20 上杉家に妻と乗り込んだら、軍神に気に入られて景虎を名乗ることになりました
永禄十三年(1570年)、上野国――沼田。
俺と鶴は、小田原から四日間の強行軍を経て、沼田城の土を踏んでいた。道中、俺の目に映ったのは、かつての戦火から力強く立ち直りつつある北条領の姿だった。
初日の宿泊地、滝山城では北条氏照兄上に「立派になったな……」と涙ながらの歓待を受け、少し胸が熱くなった。俺もようやく、この北条家の一員として認められたのだと実感した。
二日目は川越、三日目は中山道を北上して熊谷へ。かつて新幹線なら一瞬で通り過ぎたこの関東平野も、自分の足で歩けばその広大さが身に染みる。そして四日目の今日、本庄、高崎、渋川を抜け、ついに要害・沼田城へと到着した。
利根川の支流に囲まれたその城には、日の光を浴びて翻る「上杉」の旗指物がひしめき合っている。
「圧巻だな……」
「本当に。いよいよですわね、三郎様」
正門をくぐった俺たちを、一人の侍従が迎えた。
「三郎殿、お待ちしておりました。……鶴姫様は、あちらの控えの間へ」
「待て。それは義父上となられる輝虎様の指示か?」
俺は足を止め、侍従を射抜くように見た。
「……いえ、某の差配にございます」
「ならば、鶴も同行させる。これから家族となるのだ。初顔合わせで妻を遠ざける理由はない。不敬だというなら、俺の我が儘だったと義父上に伝えてくれ」
(……初手から鶴を引き離そうとする奴がいるわけか。面白い。上杉家中、一枚岩じゃないってことだな)
俺は貞淑な姫を演じている鶴と視線を交わし、不敵な笑みを浮かべて天守御殿へと向かった。
大広間。
居並ぶ上杉家臣たちの、好奇と警戒が入り混じった視線を浴びながら俺たちは平伏していた。やがて、廊下から静かだが重みのある足音が響く。
「北条三郎、そして妻の鶴姫か。よくぞ参った。面を上げよ」
澄んだ、だが鼓膜を震わせるような覇気のある声。
顔を上げると、そこには「軍神」と称される男、上杉輝虎が座っていた。
(……なんだ、この迫力は。穏やかな表情なのに、存在感が半端じゃない)
「お初にお目にかかります。北条三郎、そして妻の鶴にございます。上杉家の一員として認められるよう、精進いたします」
「うむ。今日より、儂がお前の父だ。三郎よ、お主には私の初名を名乗ってほしい。今日よりそなたは――上杉三郎景虎だ」
広間がざわめく。「景」の一字。それは紛れもない、最高級の厚遇だった。
「身が引き締まる思いです。景虎の名に恥じぬよう、粉骨砕身、励みます」
「よい。景虎の名は、我が家の未来を託す者にしか与えぬ……実はお主とはじっくり語り合いたいと思っていた。相模をどう富ませ、いかにして武田を退けたのかをな」
「ありがたき幸せ。ですが、それらは俺一人の力ではございません。隣に座る、妻の鶴あってのことなのです」
家臣たちが小馬鹿にしたように鼻で笑うのが聞こえた。だが、輝虎の眼光だけは鋭さを増す。
「内助の功……という話ではなさそうだな?」
「鶴の父は北条幻庵。彼女は情報の収集、そして分析において私の右腕なのです」
輝虎は一瞬、目を見開いた。鶴が諜報組織を束ねる存在だと察したのだろう。
「……なるほど。では、夕餉の席には鶴姫も同席せよ。語り合うのが楽しみだ」
その夜。輝虎との初めての夕餉。
俺と鶴の前に並べられたのは、山盛りの玄米に豆腐、漬物、そして川魚の塩焼き。そして――
「さあ景虎、遠慮するな。飲め!」
なみなみと注がれた大杯の酒。
(……これ、昔の韓国出張で食らった地獄の酒接待か!?)
俺は覚悟を決め、一気に飲み干すと、輝虎に返杯を求めた。
「義父上。お注ぎしても?」
「おお、気が利くな! 景虎、お前は面白い男だ」
豪快に笑い、俺の三倍はあろうかという杯を飲み干す輝虎。だが、その目は全く酔っていない。
「鶴姫、そなたもどうだ?」
輝虎は鶴姫の盃にも注いでいく。
「頂戴致します」
鶴も顔色ひとつ変えずに飲み干していく。
「なんと。飲み干すか。うぬ、天晴だ」
輝虎はどんどん上機嫌になっていく。そして、自分の杯に酒注ぎながら尋ねてきた。
「……それで。なぜお前が養子に選ばれた?なぜ、鶴姫を連れてきた? 北条の真意を聞かせろ」
真剣勝負の始まりだ。俺は水を一口飲み、真っ直ぐに輝虎を見据えた。
「理由は三つ。一つ、両家の利を最大化するため。二つ、単なる軍事同盟を超えた『経済共同体』を築くため。そして三つ、日の本を早期に安定させ、海外の強国に対抗するためです。この大局を義父上と語り合えるのは自分しかいないと、北条宗家で協議した結果です。鶴は、これらの実現に無くてはならない存在の為」
「ほう。一つ目の利とは何だ?」
「短期的には、戦力を信濃や越中に集中できること。長期的には、雪に閉ざされる冬でも動ける『常備軍』の設立です」
「常備軍だと? そんな余力はないぞ」
「俺が相模でやったように、産業を振興し、余剰の富と人員を生み出すのです。越後なら『青苧』でしょう。単に育てるだけでなく、加工・流通・販売までを一体化して管理する……いわば『六次産業化』です。これを直江津から西は京へ、東は関東・奥州へと広げれば、越後一国では考えられない莫大な富が生まれます」
俺が語る経済共同体のビジョン。それは、戦国大名の常識を遥かに超えた国家経営の青写真だ。
「景虎。お前は街道を整備し、商いの流れで天下を支配すると言っているのか」
「左様です。武力はそれを守るための手段。まず富める国があってこその強兵です」
輝虎は杯を置き、深く考え込んだ。やがて、彼はポツリと独り言のように呟いた。
「……富国強兵、か。景虎、お前はまるで、古の『諸子百家』のようだな」
軍神の口から出たのは、紀元前の思想家たちを指す言葉だった。
この新しい父は、俺が持ち込んだ異質な知識を、自らの教養で読み解こうとしている。
「面白い。実に面白いぞ、景虎!」
輝虎の笑い声が、沼田の夜空に響き渡った。
上杉景虎としての第一歩。どうやら、この軍神という名の巨人を後援者にする作戦は、上々の滑り出しのようだ。




