24 祝言の夜、正室と側室が同時に動き出し、直江津で“偶然の火事”が起きました
稽古場へ戻ると、源五たちが「直訴の準備はできております!」と鼻息荒く寄ってくる。
「……ならん。祝言の準備をせよ」
「えっ、顕景様!?」
「姉上は大変お喜びだ。家中の不和で祝言に泥を塗るようなことがあれば、御実城様を侮辱することになる。北条の男に『越後の武士は無作法だ』と嘲られるわけにはいかん」
俺は己の心を落ち着かせるように、家臣たちに檄を飛ばした。
「いいか、準備に取り掛かれ! 越後の意地を見せてやるのだ!」
不満げながらも動き出す家臣たちを見送りながら、俺はまだ見ぬ「義兄」の姿を思い描いていた。
(北条三郎景虎……一体、どんな奴がやってくるというのだ)
春日山城の巨大な門が、重々しい音を立てて開かれた。
輝虎(上杉謙信)を先頭に、俺と鶴、そして北条から連れてきた手勢がその門を潜る。
出迎えるのは、次期当主候補・長尾顕景(後の景勝)と、彼を支える最強の戦闘集団「上田衆」だ。
「御実城様、御帰還、心よりお慶び申し上げます!」
「「「お慶び申し上げますッ!!」」」
地鳴りのような咆哮。だが、その声には歓迎ではなく、明らかに「余所者」である俺たちへの剥き出しの敵意が混じっていた。
「……顕景、留守中の差配、見事であった」
輝虎の言葉に、顕景は感情を殺したまま頭を下げた。
「はっ。祝言の儀、すべて整っております。……景虎殿、ようこそ越後へ」
挨拶こそ交わしたが、その視線は鋭い。俺を試すような、あるいは値踏みするような冷たい光だ。
城内は祝賀ムードとは程遠かった。
「北条に屈するなど我慢ならん! 顕景様、今からでもあの小倅の首を!」
詰め寄る家臣たちに対し、顕景は一切の動揺を見せず、一歩前に出た。
「黙れ。此度の婚姻、姉上は『この上なく喜ばしい』と仰せだ。貴殿らの不満は、姉上の喜びを汚すものか?」
彼は、立ち上がろうとした重臣・直江信綱の肩を抑え込んだ。
「北条が仇敵ならば、その仇敵が膝を屈してこの越後に骨を埋めに来るのだ。これ以上の勝利がどこにある。……我ら上田長尾は、姉上の選んだ道を、全力で守るのだ。異論がある者は、この私を斬ってから行け」
その気迫に、荒くれ者たちが沈黙する。
(……顕景。不器用だが、真っ直ぐな奴だ)
俺は、自ら泥を被って場を鎮めた義弟の背中に、静かな敬意を抱いた。
広間で始まった祝宴は、豪華絢爛の一言だった。
色直しを済ませ、艶やかな振袖に身を包んだ正室・伊保野は、一分の隙もない美しさでその場に影響を与えている。まさに「越後の王女」だ。
その後方に控える鶴は、いつものように貞淑な姫を演じているが、その目は城内に配置された「軒猿(上杉の忍び)」たちの動きを追っており、静かに分析していた。
鶴と伊保野の視線が交差した。その一瞬、祝言の喧騒が遠のいた気がした。
宴が中盤に差し掛かった頃、顕景が盃を手に俺の前へとやってきた。
「景虎殿。……姉上を、よろしくお願い致します」
ぶっきらぼうだが、重みのある言葉。俺はその盃を受け止め、一気に飲み干した。
「顕景殿の言葉、肝に銘じる。貴方のような義弟を持てたこと、何よりの誇りだ」
その時、伊保野と顕景の視線がふと交わった。
「不手際はありません」と顎を引く弟。
「よくやりました。あとは私に任せなさい」と微笑む姉。
(この姉弟は素晴らしい連携だ。これは一筋縄じゃいかないな)
俺はこれからの越後生活のハードさを予感し、少しだけ口角を上げた。
祝言の喧騒が引き、夜の静寂が春日山を包む。
新婚の閨、伊保野は静かに盃を傾け、俺をじっと見つめていた。
「……鶴は、下がらせたのか?」
「ええ。鶴姫様は『今宵は正室殿の時間。私は周囲の鼠を掃除して参ります』と」
伊保野は薄く微笑んだ。
「実に見事な引き際……側室に置くには惜しい。まるで武将のよう。北条の教育が行き届いておりますわね」
「あいつの父、幻庵の仕込みだ。それに、鶴が大人しくしている時は、何かの支度をしている時だ。今頃、城の周りは少しばかり騒がしくなっているかもしれないぞ」
「ふふ、ご心配なく。我が家の軒猿たちにも、今夜は寝ずの番を命じてあります。風魔の方々と仲良うするように、言い聞かせておきましたわ」
伊保野の言葉に、俺は背筋を寒くした。
(顕景じゃない。実質的にこの国を影から統べているのは、この女か……)
「お前は分かっているはずだ。俺が何故、鶴を連れてここへ来たか。越後を豊かにし、北条と天下を動かす」
伊保野は静かに杯を置き、俺の胸元に指を滑らせた。
「結構ですわ。ですが景虎様、ひとつ訂正を。貴方がこの国の主となるのは、北条のためではありません。私のため、そしてこの越後のためです」
伊保野の瞳が暗く輝きだす。
「……顕景は知らぬでしょうね。私がどれほどのものを捨てて、この家を守ってきたか」
ふうっとため息をついて続ける。
「顕景では、この国を豊かにはできないでしょう。あの子は心根が清らかすぎて、清濁を良しとしない……愚直で可愛いのだけど、君主として困る。……だからこそ、上杉は貴方を招き入れた。……明日になれば、顕景が貴方の力量を試しにやってくるでしょう。あの子を殺さぬ程度に、絶望させてあげてくださいな」
伊保野は艶然と笑い、蝋燭の火を指先で消した。
その頃、直江津へと続く街道。
「……まったく。鼠が多すぎるのじゃ」
鶴は馬上で、相模から連れてきた風魔の報告を受けていた。祝言の隙を突き、放火を目論む反乱分子。
(……まあ、伊保野様の初夜を見せつけられるより、こちらの方がよっぽど性に合っておる)
殺気を研ぎ澄ませる鶴の前に、一人の女が立ち塞がった。
「北条の姫君、鶴姫とお見受けする。私は伊保野様の配下、軒猿の中西と申します」
「……何用だ」
「不届き者の隠れ家まで案内いたしましょう。正室殿(伊保野)より、今宵は共同で狩りをせよとの命です」
鶴は僅かに目を吊り上げた。
「いいだろう。正室殿の助言、ありがたく受けておくわ」
その晩、直江津の宿が一軒、轟々と燃え上がった。
焼け跡からは複数の骸が見つかったが、翌朝には「不慮の火災」として、何事もなかったかのように処理された。




