65 七尾城が狂い始めた。偽経典と泡立つ甘露で内部崩壊を誘う
陣に戻った景虎を待っていたのは、意外な光景だった。
福良津から同行したふるきと、宇佐美衆を率いる栞が、地図を広げて何やら熱心に話し込んでいたのだ。
「景虎様、お帰りなさいませ。栞様と面白いお話をしていたのです」
ふるきが茶目っ気たっぷりに微笑む。二人は始め反目しあっていたのだが、福良津での戦いを通じて、互いを認め合う仲になっていた。
「殿。宇佐美家で秘伝されていた技術と、ふるき様の商品を合わせれば、あの巨城を燃やせられると思うのですよ」
栞が提案したのは、前代未聞の奇策だった。
石垣の下から灰を舞わせ、城内に充満したところ、外から鉄砲で銃弾を浴びせ、粉塵爆発を起こすという。延焼を拡大させる為に、ふるきが扱う石鹸の原料と、栞が精製した硝石の副産物。これが混ざると、可燃性の液体になるらしい。それを水源から城下に流し込み、宗教的に神聖な水、に見せかけて城内に備蓄させる、という。
「殿、その成果を御覧に入れます」
「……栞、夢を見過ぎじゃ」
二人の明るい声は鶴の低い声によって遮られた。
「吾は訓練中、何度も現実を直視しろと教えてきた筈じゃ。最近はマシになったと思っておったが……また、うじ虫からやり直すか?」
机に広げられた栞の献策を、鶴はにらみつけ、ひとつずつ、穴を指摘していく。
「水源に細工をし、灰を舞わせて城を焼く? 実験としては面白いが、戦場を甘く見るな。これほど広大な七尾城だ。風向き一つで役に立たなくなるし、坊官の気まぐれ一つで、その『石鹸の泡』はただの汚染水と見做されるだろう。不確定要素が多すぎる。……宇佐美の家名は、博打で再興するものではないぞ」
師でもある鶴の叱責。かつての栞なら、ここで縮こまっていただろう。
だが、今の彼女の隣には、福良津の海を共に乗り越えたふるきがいた。
「鶴姫様。……いえ、教官殿」
栞が一歩前に出る。その瞳には、唐沢山城という死線を越えた静かな迫力が宿っていた。
「唐沢山で、私は風と煙の流れを何度も見ました」
「……」
「風向きは気まぐれではなく必然です。能登の海風は、地形と日の光によって、特定の時刻に生み出されます。そして、人の心の隙を突くのもまた戦の必然。……ふるき、お出しして」
促されたふるきが、古びた、しかし丁寧な装丁の写本を机に置いた。
「鶴姫様。迷信は、時に人の思考と行動を雁字搦めにしますの」
ふるきは優雅に微笑み、その美しい指で偽造された経典の一節をなぞる。
『末法の世、泡立つ甘露を蓄えし者は、極楽の風に守られん』
「一向宗の坊官たちは、水源が次々と潰される恐怖の中にいます。そこに『泡立つ甘露』という救いを与えれば、彼らはそれを疑うことができません。なぜなら、疑うことは死を認めることだからです。……これは商いと同じです。極限状態の客は、自分が欲しがっている幻を、喜んで高値で買い取りますの」
「……なるほど、商いの理屈か。だが、灰を舞わせて引火させるなど、やはり絵空事じゃ。余程の熱量が無ければ火はすぐに消化するじゃろう」
鶴の反論に、栞が被せるように反論した。
「足ります。界面活性剤で粘り気を増した水面は、硫黄の粉を逃がしません。貯水槽そのものが、むき出しの火薬皿のようになるのです。……教官殿、あなたは私に『あらゆる手段で敵を葬れ』と教えられました。私は宇佐美の技術とふるきの商人の知恵を使って、敵を葬る最良の案を作ったと提案します」
栞の泥にまみれて土を煮続けてきた自負と、ふるきの人の欲を金に変えてきた経験が、百戦錬磨の鶴の経験則に、真っ向から挑んでいた。長い沈黙の後、鶴はふっと肩の力を抜いた。彼女は俺の方を向き、どこか満足げな笑みを浮かべる。
「……旦那様。どうやらこの小娘共、吾の教えを超えた先にある『えげつなさ』を手に入れたようじゃ。宇佐美の先代も、何なら北条の父上(幻庵)も、これには舌を巻くじゃろう」
(……これ、本当にやるのか。輝虎も認めるだろうな)
俺は、鶴の懸念も、栞とふるきの確信も、すべてを受け止めた上で決断を下す。
「鶴。お前の危惧は、俺が前線で引き受ける。前島、七介、蓮次――あいつらの命を預かるのは俺だ。……栞、ふるき。お前たちの策を採用する。四日だ。四日の後に、この能登の空を宇佐美の焔で焼き尽くせ」
「――はっ!」
栞が深く頭を下げる。その横顔には、一軍の将としての覚悟が見えた。
作戦は速やかに実行された。俺は輝虎に方針を伝えた。輝虎も面食らっていたが、他に代案が出ない以上、試してみよと、認められた。
早速、既に輝虎が内応の約束を取り付けていた城内重臣・長綱連に密使を送り、偽の経典を流布させた。
『末法の世、泡立つ甘露を蓄えし者は、極楽の風に守られん』
七尾城の内部は、異様な熱気に包まれてきた。水源が次々と潰される中、栞とふるきが細工を施した特定の水脈だけが「泡立つ清らかな水」として城内に引き込まれた。坊官たちは「泡立つ甘露だ!」と狂喜乱舞していた。泡立つ甘露を汲む列は、まるで救いを乞う亡者の行列のようだった。
水源に仕掛けたアルコールと硫黄の混じった水。貯水槽から漂う鼻を突く異臭に、畠山家の家臣の一人が眉をひそめた。
「……坊官殿、この水は妙だ。硫黄の臭いが強いし、何かの罠では――」
「黙れ、不信心者が!」
一向宗の坊官が、真っ赤な顔で一喝した。
「この七尾は霊山。地熱を帯びた神聖な水が湧くのは、経典にある通りの、泡立つ甘露よ。硫黄も温泉で感じるではないか、それと同じよ!」
「 これを疑うは阿弥陀仏への反逆と知れ!」
「そうじゃ。こんな不信心者は、上杉も手の者に違いない!」
正論を口にした武士は、その場で狂信的な僧兵たちに囲まれ、反逆者として斬り捨てられた。
その光景を影から見ていた下級武士たちは、絶望とともに悟った。この城は、敵に落とされる前に、内側から狂い始めているのだと。




