60 能登上陸したら、側室と狙撃手と商人娘が修羅場を始めた
俺もまた、数週間ぶりに湯に浸かり、汚れを落として一息ついていたのだが……。
「……あの、お二方。俺は休養が必要なんだが。栞。なぜ君までここに?」
「警護、ですから。……それと、潮風で髪が傷みました。手入れをしながら、貴方様の身辺警護をいたします」
俺の左右には、今、二人の女性が陣取っていた。場所は俺に与えられた客間……ではなく、租界の主・ふるきが「報告がある」と強引に呼び出した彼女の私室である。
左側には、湯上がりの濡れた髪から滴を落とし、俺の腕に体温を預けるように密着する栞。
右側には、豪奢な明風の衣装をわざとらしく着崩し、三門家特製の傷薬を景虎の頬に塗り込むふるき。
「景虎様、あまり動かないでくださいまし。……三門に伝わるこの薬、塗り方が肝要なのですわ。こうして、指の腹で熱を伝えるように……」
ふるきの指先が、甘い香油の香りと共に俺の首筋をなぞる。
「……脈拍が上昇していますよ、景虎様。やはりどこかお悪いのでは?」
栞が反対側から、氷のような、しかしどこか熱を帯びた手で俺の手首を握りしめる。
「……二人とも、近すぎる。俺は病み上がりなんだぞ。というか、報告があるって言ったのはふるき、お前だろ」
「ええ、報告ですわ。まずは依頼された新しい軍旗の試作品。……そんなことより、貴方がいない間、私がどれほど寂し……いえ、資金繰りに苦労したかという、涙なしには語れない報告ですわ。長い間、私を放っておいた貴方も、この胸の鼓動を聞けば、その苦労も分かっていただけるはず……」
ふるきが俺の腕を自分の胸元へ引き寄せようとし、それを栞が無表情に阻止する。更にふるきが強引に腕を引き寄せようとすると、栞が長い髪をムチのようにしならせて、ふるきの手をパシッと叩く。
(……胃が……また痛くなってきた)
「……ところで? 結局、その先日認められた仰々しい旗を作る費用は、福良津の『明人租界』の経費から出すことになっているのは、どういう風の吹き回しですの?」
ふるきに依頼した、完成したばかりの軍旗の試作を見て、あからさまに眉をひそめていた。
そこには、純白の布地に墨で描かれた、「丸に三つ鱗、一翼雀に下向き五根笹」。
「いいだろ、ふるき。この旗が有名になれば、三門家の名も高まるんだ。広告料みたいなものだ。……投資だと思ってく れ、ふるき。この旗が越中で有名になれば、お前の砂糖も石鹸ももっと高く売れる」
「……全く。貴方という人は。ですが……」
ふるきは、その旗の「一翼の雀」にそっと触れた。
「……片翼の雀、ですか。意地らしい。……残りの翼は、御館様ではなく、私たちが支えて差し上げるとしましょうか」
そんな応酬を繰り返していると、扉が凄まじい勢いで開け放たれた。
「――貴様ら!! 吾の旦那様に近づくな!!」
扉が、物理的な衝撃音と共に吹き飛んだ。
そこには、十手のような殺気を放つ鶴が、般若の如き形相で立っていた。
「あ、鶴。巡回は終わったのか……?」
「終わったわ! 終わって戻ってみればこれだ! 栞、貴様『変な虫を払え』と言ったが、自分が一番の吸血虫になってどうする!」
「私は身辺警護中です」
「そこの異国かぶれ! 三郎の頬をなで回すな、皮が剥けるだろうが!」
「あら、側室殿のご帰還ですわね。騒々しい……景虎様には静寂という薬が必要なのですわよ? 些か、野蛮ですわ」
ふるきが不敵に微笑むが、鶴は聞く耳を持たなかった。
「野蛮じゃと!? 貴様こそ、その胸元の開き方は何だ! 誘惑か! 宗教勧誘か!」
「……三門の家訓には『肌の露出は徳の欠如』とありますが、これはあくまで明の姫としての演出、ですわ」
鶴はズカズカと絨毯を踏みつけ、俺の襟首をひっ掴んだ。
「だいたい、三郎! 貴様も貴様だ! フラフラと女の部屋に誘い込まれおって、佐竹に包囲されていた時の方がまだシャキっとしておったぞ! ほれ、帰るぞ。ここは毒気が強すぎる!」
「わ、わかった、引っ張るな。……ふるき、栞、また明日な」
「明日などないわ! 明日は終日、吾が叩き直してやる!」
鶴に引きずられるようにして、ようやく自分の私室――質素だが清潔な、畳の香りがする部屋へ戻された。
鶴は俺を布団の上に放り出すと、仁王立ちで腰に手を当てた。
「全く、呆れた男よ。命を削って戦った直後に、女にまで削られてどうする。旦那様が死んだら、誰が吾を……いや、越後の民を守るのだ」
「……悪かった。……でも、やっと静かになったな」
俺が苦笑しながら横になると、鶴は毒気を抜かれたように「ふん」と鼻を鳴らした。彼女は重い甲冑を脱ぎ捨て、手慣れた動作で俺の隣に布団を並べる。
「……今夜は、吾がここで見張る。変な刺客も、さっきの猫も狐も、一歩も近づかせん」
「鶴……」
「なじられるのが嫌なら、さっさと寝ろ。……それと」
鶴は少しだけ顔を赤らめ、俺の背中にそっと手を置いた。
「……よく生きて帰ったな、三郎様。その、……少しだけ、褒めてやる」
その手の温もりは、戦場の興奮も、日本海の荒波も、すべてを溶かしていくようだった。
唐沢山での地獄。命を削るような緊張感。張り詰めていた俺の精神が、ようやく「安全圏」に達したことを理解する。
「……ああ、おやすみ。鶴」
「……ああ。……お休みください、旦那様」
側室としての、そして戦友としての慈しみを込めた鶴の声に包まれ、俺は数週間ぶりに、深い眠りへと落ちていった。
隣で同じように泥のように眠る鶴の寝息が、日本海の潮騒に静かに重なっていた。




