66 七尾城が燃え尽きた夜、栞は俺に嫁入りを願い出た
本丸の広場。
重臣たちは、貯水槽にこんこんと湧き出る「白い泡」を、うっとりと眺めていた。
「おお……経典に記された通りだ。白き泡立つ甘露が、我らの勝利を祝しておる」
一向宗の僧兵たちは、その水を体に振りかけ、念仏を唱える。彼らにとって、その汚染された水は、極楽の風を呼び込む、無敵のパスポートであった。
だが、その様子を城外から眺めた栞は、冷ややかに唇を歪めた。
「……無知とは、救いようがありませんね。それは極楽行きではなく地獄行きの油だというのに。……あんなに頭から被って」
そして四日目の夕方。山風が吹き上がるときに、俺たちは動き始めた。
七尾城は広大すぎて、全ての尾根を完璧に守ることは不可能だ。特に、断崖絶壁に面した「松尾口」は、攻め手は来ないという慢心から、城内のゴミや、排泄物、乾燥させた厩の藁などが捨てられ、どんどんと溜まっていく吹き溜まりになっていた。その吹き溜まりに目をつけた栞は、硝石作りの過程で出る、微細な硫黄の粉、それに、福良津で手に入れた南蛮の蒸留酒(高濃度アルコール)を染み込ませた綿くずを、宇佐美衆に命じ大量に用意させた。
「小次郎、掃除とはなんだ」
栞の問いかけに、直立不動の小次郎が答える。
「掃除とは、塵も残さず消し去ることです。我ら宇佐美衆は、荒浜の教練で学びました」
「その通りです。あんなにゴミを捨てて。どうやらあいつらは、お父様とお母様の愛が足りなかったようです、教育がなっていない。ならば、我らが掃除をしてやりましょう」
「「ハッ」」
そして、夜中。山風がより強く吹き荒れる「あいの風」の時に、宇佐美衆が絶壁の直下に向けて、火種を仕込んだ特製の火矢弾を放った。あっという間に吹き溜まりが着火し、七尾城特有の「山風が絶壁を駆け上がる上昇気流」が、崖下に用意した大量の灰と硫黄を気流に乗せ、城内を粉塵で満たしていく。更に、粉末は、泡立つ甘露に次々と吸着され、城全体が目に見えない導火線で繋がれた。
断崖の頂で、栞が愛銃を構え、引き金が引かれた。
ドォォォォン!!
城内に舞っていた粉塵が空中爆発を起こし、可燃物を燃やしていく。
爆風で念仏が途中で途切れ、炎が逆流して階段を駆け上がった空気が爆ぜ、逃げ場のない熱風が城内を蹂躙した。
「火だ! 火を消せ! 泡立つ甘露を、あの聖水を持ってこい!」
パニックに陥った兵たちが、あの「泡立つ甘露」を桶で汲み、炎に向かってぶちまける。
だが、それは最悪の選択だった。
界面活性剤で粘り気を増したアルコール水は、火を消すどころか、炎を吸着して建物の隅々にまで広げていく。水をかければかけるほど、地獄の業火は勢いを増した。
「な、なんだ!? 水が……水が爆発したぞ!」
城内は阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
消火しようと水をかけた兵は、石鹸成分によって全身に張り付いた「火薬の泡」に包まれ、生きながら火だるまとなった。引火した炎は、粉塵爆発を伴って建物から建物へと燃え広がる。「ゴウッ」という音が、まるで城そのものが悲鳴を上げているようだった。
大手門の柿崎も、後方の直江も、言葉を失った。
「これが、景虎の知略か……」
「……今だ! 門を開けろ!」
混乱に乗じ、長綱連が内側から門を解き放つ。
柿崎、直江、顕景の軍勢が、紅蓮に染まる七尾城へと雪崩れ込んだ。
城内の混乱の中、これまでの内ゲバに愛想を尽かした武士が、俺たちが放っていた工作員と接触し、重い城門の閂を外した。
「開いたぞ! 突撃!」
法螺貝の音が、夜の能登に鳴り響く。
先頭を駆けるのは、琵琶島衆を率いる前島。その後ろから、俺たちが抜刀してなだれ込んだ。
本丸に辿り着いた俺が見たのは、炎に包まれながら、なおも燃える水を浴びて念仏を唱える坊官たちの、狂気に満ちた最期だった。
明朝。焼け落ちた天守を背に、戦勝の軍議が開かれた。
諸将は、新参ながら圧倒的な戦功を挙げた俺を、畏敬の念を持って称賛した。
「景虎、見事であった。これほどの巨城を、本当に焼き払うとはな」
輝虎の言葉に、俺は首を振り、後ろに控える栞を前に出した。
「御実城様。此度の軍略、その立案者は私ではなく、この宇佐美栞にございます。彼女の知恵と勇気こそが、七尾を落としました。願わくば、宇佐美の名誉を復活させ、その再興をお許し願いたい」
どよめきの中、煤にまみれた栞が、凛とした姿で膝をつく。
輝虎は、その瞳に宿る不屈の意志に亡き宿老・定満の面影を見て笑った。
「地獄のような炎を操る夜叉かと思えば、宇佐美の忘れ形見であった。良い、宇佐美の再興を許そう。……して、栞よ。お前自身への褒美は何が良い? 領地か、金か」
軍議のざわめきが、まるで遠くの波音のように消えていった。
栞は静かに顔を上げ、一瞬、俺の顔を見てから、一度だけ深く息を吸った。まるで、これまでの人生すべてを吐き出すように。輝虎を真っ直ぐに見て、願い出た。
「……領地も金もいりませぬ。私は、ただ一人の女子として、景虎様と添い遂げたい。……この命尽きるまで、このお方の影となり、光となり、お側で支え続けることをお許しください」
軍議の場が、一瞬で「お見合い会場」のような空気に変わる。
柿崎や直江ら宿老たちがニヤニヤしながら親戚のおじさんみたいにこちらを見ている。顕景に至っては「兄上、姉上をどうするおつもりです」と言いたげな顔だ。
「景虎よ、如何するか?」
輝虎の意地の悪い振り。目の前には、期待に満ちた目で潤ませる栞。後ろを向けば、すべてを仕組んだふるきと鶴が「さあ、どうぞ」と手を広げている。
(……ったく、完全に外堀を埋められてるじゃないか)
俺は観念して、栞の煤けた手を力強く握りしめた。
「俺と共にいてくれ。宇佐美の再興も、お前の幸せも、まとめて俺が引き受けてやる」
「――っ、はい! 旦那様!」
嬉しそうに抱きついてくる栞は焼けた木と、硝石の匂いが微かに残っていた。腕に栞の重みを感じながら、俺はふと思った。
城一つを焼き尽くすような苛烈な策を練る女が、これほどまでに脆く、温かい。そのギャップを独占できるのは、案外、悪くないどころか、男冥利に尽きる幸運なのかもしれない。有難いことだと思った。




