45 荒浜の硝石工場が、鶴の手で地獄のブートキャンプに変わっていました
俺は、荒浜と春日山を行き来する生活になっていた。前島は、琵琶島城から手配した人足や物資を次々と送り込み、河津が取りまとめて作業を分担していく。宇佐美の遺児たち、姉の栞と弟の小次郎たちは、俺が預けた「肥料(硝石)管理帳」を手にしながら、現場の記録を取り始めていた。
暫く春日山で執務をして荒浜の様子を見に帰ったとき。
「景虎様。前回採取した採取土の煮詰めがもうすぐ出来上がります」
栞が泥だらけの顔で報告に来る。彼女の瞳には、かつての絶望ではなく、未来を作る者の光が宿っていた。
(……この地が動き出せば、越後の軍事力は桁違いになる。武田も織田も、まだ気づいていない)
「よし。次は魚粕と木炭の比率を変えてみよう。臭いはキツいが、これが黄金に変わると思えば我慢できるだろう?」
「はい! 領民たちも、景虎様から出る給金のおかげで、今では誰も祟りの話などしておりません」
そんな様子を、鶴が影から見守りつつ、俺に耳打ちする。
「旦那様、荒浜と琵琶島を結ぶ街道の周辺に、不審な素破の影が。おそらくは武田か、あるいは……」
「……徳川か織田かもな。まあ、これだけ派手に動けば嗅ぎつけられるのは仕方がないだろう。前島に釘を刺しておけ。客人が来たら、愛想よく、臭い肥料作りを見せてやれとな」
俺は、菜種が芽吹き始めた大地を力強く踏みしめた。表向きは菜の花の黄金、裏は硝石の黒。越後の不毛地帯が一大生産拠点になろうとしていた。
「鶴。順調そうだな。俺はまた春日山に行ってくる。数日で戻ると思うが、また暫く頼めるか」
「無論じゃ。栞と小次郎の教育も任せるがよい」
その任せるが良い、という返答にやけに力強さを感じた。
「……あー、栞、小次郎。何か不自由はないか?」
「どうなのだ、お前たち」
鶴の問いに宇佐美の遺児たちは直立不動で答えた。
「「「はい! 教官殿!! 不自由などありません」」」
俺が荒浜を出ていた頃。
「起きろ! このウジ虫共が」
荒浜の海岸線。夜明け前の静寂を怒声が切り裂いた。そこに立っていたのは、いつもの穏やかな笑みを消し、黒い装束に身を包んだ鶴だった。威圧感でいっぱいだ。
「つ、鶴様……? 何だか雰囲気が……」
小次郎が困惑気味に声を上げるが、鶴の視線が彼を射抜いた瞬間、言葉が出なくなった。
「貴様、今なんと言った? 鶴様、だと?」
鶴が音もなく距離を詰め、小次郎の鼻先に顔を寄せる。その瞳は笑っていない。
「吾は貴様らの教官じゃ。それ以外の呼び方は認めん。返事は「はい、教官殿」か「イエス、マム」か「御意」じゃ。温いことを言ってると踏み潰すぞ、この肥溜めの豚め!」
「ひっ……は、はいっ!」
「声が小さい! 肺を吐き出すまで叫べ!」
栞が慌てて割って入ろうとする。
「待ってください、私たちは景虎様に協力すると決めただけで、別に兵になるようなことは……」
「田舎の姫様は耳まで腐っているのか?」
鶴は栞の言葉を遮り、彼女の喉元に瞬時にクナイを突きつけた。
「いいか、今の貴様らは「裏切り者」という名の、ただの生ゴミじゃ。景虎様が温情でそなた拾わなければ、今頃は海の藻屑か野垂れ死にじゃ。その恩を返す唯一の方法は、死ぬ気で働き、景虎様の盾となることじゃ」
鶴はクナイを収めると、横一列に並んだ遺児たちの前をゆっくりと往復し始めた。
「貴様らの任務は二つじゃ。一つは、この地で硝石の生産方法を領民に叩き込むこと。もう一つは、ネズミ一匹逃がさない防諜じゃ」
「で、ですが、硝石の作り方なんて、そんなの聞いたことも――」
「教官殿! だろうが!」
鶴の足が閃き、小次郎の脇腹を軽く小突いた。それだけで小次郎は砂浜を数メートル転がる。
「知らなければ学べ。できなければ死ね。景虎様はここを更生施設と言った。いい言葉じゃろう? 景虎様は貴様らのようなゴミを社会に復帰させてくれようとなさる。だからな、今日から貴様らに与えるのは、最低限の睡眠と栄養、吾が作る薬湯、そして、吾の風間での経験と景虎様の考えを元に考案した教材に訓練計画じゃ。生き残れば最精鋭として貢献させてやる。生き残ればな」
鶴は不意に慈愛の微笑みを浮かべた。
「安心しろ。吾は平等じゃ。貴様ら全員を、等しく泥の底まで引きずり落として、魂から矯正してやる。……では始める、まずは浜辺を十往復じゃ。遅れた奴の朝飯は砂にする。走れ!!」
「「「は、はいっ! 教官殿!!」」」
遺児たちが泣きそうな顔で駆け出すのを、鶴は冷ややかに見送る。
(旦那様。死なない程度に魂を削ってやるところから始める。……宇佐美の遺児たちは、いずれ旦那様の要になるじゃろう。甘やかせば死ぬだけじゃ)
荒浜の一角。強烈なアンモニア臭が漂う幾つもの穴の前に、鼻を曲げそうになりながら直立不動で並ぶ栞と小次郎、そして元・宇佐美の残党たち。
「豚共。貴様らが見ているのは、何じゃ?」
「はい、教官殿。魚の死骸の山であります!」
朝食後、一同は肥料生成場の前にいた。既に異様な異臭を放つ場に吐きそうになっている者もいる。
「豚でもわかるように教えてやる。これはゴミの山ではない。景虎様が設計された、錬金術の実験場だ。ここで肥料も硝石も作られる」
「教官殿! 質問です!」
「何じゃ? 勉強熱心な生徒は大好きじゃ」
「教官殿。 なぜ魚のカスや糞尿を混ぜる必要があるのですか? 臭すぎて鼻がもげそうです!」
小次郎が勇気を振り絞って叫ぶ。鶴は音もなく小次郎の眼前に移動し、その鼻先をグイと掴み上げた。
「いい質問だ、このクソバエ(小次郎)! だが、貴様の鼻などどうでもよい。必要なのは知識と労働だけじゃ」
鶴は穴の中の土を素手で掴み取り、彼らの目の前に突き出した。
「硝石とは何だ? 答えろ、栞!」
「えっ、あ、えっと……南蛮の白い砂……?」
「違う! 窒素だ! 有機窒素化合物の酸化還元反応だ!」
「ちっそ……? さんか……?」
栞たちがチンプンカンプンになるのを無視して、鶴の講義は続く。
「この穴の中ではな、微生物という名の小さな兵士たちが、不眠不休で働いている! 魚の残渣のタンパク質を分解し、アンモニアを作り、それを硝化菌が硝酸根へと変えるのだ。貴様らがやるべきことは、この兵士たちが働きやすい環境を維持することだ」
鶴は大きな木ベラを手に取り、手際良く土をかき混ぜ始めた。
「土の湿り気を維持し、 通気性よくして呼吸をさせ、 そしてアルカリ成分を補給するのだ。その為に、 灰を混ぜ、 魚の死骸や尿を注ぎ、 微生物たちに一切の休みを与えさせぬようかき混ぜ続けろ。分かったか?」
一同は無言で何度も頷く。
「では。始めろ。動け」
「ひっ、はいっ! 死骸、足します!!」
小次郎たちが慌てて桶を担ぎ上げる。
「いいか、これは科学だ! 科学は再現性だ。景虎様が授けてくださったこの知識を、貴様らのような低脳な脳細胞に刻み込ませてやる」
鶴は試薬を土に差し込み、色が変わるのを確認すると、目を細めて笑った。
「見ていろ。この泥の中から、鉄砲の弾丸を飛ばす火力が生まれる。武田の騎馬隊を肉片に変える雷が生まれるのだ。……ゾクゾクするだろう? え?」
「……(あ、この人、完全に楽しんでる……)」
栞は確信した。景虎の前では淑やかな妻を演じているこの女性は、本質的にマッドサイエンティストなのだと。
「何を見ている、栞! 貴様はpHの測定担当だ。この紙の色が変わったら、私を呼べ。一秒でも遅れたら、貴様をこの発酵穴にぶち込んで、新たな肥料にしてやる!」
「イエス、マム! pH、死守します!!」
「……あー、栞、小次郎。何か不自由はないか?」
「どうなのだ、お前たち」
鶴の問いに宇佐美の遺児たちは直立不動で答えた。
「「「はい! 教官殿!! 不自由などありません」」」
「ほれ、このように言っておる。一切、心配はないぞ」
(こいつら、何かキメてるんじゃないのか……)
「……わかった。無理するなよ」
発酵穴の横で「ちっそ……さんか……」とうわ言のように呟きながら土を混ぜ続ける小次郎を見て、静かに手を合わせた。
(なるべく早く荒浜に戻ろう)




