68 遠征から帰ったら、妻が四人になって家が修羅場だった
春日山城 三の丸、景虎宅。
七尾城攻略の報を携えた俺が、数ヶ月ぶりに春日山城の私邸へ足を踏み入れたとき、そこには既に冷たい空気が満ち溢れていた。
春日山城に到着した俺を待っていたのは、ふっくらとお腹の目立ち始めた正室・伊保野だった。
「景虎様、おかえりなさいませ。ご無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます」
「いま、戻った。留守中、身体の具合はどうだった」
「お陰様で順調です。景虎様も能登では随分とご活躍をなさったとか」
伊保野は穏やかに微笑んでいるが、その背後には輝虎の姪としての、そして顕景の姉としての「家の重み」があった。
「ああ。能登の港は整えた。七尾城も攻略した。これで、越後、越中、能登迄の航路を繋げることができる」
「……あまり無茶はなさいますな。お腹の子も、父上を待っておりますから」
上座で、静かに茶を啜る正室、伊保野。
その傍らには、常に景虎の影として戦場を駆けていた鶴が、柔らかな小袖姿で控えている。
「ところで」
伊保野が切り出した。
「景虎様。栞という宇佐美の忘れ形見を救い上げたこと、聞き及んでおります」
伊保野の声は穏やかだが、その瞳の奥には鋭い光がある。
「……加えて、福良津の蔵田屋の女主人、ふるき、ですか。鶴、あなたに『主の手綱を握っておけ』とお願いしたはずです。 遠征から戻れば、側室が二人に増えているとは……説明を伺えるかしら」
伊保野の声音は穏やかなままだが、その奥には正室としての矜持と、上杉家の血を守る者としての責任が宿っていた。
「……遠征のたびに側室が増えていっては家中が揺れます。正室として、家の秩序を守るのも私の役目です」
伊保野の言葉の一つひとつが鋭く胸に刺さる。
「い、伊保野、それは――」
「景虎様。黙っておいでくださいませ」
ぴしゃり、と空気を断ち切るような一言。俺の胃の奥がきゅうっと縮んだ。
(……うっ、これ……!)
前世でも、上司に理不尽を言われるたびに胃が痛んだ。あの頃は「ストレス性胃炎」と診断されたが─(まさか転生してまで、胃痛がついてくるとは……)
「側室が増えること自体を責めるつもりはありません。ですが――事前に相談がなかったことは、家を預かる者として看過できません」
その言葉は嫉妬ではなく、家を守る者の筋だった。
俺が言葉を探すより早く、鶴が膝をつき、静かに頭を垂れた。
「伊保野様。……吾が至らぬゆえじゃ。旦那様の路を拓くため、ふるきと栞を側に置くべきと判断した」
「あなたに判断を任せましたか?」
「……すべては、旦那様の路を拓くために必要な差配じゃ。ふるきは越後の商いを、栞は宇佐美衆を支えるに足る器じゃ。この二人は裏切らない」
「あなたがそこまで言うのは珍しいわね、鶴。……ですが、あなたがいれば足りるのではないですか? 何も側室でなくとも、部下の一人としてでは足りませんか?」
「……吾は、暫く遠征には同行できぬ。吾の従える影(風魔)も、春日山からは動かせぬとお考えください」
「……どういう意味です?」
驚く伊保野と、絶句する俺。
鶴は、わずかに頬を緩めて、そっと自らの腹に手を添えた。
「吾の中にも、新しい命が宿りました。……旦那様の、二人目の子が」
室内の空気が一瞬で変わった。
伊保野は驚きに目を見開き、そしてゆっくりと息を吐いた。
「……そう。あなたも、なのですね……ふふ、景虎様。本当にどれだけ私たちを騒がせれば気が済むのですか」
伊保野は鶴の手を優しく包み込んだ。
「ならば、あなたは無理をしてはなりません。景虎様を守る者が必要なのは、私も理解しています。――ふるき、栞。いるのでしょう、入りなさい」
伊保野の声に応じ、廊下に控えていたふるきと栞がふすまを開け、深々と頭を下げた。
「蔵田屋のふるきにございます」
「……宇佐美栞にございます」
襖を閉めさせ、伊保野が二人に問う。
「ふるき、栞。伊保野と申します。あなたたち。景虎様の為に何を成しますか。答えなさい」
「旦那様の歩む路に必要な金、兵糧、物資。私が責任を持って支え抜きますわ。……私がいれば、旦那様は飢えることも、路に迷うこともございません」
「軍略を献策し、鉄砲隊を差配致します……旦那様の盾となり、敵を焼き尽くしましょう」
二人の瞳に宿る、揺るぎない覚悟。
伊保野は、それを見てようやく、きつく結んでいた口元を綻ばせた。
「……わかりました。二人を新たな側室として認めましょう。景虎様、約束頂きたいことがあります。貴方が必要というのであれば、私も賛成しましょう。ですが、事後の報告は悲しいのです。私は些か政を嗜んでまいりました。まず、私に相談をしてください。今回、貴方の女子たちが苦労しているのは、貴方の不甲斐なさゆえにです」
「ああ。面目ない。そして、約束しよう、伊保野」
そこで鶴が加わる。
「その約束も大事じゃが、その前に、きちんと全員を愛すると誓うべきじゃ」
「……そういうの恥ずかしいじゃないか」
「お黙りなさい。女子は、黙って背中を見て悟れ、などというのは戯言です」
四人の目が俺を見ている。これは、逃げられない。
「……わかった、その通りだな。伊保野、鶴、ふるき、栞。俺はお前たちに愛を誓う。共に歩んでくれ」




