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鶴姫と景虎の国盗り経営録 ──戦国の怪物たちを円卓に集めたら資本で世界を取りに行った件  作者: みなと
第5章 北陸編

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58 能登の死地より先に、船上の修羅場が訪れる

 直江津の港に着く頃には、ようやく人心地がついた。

「景虎様、お待ちなさい!」

直江津の港。安宅船の巨大な影が岸壁を覆う中、後ろから響いたのは、どこか切羽詰まった声だった。振り返れば、旅装束に身を包んだ伊保野が、供の者を振り切るような勢いでこちらへ歩み寄ってくる。

「伊保野……」

「ろくに体も休めず、荷車に詰め込まれて越中へ向かうなど……。そんな無茶を黙って見過ごせるほど、私はできた妻ではございません!」


 彼女は俺の前で足を止めると、ふう、と肩で息をついた。

「景虎様、体調は如何ですか?」

「まだ本調子ではないな。馬車で揺られてここまで来たが、この先、船でも揺られるとなるとな、ん?」

伊保野は一歩、踏み込んだ。

周囲の兵たちが「おっと」と気を利かせて距離を置く中、彼女は俺の手を取り、それを自分のまだ平坦に近いお腹へと導いた。

「この子は、父親の武勇伝ではなく、父親の温もりを求めています。……旗に書いたような『根』になると仰るのなら、しっかりと大地を掴んで離さないでください。泥沼に引きずり込まれるのではなく、そこを貴方の領土にするのです」

掌から伝わる、かすかな体温。

「わかってる。死なない、負けない、無茶もしない。……なるべく」

「『なるべく』は余計です!」

 伊保野は俺の手をぎゅっと握りしめ、それから悪戯っぽく、けれど少しだけ寂しげに微笑んだ。

「能登には、蔵田屋。いえ、ふるき、という娘もいるのでしょう? ……忘れないでくださいませ。貴方の帰る場所は、この子の隣であることを」

「……耳が痛いな」

「ふふ。鶴姫、あとは頼みましたよ」

伊保野が船上の鶴に目配せすると、鶴は呆れたように肩をすくめた。

「承知したのじゃ、正室殿。放り出すとすぐに無茶をする旦那様の手綱は、しっかりと握っておく」

 

 ドラが鳴り、船がゆっくりと岸壁を離れる。

 遠ざかる伊保野の姿を見つめながら、俺は冷たい日本海の風を吸い込んだ。

「……能登か」

 能登の福良津には、俺が人工石で固めた港・福良津がある。そこには俺を信じて待っている、ふるきや現地の民がいるはずだ。

(だが……一向宗の包囲網をどう崩すか。こちらは寡兵。普通にやったら一日も持たない)

 海原の先には、雪を戴く立山連峰と、一向宗の念仏が渦巻く混沌の越中が見えてくる。

「……ああ、胃が痛くなってきたな。これが『有給休暇』なしのブラック戦国ライフかよ」

(前世でもよく痛くなってたが……まさか戦国でも再発するとはな)

俺は腰の刀の感触を確かめ、水平線の彼方を見据えた。

 

 船が直江津を出航して数時間。

 潮風が、戦場特有の血と火薬の匂いを洗い流してくれる。

 俺は船べりに背を預け、頼りない足取りで甲板に立っていた。まだ頭がふわふわする。空腹と疲労、それに船の揺れが混ざり合って、平衡感覚が無くなってきた。

「……景虎様、顔色が優れませんね。船酔いですか? それとも、また無理難題を押し付けられたことですか?」

 隣に、ふわりと宇佐美栞が並んだ。彼女は、戦場でも崩さなかった鉄の理性を、今は海風に少しだけ緩めている。潮風になびく黒髪が、俺の頬をかすめた。

「両方だよ。……三百の兵で、一向一揆の背後を突け、だぞ。しかも、内紛で誰が味方かもわからん能登・越中の国人衆をまとめろって?」

「越後の龍の愛弟子、ですから」

「なんだそれ」

「お聞きになってませんか? 唐沢山で佐竹を追い返し、御実城様が景虎様の戦術をお褒めになったことで、周りはそう呼び始めてますよ」

「勘弁してくれ。愛弟子の愛が重いわ」

「ふふっ。少なくとも、正面からぶつかって玉砕するような猪武者よりは、よほど使い勝手が良いと思われているのでしょう」

 栞が少しだけ目を細めて、俺を覗き込んできた。

「景虎様……。唐沢山では、よくぞご無事で」

「……ああ。栞たちがいてくれたおかげだよ」

「私たちは景虎様に生かされました。その貴方様が最後まで諦めなかったからです。その……死ぬとは思いましたが」 

 彼女の細い指先が、俺の頬に触れた。ひんやりとしていて、心地よい。

「少し、痩せましたね」 

 栞はそのまま、俺の胸元にそっと手を置き、顔を近づけてくる。潮の香りに混じって、彼女特有の、少しだけ甘い香油の匂いが鼻をくすぐった。

「戦場では休む間もありませんでしたが……今は、少しだけ、休まれても良いのですよ?」

 吐息が触れる距離。俺の心臓が、佐竹の軍勢を前にした時とは別の意味で跳ねた、その時だった。


「こーーーらーーーーーッ! 何をしておるか、貴様ら!!」

 船の楼閣から、爆発音のような怒声が降ってきた。

 飛び退く俺と、すんと何食わぬ顔で指を引く栞。

 そこには、額に青筋を浮かべた鶴が、今にも刀を抜きそうな勢いで仁王立ちしていた。

「旦那様! 貴様、瀕死で動けぬと抜かしておきながら、女といちゃつく元気だけはあるようじゃな!? この不謹慎者が! 破廉恥者が! 恥知らず!」

「待て待て、鶴! 今のは栞が俺の体調を……」

「体調を見るのに、あんなに顔を近づける必要があるか! 正室殿に言われてすぐにこれか。吾の目は節穴ではないぞ! そもそも、大将が甲板で桃色吐息などと……万死に値する!」

 隣の栞は、どこ吹く風で遠くの水平線を眺めている。

「チッ、褒美を受け取り損ねました」

「なんだと?」

「教官殿。景虎様があまりにお疲れだったので、元気になるまじないをかけて差し上げようとしただけですよ」

「いらん! それは吾の役割じゃ! 大体、貴様らを配下にしたときから嫌な予感はしたのじゃ。旦那様、貴様は吾の管理下に入れ! ほれ、さっさと歩け!」


 鶴に首根っこを掴まれ、俺は船底の居住区へと引きずられていった。

 そこは、負傷した兵たちのうめき声と、柚子が煮出す薬草の匂いが充満する、まさに「移動病院」だった。

「あ、景虎様……」

 柚子が疲れた顔で会釈してくる。彼女もこの数日、不眠不休で兵たちの手当てを続けている。

「皆、どうだ?」

「体力ある若い子はな、お粥食べてちょっとずつ顔色戻ってきたわ。けど……あっちゃの方は、ちょっとしんどいかもしれへんね」

 柚子が指差した先。

 そこには、普段のクールさはどこへやら、顔を真っ青(というか緑色)にして、桶を抱えてうずくまっている男がいた。

「……う、うぷっ……。おのれ、日本海……。この揺れ、卑怯な……おえぇぇ……」

「小次郎!?」

 無敵の狙撃手・小次郎が、船酔いで完全ノックアウトされていた。

 揺れに合わせて、彼の魂までが口から出ていきそうな勢いだ。銃を磨く元気など微塵もない。

「……栞。あいつ、使い物になるのか?」

「……ええ。上陸して、地面が動かなくなれば、きっと。今はただの『喋る死体』ですね」

 ボロボロの三百人。嫉妬に燃える護衛役(鶴)。隙あらば距離を詰めてくる狙撃手(栞)。

 俺は、激しく揺れる船底で天を仰いだ。

「御実城様……。これ、一向一揆と戦うのちょっと無理じゃないか……」

 船は、情け容赦なく北陸の荒波を越えていく。

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