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鶴姫と景虎の国盗り経営録 ──戦国の怪物たちを円卓に集めたら資本で世界を取りに行った件  作者: みなと
第4章 関東編 ~二千の潜入、唐沢山の死闘~

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56 唐沢山の英雄、正室と軍神に正座させられる

 佐竹軍が撤退し、謙信(輝虎)の本軍が唐沢山城に入城した日の午後。

 俺、三郎景虎は、ようやくありついた温かい粥を喉に流し込んでいた。五臓六腑にしみわたる……。

「――景虎様」

 背後から、凍りつくような低い声。振り返ると、そこには腕を組んで仁王立ちする鶴がいた。

「え、あ、鶴……。お疲れ。おかげで助かったよ、氏政殿への文、完璧なタイ……」

「馬鹿」

「……え?」

 鶴の声は怒号ではなかった。震えていた。

「あの文を読んだとき、吾がどれほど血の気が引いたか……。『俺のことは気にするな』? ふざけるな。旦那様が死ねば、吾らはどうすればよかったのじゃ……この大馬鹿者」

 鶴は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めていた。

「……死ぬな。吾は、旦那様が死ぬところなど見とうない」

 「……」

 その一言は、怒りよりも、安堵よりも、ずっと重かった。

 そして、二時間に及ぶ「戦略的な無謀さへの説教」が始まった。隣で柚子が「いやあ、鶴姉さん、マジでえげつないほど怒ってはりましたからね。うち、おにぎり食べながら『堪忍してやぁ』って、横で手ぇ合わせてましたわ!」と、他人事のように笑っている。

 

 ようやく鶴から解放された俺を待っていたのは、御館様――上杉輝虎だった。

 御館様は俺の肩を強く叩き、破顔して笑った。

「見事であったぞ、三郎! わずか二千で五千を足止めし、さらには佐竹の退路を断つ策を献ずるとは。まさに我が愛弟子、越後の龍の名を汚さぬ知略よ!」

 これ以上ない称賛。鼻が高い。やはり、分かってくれるのは御館様だ。

 ……そう思ったのも束の間。

 御館様の背後から、静かに歩み寄る女性がいた。俺の正室、伊保野である。

「……景虎様」

「あ、伊保野。わざわざ越後から同行してくれたのか」

「ええ。御屋形様が『面白い見世物があるから唐沢山へ来るか』と仰るので参りましたが。……義重公との一騎打ちのことでしたか? それとも、我が夫が空腹で目を回し、敵前で無様に転げ落ちる様のことでしたか?」

「いや、伊保野……。それはその、景虎の胆力を試そうと……」

「黙りなさいませ」

 輝虎が珍しく気圧されたように視線を泳がせると、すかさず伊保野の冷徹な一喝が飛ぶ。毘沙門天の化身も、今はただの「甥を危険な遊びに連れ出した困った親戚」に過ぎない。

「いや、それは……結果的に勝ったし……」

「結果ではございません」

 シーン

「景虎様もです。 北条と上杉、その危うい均衡の上に貴方様が立っているという自覚が足りません。貴方様がこの唐沢山で命を落としていれば、御実家の北条は『上杉が我が子を殺した』と憤り、関東は再び地獄の炎に包まれたことでしょう」

「……返す言葉もない」

景虎はうなだれた。

「……御屋形様。貴方様は景虎様の叔父代わりであり、何よりこの乱世を導く『義』の化身ではございませんか」

伊保野は、膨らみ始めたお腹をいたわるように片手を添えつつ、もう片方の手で広げた扇子をピシャリと畳んだ。その鋭い音が、静まり返った境内に響く。

そこには、戦国最強の軍神と謳われる上杉輝虎(謙信)と、その養子であり北条の血を引く上杉景虎の二人が、まるで行儀の悪い子供のように並んで正座していた。

「それに……」

伊保野の声が、わずかに震えた。彼女は自分の腹部に視線を落とす。

「この子に、父の顔を知らぬまま育てと仰るのですか? 生まれてくる前から、亡き父の武勇伝など聞かされても、子供は喜びませぬ。欲しいのは語り草になる英雄ではなく、温かい手を差し伸べてくれる父上なのです」

その言葉には、武家の女としての覚悟と、一人の母としての切実な願いが籠もっていた。

景虎は、地面に拳をついた。

「すまない、伊保野。俺がどうかしていた。……貴女と、この子を不安にさせるような真似は、二度としない」

「本当でございますね?」

「ああ、約束する」

伊保野はふう、と深くため息をつき、ようやく表情を和らげた。しかし、その矛先はまだ隣の男に残っていた。

「……御屋形様。景虎様がこう仰っています。今後、無茶な戦に誘い出すようなことがあれば、越後の春日山城の酒蔵、私が全ての瓶を割ります。よろしいですね?」

「……それは、殺生な」

天下の軍神が、この日一番の悲痛な声を上げた。

関東の諸将が恐れおののく二人の猛将は、こうして越後から来た若き正室の前に、完膚なきまでに敗北を認めたのである。

 

 夕刻。休んでる俺の下に輝虎は酒瓶と杯を持ってやってきた。

「そのまま寝てろ。耳だけ貸せ」

「はい。御屋形様、どうしました」 

「景虎……。実を言えば、お前をあのタイミングで唐沢山に入れたのは、半分は俺の失策だ」

「……へぇ。軍神様が、ミスを認めるんですか」

 珍しく、苦笑いしながら自分の杯を見つめた。

「俺の読みでは、お前が信濃路という『あり得ぬルート』から二千の兵を連れて現れれば、佐竹は即座に包囲を解いて退くはずだった。だが……義重という男は、俺が思う以上に『鬼』だった。奴は退くどころか、俺が着く前に力ずくでお前を飲み込もうと、全軍を突っ込ませたんだ」

 輝虎は杯を飲み干す。そして、次の酒を注ぎながら続ける。

「顕景が整えた道は確かに速いが、大軍を動かせば敵に筒抜けだ。俺が最短ルートで動こうとすれば、武田が即座に反応し、北信濃で俺の足を止める。……結果として、俺は整備された道を進みながら、義重の猛攻を、指をくわえて見ているしかなかったのだ」

「ギリギリでしたね」 

「俺が着くまでに、お前が死ねばすべては終わりだった。……あそこで北条を動かし、壬生や祇園を叩かせ、義重の後ろを刈り取ったのは、俺の指示ではない。お前自身が、俺の失策を埋めるために捻り出した解だ」

「……つまり、俺なら勝手に生き残るだろうと高を括って、ガチで殺されかけたってことですね?」

「ああ。……だから、伊保野に叱られた俺を見て、少しは溜飲を下げろ。俺もお前に、これほどの事を演じさせるとまでは思っておらなんだ」

「……最っ低だ。あんた、本当は冷や汗かいてたんじゃないですか?」

「……さあな。景虎、俺の弟子よ。酒が不味くなる問いはやめよ」

※お読みいただきありがとうございます。

唐沢山での一件は、景虎にとっても周囲にとっても大きな節目となりました。

次回からは、また新たな局面へ物語が進んでいきます。

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