5 祝言の夜に姫のの仮面が剥がれたんだが!?
幻庵との面会を終えた俺の前に、一人の少女が姿を現した。
静かに襖が開き、入室してきたのは清楚で可憐な、非の打ち所がない理想的な姫君だ。
「……お初にお目にかかります、三郎様。幻庵が娘、鶴でございます」
深々と下げられた頭が、ゆっくりと持ち上がる。その顔を見た瞬間、俺は思わず叫び声をあげていた。
「なっ……!?」
「どうした、三郎?」
不審がる幻庵を「私如きに過分な美しさに驚きまして」となんとか誤魔化した。
だが、心の中では冷や汗が止まらない。
(幻庵のじじいめ、とんでもない毒薬を用意しやがった……!)
忘れるはずがない。その瞳、その顔立ち。
この少女は、あの洞窟で俺を助けた『箱根権現の比丘尼』その人だった。
偶然なわけがない。彼女は甲斐からここまで、監視兼護衛として俺に張り付いていたのだ。
「三郎様のお邪魔にならぬよう、影ながらお支えいたしますわ」
差し出された彼女の手を握る。羽毛のような軽やかさだが、その指先からは「逃がさない」という鉄の意志が伝わってくるようだった。
祝言の夜。離れの部屋で、俺は幻庵から預かった小机領の帳面を読み込んでいた。
新婚の甘い雰囲気など微塵もないが、鶴姫は甲斐甲斐しく茶を淹れてくれる。
「三郎様。銭のことばかりではお体に毒ですわ。さあ、薬草茶です」
差し出された茶を一口飲み、俺は動きを止めた。
香りに違和感。ただの薬草茶じゃない。視線を上げると、鶴姫は小首を傾げ、花の咲くような微笑を浮かべていた。
「……鶴。この配合、どこで学んだ?」
「三郎様から見せて頂いた備忘録を見て」
彼女は比丘尼であったことを隠そうともしない。
「元の配合より、鎮静効果が高い別の草が混ざっている。俺を眠らせるつもりか?」
「お疲れだと思いまして。工夫いたしましたの。……お口に合いませんでしたか?」
致死量ではないが、意思を奪う一歩手前の絶妙な配合だ。よくもまあ祝言の夜に。俺は苦笑し、手元の筆を置いた。
「鶴。ここはお前と俺だけだ。いい加減、猫を被るのはよしてくれよ。お前は俺が無能なら、即座に事故死として処理しろと親父さんに言われてるんだろう?」
ほんの一瞬だけ、鶴姫の睫毛が震えた。迷いか、ためらいか、それとも別の感情か。だが次の瞬間には、以前の冷たい光が戻っていた。次の瞬間、可憐な姫の表情が霧散した。そこに現れたのは、あの洞窟で見せた、達観した比丘尼の眼差しだった。
「……倍の増産。三郎様、それでは生温いわ」
彼女の口調が変わった。これが姫という擬態を脱ぎ捨てた、彼女の本音なのだろう。
彼女は俺の広げていた地図に指を走らせた。
「寺社を潰すなら武力は下策。彼らが抱える貸付金の台帳を盗み、民の前で燃やしてやればいい。そうすれば、民が自ら寺を焼き、貴方様を救世主として崇めるであろうよ」
俺は思わず吹き出した。
「乗っ取りと人心掌握を同時にやるのか。お前、凄いな」
「乗っ取り? それが何かは分からんが、いざこざは一瞬で終わるよう設計せねばな」
彼女の瞳の奥に、暗い怒りが宿る。
「吾は女子というだけで表に出られぬ不自由を呪っておる。能力があり、成果を出せる者が評価される世ではない。……三郎様。貴方は、このような吾を気味が悪いと思うか?」
問いが落ちた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
――怖いのか。
この女が、俺の言葉ひとつで“自分の存在価値”を測ろうとしている。
俺は筆を置き、静かに言った。
「とんでもない。魅力的だ」
俺がそう言った瞬間、鶴姫の肩が、かすかに息を吸うように揺れた。
俺は真っ直ぐに彼女を見つめた。前世でもこんなに話が通じる相手に出会ったことはなかった。
「北条の氏康公は偉大ですが、長くはないじゃろう。その後継者たちが貴方のような劇薬を受け入れるとは思えぬ。吾も同様じゃ。……ならば、今のうちに小机を誰にも手出しできない城にしなければ、父上の功績も溶けてなくなる」
「ああ、その通りだ。だからこそ金がいる、軍がいる。古い連中の首を飛ばす為の実行力が必要なんだ」
俺は彼女の冷たい手を取り、強く握りしめた。
「まずは小机の油座の利権を奪い取ろう」
「期待しておりますわ。吾を飽きさせないほど、この世を面白くしてくださいませ」
祝言の夜、二人が交わしたのは愛ではなく、国を乗っ取る約束だった。
鶴姫と共に小机へ移った俺は、さっそく灯明の下で作業に没頭していた。
やることは山積みだ。まずはこの時代遅れな帳簿を、現代の会計基準に作り直して全容を解明しなきゃならない。
「三郎様。そんな不完全な情報、いつまで眺めておいでで?」
「うおっ!?」
背後から不意に耳元で囁かれ、心臓が跳ねた。いつの間に!?
(……いかん、取り繕わなきゃ)
「……不完全だと? これは現時点でこの国最高の収益管理術だぞ」
「やり方は面白いわ。二つの側面(借方・貸方)に分けて、必ず一致させる……『複式簿記』、でしたっけ?」
(……なんで見ただけで構造を理解してやがる、この姫様)
戦慄する俺の内心を見透かすように、鶴姫は艶然と微笑んだ。
「でも三郎様、あなたは現場が見えていない。この帳簿にある商人の一部は、父上の飼っている乱破の身内よ。あなたが教科書通りに税を絞れば、父上の情報網が干上がる。そうなれば、明日の朝にはあなたの喉元に刃物が刺さっているかも?」
彼女は俺の隣にすとんと座ると、扇子で数値をピシッと指した。
「隠し田に寺社への寄進……。これを摘発するのがあなたの言う新規事業なら、リターンが少なすぎてお話にならないじゃろう」
「……参ったな。じゃあ、君ならどうする?」
「あら、私に聞いてくださるの? 嬉しい」
鈴を転がすような声。だが、その瞳の奥はちっとも笑っていない。
「吾なら、寺の門前で博打を公認にするわ。で、寺から浄財の名目でテラ銭の七割を吐き出させる。神仏をダシにすれば、愚民どもは喜んで財布を開くじゃろう?」
「……」
絶句した。
現代知識が逆に足枷になっていた。宗教法人への忖度とか、信心深さへの配慮とか……そんな甘っちょろい倫理観、この姫様には一ミリもない。
「……お前、幻庵のじじいに何を教わったんだ?」
「父上は何も? ただ、見ていただけ。北条がどうやって泥水を啜り、他人の義理を喰らって巨大化したかを。……三郎様、あなたの論理や科学は素晴らしい。じゃが」
鶴姫が顔を寄せ、蠱惑的な香りが鼻をくすぐる。
「その術を走らせるための泥沼の歩き方なら、吾の方が知っているのでは?」
「……わかった。俺が道を描く。君は、その穴埋めてくれ」
「ふふ、夫婦の共同作業ですわね、旦那様」
……不覚にも、ときめいてしまった。
前世でも「ドブさらい=不採算部門の整理」ばかり押し付けられてきた俺に、一緒にやろう、と言ってくれた奴なんて一人もいなかったのに。
「鶴。まずはこの辺りの利権を束ねている極楽寺を狙う。七割じゃない、十割だ、全部奪うぞ」




