63 復讐の果てに、ふるきは景虎の手を取った
福良津の朝は、硝煙と潮風、そしてむせ返るような酒の香りに包まれていた。
瓦礫の山となった本誓寺の本堂跡。その隅で、一人の坊官が浅ましく地を這っていた。贅の限りを尽くし、門徒を煽動してこの港を焼いた強硬派の坊官だ。
「み、水を……誰か、水を……」
泥にまみれた手が、助けを求めて空をかく。
人影がその視界を遮るようにやってきた。。明の商人の衣装を纏ったふるきが、冷ややかな眼差しで見下ろしている。
「水ですか。……残念ながら、ここにあるのはあなたが兵糧と引き換えに欲しがったものばかりですよ」
ふるきの手には、一本の南蛮酒。琥珀色の液体が、朝日を浴びて美しく輝いた。
「さあ、お望みの現世の極楽ですよ。喉が渇いたのなら、最後の一滴まで存分に召し上がれ」
ふるきが瓶を傾ける。
激しくむせて、酒から逃げようとする坊官。しかし、彼女の手は止まらない。祓い除けようとする手を踏みつけ、坊官の顔の鼻と口に和紙を張り付け、更にその上から注いでいく。
「こんな量でも人は溺れるのです。この注ぎ方は、あなたたちが、喉が渇いたと泣いた私の弟にしたのと同じですよ。……極楽行きは、実証済みです」
酒を注ぐふるきの手は震えていなかった。
まるで、長年の家事をこなすような自然な動きだった。鼻腔を焼き、気道を塞ぐ高濃度のアルコール。坊官は苦悶に身をよじらせるが、それは彼自身が選んだ「贅沢」の結末だった。
「……あ、が……っ……!」
やがて、男の手が力なく地面に落ちた。
ふるきは空になった瓶を放り捨てると、憑き物が落ちたような、しかしどこか虚ろな瞳で空を見上げた。
「……終わりました。父上、母上……」
その時。
傍らでその様子を監視していた鶴が、急に顔を背け、口元を押さえた。
「くっ……!」
「鶴? どうした、怪我か?」
俺が駆け寄ると、鶴は青ざめた顔で力なく首を振った。
「……なに。この酒の匂いが、少々鼻につきすぎるようじゃ……」
彼女はすぐにふるきの方を向いた。
「……凄絶な手際じゃったな。ふるき」
鶴の言葉に、ふるきが肩を揺らす。
「軽蔑されましたか」
「まさか。我らに、情けなどという言葉はない。むしろそなたを評価するぞ。此度の福良津での第一の功はふるきじゃ」
ふるきの復讐を見届けた俺は、しばらく誰とも話す気になれなかった。唐沢山の死臭とは違う、もっと重い何かが胸に沈んでいた。……これが、奪われた者の痛みか。
夜明けが訪れる。本誓寺に設けられた仮初めの居所に、心地よい土と草の香りが漂っていた。鶴が、手慣れた手つきで薬草を煎じていだ。
「旦那様。……戦の後の昂ぶりは、毒のようものじゃ。この薬湯を飲んで、少しは休むがよい。また僧兵共が来るやもしれぬからのう」
差し出された茶碗を受け取ると、独特の苦味と清涼感が喉を通り、戦場の昂奮を静めていく。
俺は、一口飲んでふうと息を吐いた。
「助かる。少し胃の痛みも消えたようだ。……そういえば、鶴。先ほど酒の匂いに当てられていたようだが、具合はどうだ?」
その問いに、茶碗を片付けていた鶴の手が一瞬、止まった。彼女は背を向けたまま、どこか自分に言い聞かせるような低い声で答える。
「……何でもない。……ただ、少々、体が敏感になっているだけのことじゃ。旦那様が案じられるようなことでは……」
そう言って振り向いた彼女の顔は、朝焼けのせいか、それとも火照りのせいか、微かに赤らんで見えた。彼女は誤魔化すように、鋭い視線を俺に戻した。
「それよりも、旦那様。あの海東の娘……ふるきのことじゃ」
「ああ。凄絶な復讐だったな。俺が買い取ったとはいえ、彼女の執念には驚かされた」
「あれを単なる復讐者として、一時の駒で終わらせるのは勿体ない」
鶴は一歩、俺に歩み寄った。
「彼女は日本海を知り、商いの裏を知り、何より奪われた者の痛みを力に変える覚悟を持っている。旦那様、あの娘を側室に迎えるがよい」
思わず薬湯を噴き出しそうになった。唐沢山で矢が頬をかすめた時より心臓が跳ねた。
「……鶴、お前。さっき復讐を完遂した娘を、すぐに側室にしろというのか?」
「吾も常軌を逸しているのは分かっておるわ。常識など、その辺の野良犬にでも食わせてしまえ。……旦那様はあの娘を救わねばならん。今のままでは、早晩、あの娘は気が触れるか自ら命を落とすぞ」
「……」
「それにな。……吾も、いつまでも旦那様の前で刀を振るっているわけにはいかぬ。唐沢山が良い例じゃ。吾に代わって旦那様の背を支え、あるいはその夢を共に描く女はいて良い」
「……」
「吾は刀で旦那様を守る。だが、心までは守れぬ。それができる女が必要じゃ」
その言葉は、ただの献策ではなく、彼女なりの深い愛情と覚悟をもったものだった。
「わかった」
俺は最後の一口を飲み干した。
福良津の岸壁に、ふるきは立っていた。髪を整えたふるきは、夜明けの海をじっと見つめている。復讐という重荷を下ろした彼女の背中は、どこか頼りなく、今にも波間に消えてしまいそうだった。
「父上、母上。もう疲れました。……そちらに行っても良いでしょうか」
「良いわけないだろう」
後ろから声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、深く頭を下げた。
(……間に合ってよかった)
「景虎様……。お見苦しいところを、お見せいたしました」
「見苦しくなどない。お前は約束を果たしたんだ。胸を張って自信満々でいろ」
ふるきは目的を失った虚脱感に支配されているように見えた。俺は彼女の隣に並び、水平線を指差した。
「……あの日、言っただろう。福良津を中継点にし、日本海の海運力を手に入れ、異国に対抗する力を得たい。……覚えているか、ふるき」
「忘れるはずがございません。……景虎様が、私の復讐を買い取ってくださったあの日。その理由が、あまりに途方もない夢だったからこそ、私はあなたを信じようと思ったのです」
景虎は水平線を指差した。
「俺の夢は、まだ終わっていない。ここからが本番だ。俺はただ能登を獲るためにここに来たわけじゃない。この海を、琉球まで繋げたい。さらには南蛮、アジア、世界と直接渡り合える『開かれた海』を作りたいんだ」
ふるきがゆっくりと、景虎の方を向いた。
「……支配したい、のではなく?」
「ああ。誰にでも開かれた海にしたい。だが、それを差配するには、お前の知恵が必要なんだ」
景虎はふるきの手を、あの日よりも力強く握りしめた。
「ふるき。お前の復讐は終わった。ならば、今日からはお前のその命、俺の夢のために使い倒してくれないか。俺のそばで、俺が見たい景色を共に作ってほしい」
ふるきの瞳が僅かに光を帯びてきた。
「……私は、復讐の為に人を殺めた女子ですよ」
「俺はこれまで数え切れない程殺めてきた」
「私は私の目的の為に上杉家を、景虎様を利用してきました」
「少しは役に立っただろう」
「……あの日、私は殿のお話に裏がないかと考え込みました。ですが、今はわかります。殿の言葉に嘘はない」
彼女は深く、深く頭を下げた。
「景虎様。……私の殿。あなたと歩ませてください。」
二人の姿を、遠くから見つめる影があった。ふっと口角を上げた。
「……随分と、きな臭い口説き文句じゃな。旦那様は情緒というものがないのか。だが、あの御方らしい」
彼女はそっと、自分の身体の中に宿る確かな予感……小さな命の胎動に、そっと意識を向けた。
「……この世が豊かになれば、この子も刀を持たずに済むかもしれんな」




