日本海の富を独占する。聖人の面を被った、稀代の詐欺師にございますよ」
信長は立ち上がり、安土の天主から眼下に広がる領土を見渡した。
かつて自分がうつけものと言われながら孤独に戦い、作り上げてきた新しい秩序。それを、雪深い北国の若造が、この短期間に、しかもより洗練された形で模倣し、拡大しようとしている。
「……面白い」
信長の背中から、狂気にも似た覇気が溢れ出した。
「三郎景虎……。奴は儂に似ている。考え方、欲の張り方、そして既存の価値観を笑い飛ばす不敵さ。……だが」
信長は振り返り、家臣たちを射抜くような視線で見据えた。
「どちらが上か、教えてやらねばならん。この日の本に、魔王は二人もいらぬ」
信長は不敵に唇を歪めた。
「猿。お主、ちょっと越後まで行って『挨拶』してこい。手土産には、京の最高級の紅と南蛮の反物を持て。景虎個人を釣るのではない。奴を支える『女たち』を窓口にして、上杉の内情を掻き回せ。奴の懐に綻びを作ってみせよ」
「ははっ! 承知いたしました」
(……景虎様を揺さぶれれば、上様の覚えもめでたい。越後で一働きすれば、儂の出世もまた一段跳ね上がる。これは千載一遇の好機よ)
数日後。
安土を出立した木下藤吉郎の一行は、近江の街道を北へと向かっていた。
(権六殿の言う通り、北陸の海を封じられれば、織田の北進は止まる。丹羽殿や明智殿が警戒するのも無理はない。三郎景虎、あの男のやり方はあまりに合理的すぎる。だが、合理で動くといっても人間。必ず弱点があるものだ……)
藤吉郎は、懐に忍ばせた贈答品の目録を指でなぞった。
景虎を直接揺さぶるのではなく、彼を支える女性陣——正室の伊保野、北条家の鶴、商人のふるき、宇佐美の遺児・栞。彼女たちの間にわずかな欲や嫉妬の種を蒔けば、景虎の政策も内側から瓦解し始める。
中山道の街道沿いにある一軒の茶屋。
派手な羽織を羽織った男が、周囲に聞こえよがしな大声で騒いでいた。
「いやぁ、近頃の越後は景気がええらしいのう! 能登の港は宝の山だと聞いたぞ。誰か、あっちの事情に詳しい奴はおらんか? 儂が美味い酒を奢ってやるぞ!」
木下藤吉郎である。
彼は上杉領への使者として向かう道中、あえて目立つ姿で聞き込みを行っていた。そうすることで、網にかかる獲物を待っているのだ。
「……そこの旦那。三郎の噂を聞きたいなら、私ほど適任な者はおりますまい」
茶屋の隅。泥に汚れた着物を纏い、やつれ果てた一人の男が声をかけてきた。酸っぱい酒の匂いと、湿った土の臭気が混じったような男だった。
男の目は濁っているが、言葉の端々に隠しきれない教養と、それ以上に深い怨念が滲んでいる。
「ほう。お主、何者だ?」
「……名は捨てました。かつては相模の北条で、勘定頭を務めておりました……佐伯とでも呼んでくだされ」
藤吉郎の目が、スッと細くなった。
(佐伯……。確か、三増峠の戦いにて武田につき、元いた自家の裏工作をバラした挙句に武田を敗北に招いたという、あの腰抜けの裏切り者か)
藤吉郎は内心の軽蔑を隠し、満面の笑みで男の向かいに座った。
「おお、元・勘定頭殿か! それは面白い。まずは一献。……して、お主の知る三郎景虎様とは、いかなる男だ?」
佐伯は震える手で、藤吉郎の注いだ酒を煽った。
佐伯が語る間、藤吉郎は周囲の客の反応も横目で拾っていた。越後の噂に耳をそばだてる者、顔をしかめる者。情報は、酒場の空気にも匂うものだ。
「……奴は、三郎は普通じゃない。北条にいた頃から、あいつの目は常に先を見ていた。三増峠の策も、私の裏切りさえも、奴はすべて読んでいた……」
男は恨みがましく語り始めた。三郎が北条でどれほど異端視されていたか、どれほど冷酷に敵を追い詰めるか。
「あいつは私の裏切りを読んでいた。読んでいたのに……目が笑っていたのだ」
「ふむ」
「……三増峠の裏切りの後、私は武田にも北条にも見捨てられた。家も、名も、家族も失った。すべては三郎のせいだ。あいつは、私の逃げ道を最初から潰していた……!」
まだまだこの男の恨み節は続きそうだが、藤吉郎が聞きたいのは過去の愚痴ではない。
「そんな景虎様も、そうはいっても人なのだろう。弱点は何だ? 何か一つくらいはあるだろう?」
佐伯は不気味な笑みを浮かべ、藤吉郎に顔を寄せた。
「……女だ。あやつは、あまりに情に厚すぎる」
「女……正室の伊保野様か?」
「いや、北条幻庵の姫、鶴姫だ。側近に侍らせている。他にも宇佐美の女や、商人の女狐ども……。三郎は、自分の懐に入れた人間を、命に代えても守ろうとする癖がある。特に、あの男を支える女たちの絆を断ち切れば、冷静な判断力など霧散しましょう」
佐伯は、下卑た笑い声を漏らした。
「あやつは、他人の痛みには無関心なくせに、自分の身内のこととなると、途端にただの男に成り下がる。弱点はそこだ。あやつの城にいる女たちを揺さぶれば、あの三郎とて容易く崩せますぞ……!」
藤吉郎はその様子を眺めながら、心の中で呟いた。
(……なるほどな。裏切り者の視点というのは、実に卑俗で使い勝手が良い)
秀吉は懐から小銭の入った袋を取り出し、佐伯の前に放り投げた。佐伯は慌てて袋を掴む。かつては筆と算盤を握っていたであろう指は、今や泥と酒で黒ずんでいた。
「感謝するぞ、佐伯殿。おかげで良い土産話ができた」
佐伯を残し、藤吉郎は茶屋を後にした。
供を連れて馬を走らせる藤吉郎の表情からは、先ほどの陽気な芝居が消えている。
「情、か。それを弱点と見るか、強みの素と見るか……。だが、あの三郎景虎が、ただの愛妻家で終わるような男だとは到底思えん」
近江の湖風が背を押し、北へ進むほどに空気が冷たくなる。越後へ向かう道中、藤吉郎はすでに次の策を練っていた。
「……面白い。あえてその女たちを窓口にして、上杉の内情を引っ掻き回してやるとしよう」
手土産には、京の最高級の紅、そして南蛮渡来の反物。
景虎を直接揺さぶるのではなく、彼を支える女性陣を懐柔し、そこから綻びを作る。それが「人たらし」藤吉郎の真骨頂であった。
「……待っていなされ、景虎様。極上の遊びを仕掛けてやる」




