52 唐沢山落城寸前──二千で突撃する
夕闇が上野の山々を濃紫に染め上げる頃、利根川と片品川が削り出した峻険な断崖の上に、その城は忽然と姿を現した。
「……見えた。沼田城だ」
俺たちは馬を止め、息を吐く。
背後には、真田の隠し道を駆け抜けてきた二千の精鋭。薄汚れてはいるが、その眼光は鋭さを秘めている。
門前に辿り着いた俺は、懐から上杉の「竹に雀」の紋が入った書状を取り出す。
「三郎景虎である。河田殿へ取次ぎを!」
重厚な城門が、地響きを立てて開いた。
沼田城の広間。
そこには、文武両道の将として知られる河田長親が、端然とした佇まいで待っていた。
「景虎様、よくぞご無事で。真田の隠し道、さぞ険しかったことでしょう」
「河田殿、急な来訪を許してほしい。……見ての通り、兵たちは疲れきっている。だが、御実城様(輝虎)が越山される前に、一刻も早く唐沢山の援護に向かいたい」
「ええ、ですが、まずはゆるりと休まれ、英気を養われよ」
沼田城で武具整え、食事をしていると、砂埃を巻き上げ、伝令がやってきた。
「報告します! 佐竹義重、宇都宮広綱の連合軍、総勢五千! すでに下野を越え、佐野の唐沢山城を包囲せんと進軍中!」
沼田城の評定の間に、伝令の叫びが響く。明日から行軍計画を考えていた俺たちは、立ち上がった。
「やはり来たか。坂東太郎(佐竹義重)、動きが速いな」
河田長親が深刻な顔で続く。
「景虎様、あまり猶予はありませんな」
「分かっている。……鶴、七介、蓮次、修理亮(前島)で、栞(宇佐美)。明日の朝までに準備は出来るか」
「間に合わせましょう」
鶴がにこやかに笑う。
「景虎様、二千では心細い。沼田からも加勢を……」と言う長親を、俺は制した。
「いや、河田殿は沼田を動かないでください。ここは御実城様を関東にお迎えする絶対の牙城だ。二千あれば十分……正面からぶつかる必要はない。佐竹の背後を突き、補給を断ち、『北条と上杉が完全に連携している』と見せつければ、慎重な彼らは退くでしょう」
翌朝、俺たちは広間に出る。
「よし、出陣だ! 目標は、佐野・唐沢山城。……佐竹と宇都宮に、誰が唐沢山の主かを教えてやるぞ!」
沼田城の広場には、見違えるような姿になった二千の兵がいた。上杉の深い紺色の陣羽織を纏い、手には手入れの行き届いた槍と火縄銃。
「……やっぱり、こっちの方が落ち着くなぁ」
七介が胸当ての紐を締めながら呟く。
「小次郎、準備はいいか」
「っは、はい!」
「――出陣だ。唐沢山まで二十里。一気に駆け抜けるぞ!」
七介が、飛沫を浴びながら笑う。
「真田の隠し道に比べれば、ここは公道だ。……駆け抜けろ!」
街道沿いの村々では、早起きの農夫が地響きに顔を上げた瞬間には、既に砂塵の彼方に軍勢が消え去っている。二千の精鋭が大地を叩いていく。
「……疲れた。ずっと走ってるじゃないですか」
「無駄口を叩くな」
「いてっ」
小次郎が悲鳴を上げたのは、背後から蓮次の槍の石突が尻を突いたからだ。
「……喋る余裕があるなら、足を動かせ。大胡まであと半刻だ」
先頭を行く前島修理亮は周囲の殺気を探っていた。
「景虎殿、やっぱりネズミが張り付いています。佐竹の乱波でしょうか。……私たちが補給拠点に辿り着くのを邪魔する気でしょう」
「……鶴、任せる」
景虎の短い言葉に、鶴が艶然と笑った。
「任せるのじゃ。……吾の部下たちで後れをとる者などおらぬ。まして、相手の場所がわかっているのであれば」
鶴が目くばせをすると、鶴の配下の忍び達が散っていく。柚子は騎乗しつつ、火縄銃を撃つ。霧の中から数人の影が音もなく崩れ落ちていく。それは戦というより、掃除のようだった。
行軍四日目の夕刻。
ついに景虎たちは、佐野の地に辿り着いた。
眼下の唐沢山城は、無数の松明に包囲され、絶え間なく火縄銃の音が響いている。城を取り巻く谷間には、湿った夜風に乗って血と火薬の匂いが漂い、黒煙がゆっくりと空へ昇っていく。
「……やっと着いたぁ……。もう、足が棒です……」
小次郎が地面に這いつくばる。
「小次郎、立て。甘えるな。お前の仕事は、佐竹の指揮官たちを、この火縄銃でブチ抜くことです」
栞は、火薬を小次郎に手渡した。
俺、三郎景虎は、汗にまみれた愛馬の首を叩き、荒い息を整えた。
(間に合った……いや、まだ間に合うかは俺たち次第か)
背後には二千の精鋭。沼田から八十里を駆け抜けた疲労は隠せないが、眼前の城を包囲せんとする宇都宮広綱の先陣、約一千を認めると、兵たちの目に鋭い殺気が戻った。
「景虎様、敵の囲いはまだ緩い。今なら横から突き崩し、そのまま由良殿の金山城へ引くことも可能ですな」
前島修理亮が冷静に戦況を分析する。当初の予定では、ここは遊撃として敵を撹乱し、北条・上杉の連合軍が到着するまでの時を稼ぐはずだった。
だが、本丸に翻る佐野昌綱の「唐団扇」の旗が、弱々しく揺れているのが見えた。
「……いや、あの旗の揺れ方、城内の士気は限界だろう。俺たちが入らなければ、今夜にも開城しかねないな」
俺の返事に、七介が肩をすくめた。
「殿、それは救援じゃなくて心中になりゃしませんかね」
「……七介、蓮次、前島。宇都宮を後ろから突いて、そのまま城に入るぞ。……佐竹義重は賢い男だ。北条・上杉の連合軍が背後に現れたと知れば軍を引くだろう」
暫く後。唐沢山に攻撃を仕掛ける宇都宮勢の後ろに俺たちはいた。最前列には、夕陽を跳ね返す鋭い穂先を揃えた槍隊が横一列で展開している。その後方には、火縄を揃えた鉄砲隊と、弦を引き絞った弓隊が等間隔で布陣している。
「殿。宇佐美衆の出番、ここで一番派手に行くので良いんですね」
栞が、宇佐美衆の点呼を取りながら笑みを浮かべて訪ねてくる。既に何時でも発砲出来るようだ。
「ああ。……この夜空を、荒浜でお前たちが作った火薬で、真っ赤に染めてやれ」
俺たちは抜刀する。
「――全軍、突入! 宇都宮に、上杉の恐怖を教えてやれ!」
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