59 能登上陸、ふるきのツンデレが戦国仕様に進化していた
日本海の荒波が、ようやく通り抜けた。
(ああ、福良津に帰ってきたな)
能登半島の西に位置する天然の良港、福良津。畠山家の影響力も衰え、名目上は一向宗の拠点と化しつつあるこの港に、三隻のボロをまとった安宅船が滑り込んだ。
「……着いたのか。地面が……地面が揺れていないぞ……」
船底から這い出してきたのは、かつて唐沢山城で「鬼」と呼ばれた佐竹軍を退けた精鋭……の成れの果てだ。
前島修理亮を筆頭に、誰もが頬をこけさせ、塩気に焼かれた肌を晒している。三百の兵たちは、港に足を下ろした瞬間にその場へへたり込み、大地を拝むようにして動かなくなった。
「柚子、動けない連中の手当を急げ。無理に歩かせるな。……小次郎は?」
「……そこに。まだ桶と仲間睦まじくしております」
柚子が指差した先では、宇佐美栞の弟・小次郎が、船の柱にしがみついたまま白目を剥いていた。狙撃の天才も、日本海のうねりには一発も弾丸を撃ち込めなかったらしい。
「休ませてやれ。……さて、俺たちを迎えてくれるはずの蔵田殿はどこだ」
俺がふらつく足で港を見渡す。鄙びた漁村であるはずの福良津の一角。
そこだけが、まるで極彩色の夢のように浮き上がっている。白い石灰の壁、反り返った瓦屋根、そして見慣れぬ紅い提灯。このあたりの漁村の中で、ここだけは戦国ではない匂いを放っていた。
ここは、俺のもう一つの手札が作り上げた、偽りの楽園明人租界だった。
「……まあ。なんとやつれたお姿でしょう」
鈴の鳴るような、だが冷ややかな声が響いた。
租界の入り口、豪奢な装飾が施された迎賓館の玄関に、その女はいた。
ふるきだ。「三門」という福良津の海東家の生き残りで、越後では「蔵田屋五郎左衛門」として商いを行っていた。今は蔵田屋の実務を定吉の爺さんに任せ、自身は「大明の豪商の娘」という真っ赤な嘘を纏って、この一向宗の拠点に深く根を張っている。
彼女は、胸元の開いた明風の直領に身を包み、扇子で口元を隠して俺を見下ろしていた。
「お久しゅうございます、景虎様。……いえ、『通辞の助手』の三郎さん。あまりの泥臭さに、一瞬、どこぞの浮浪者が紛れ込んだかと思いましたわ」
「……相変わらずの口の悪さだな。おかげで目が覚めたよ」
俺が苦笑いしながら歩み寄ると、ふるきは不機嫌そうに鼻を鳴らし、近づいてきた。彼女からは、清潔な石鹸の香りと、高価な香油の匂いが漂ってくる。
「二十日間も籠城したと聞きました。挙句に船酔いでボロボロ……。三門の再興を貴方に託した以前の私、今この瞬間だけは自分の目を疑いたくなりますわ。……さあ、汚い兵たちを奥へ。この迎賓館なら、一向宗の坊主どもに気づかれずに何時までも眠れますわよ」
「助かる。……ふるき、よくこの場を守り通してくれた。苦労をかけたな」
俺が声をかけると、ふるきは一瞬だけ、扇子の奥で目を泳がせた。
「……苦労? 私が? 冗談を。あのような生臭坊主共、私のセメント壁で圧死させるまでの暇つぶしにもなりませんでしたわ。……でも」
彼女は、俺のボロボロになった陣羽織の裾を、細い指先でぎゅっと掴んだ。
「戻ってくるのが、少し遅うございました」
扇子の奥で揺れた瞳は、怒りでも呆れでもなく──ただの安堵だった。
「ふるき」
「……戻ってくるのが、少し遅うございました。その分、私の部屋の調度品を、最新の明の磁器に変えさせていただきましたの。経費で請求いたしますわ」
言葉は刺々しい。だが、指先は俺の陣羽織の裾を、離すまいとするように掴んでいた。その小さな力に、ふるきもまた、俺の帰りを待っていたのだとようやく気づいた。
「……善処するよ」
福良津の港を見下ろす高台、明人租界の迎賓館。
館内では、鶴が柚子を引き連れ、ようやく一心地ついた三百の将兵たちの間を回っていた。
「柚子、傷の深い者から順に薬を。動ける者は交代で哨戒に立て。……いいか、ここは一向宗のど真ん中だ。夢の中でも刀は離すな」
鶴の凛とした声が響く。
「「「……イエス、マム」」」
弱々しい返事があちらこちらから返ってくる。
彼女は陣羽織の裾を翻し、疲弊した兵たちに檄を飛ばしながら指示を出していく。ふと、彼女は傍らに控える宇佐美衆の栞を呼び止めた。
「……栞。吾は少し外周の守りを見てくる。旦那様はまだ足元がおぼつかぬ。貴様に身辺警護を委ねる。変な虫――特に、あの異国の皮を被った女狐が近づかぬよう、目を光らせておけ。よいな?」
「イエス、マム」
栞が答える。
「旦那様は、隙を見せるとすぐに攫われる。……戦場より危険じゃ」
「イエス、マム。身辺警護、任されました」
栞はいつものように無表情に頷き、景虎の私室へと向かった。……だが、その口元は微かに上がっていた。その微笑みは、鶴の警戒を“楽しんでいる”ようにも見えた。
鶴の危惧は半分当たり、半分は裏目に出ることになる。




