15 三増峠、武田二万を包囲殲滅しました
元亀元年(1569年)10月6日。
武田軍は小田原城の包囲を解き、城下に火を放ちつつ撤退を開始した。
城下に火をつけられたため、鎮火に時間がかかったものの、一段落したところで小田原城下を幻庵に委ね、甲斐に戻る武田軍を追撃すべく、北条氏康は自ら出陣する。その数一万。先に氏照・氏邦勢に連絡を送り、挟撃の手筈を整えた。
「……氏康様、あまりご無理をされると身体に障ります」
「黙れ三郎。拾った命、ここで燃やさず、いつ燃やす。儂は川越で、二万の上杉を三千で破った。あの時も、皆が無謀だと言ったわ」
氏康は薄く笑った。
「戦はな、勝てる時に勝つのではない。勝たねばならぬ時に勝つのだ」
病み上がりの氏康は馬上でふらつきながらも武田の背を追う。
「それにな……武田の撤退は速すぎる。あれは勝頼が焦っておる証よ。焦りは判断を鈍らせる。そこを突くのが、戦よ」
氏康は、病み上がりとは思えぬ鋭さで山の向こうを睨んだ。
だが、氏照・氏邦が先に武田と遭遇、その戦況は敗色濃厚であった。
三増峠で武田を待ち伏せていた氏照・氏邦の軍勢は、甲斐に向かって帰路につこうとする武田との合戦を開始していた。初戦は北条優勢であったが、武田の誇る猛将・山県昌の反転攻撃を受け、崩壊寸前だという伝令が走る。
「もはや間に合わぬ」
「退くべきだ」
兵の絶望が広がる。氏康も病み上がりの無理が祟り発熱をしているようでかなり辛そうだ。俺は思い切って具申した。
「……いいえ。今こそが武田の狩り時です。このままでは各個撃破。しかし、氏照兄上、氏邦兄上たちが敵を引きつけている今こそ、無防備な側面を突けます」
「三郎、お前……」
「氏康様。戦争は速度です。それは氏康様が川越で実践されたことです。此度、私に全軍の指揮を預けていただけませんか」
氏康は、三郎の瞳に宿る合理性に、川越合戦を思い出した。
「……託す。お前が指揮をしろ」
氏康は自身の指揮棒を三郎に手渡した。
(重いな、だが、任せて頂いたのならやり切ってみせる)
俺は全軍の前に出ると、肺の腑を震わせて吠えた。
「聞け! 氏康公の名代、北条三郎である! これより速度を倍に上げ、三増峠まで駆け上がる。武器以外はすべてここに置いていけ」
動揺する兵たちに、三郎は報酬を伝える。
「三増峠を越えた先には、武田が捨てた戦利品と、俺が運ばせた旨い酒と握り飯が待っている! 走れ! 甲斐の侵略者どものケツを蹴り上げるぞ!」
三増峠。
「これだ! 見たか三郎、私の計算が勝ったのだ!」
武田本陣で歓喜する佐伯。
武田軍は勝利を確信し、勝ち鬨を上げようとした。
その武田軍の右側面――崖の上から、一斉に北条の法螺貝が響き渡った。崖の上に北条の旗印『三つ鱗』が無数にたなびく。白地に三つ鱗、それは氏康本隊の旗印であった。
「馬鹿な……!? あと一日は届かぬはずだぞ!それに、あんな重箱を輸送しておいてこんな山中迄進軍出来る……重箱がない?」
佐伯が絶句する。佐伯が計算の根拠とした「重い荷箱」は、出陣と同時に捨て去った空箱だった。
「氏康の本隊が、なぜこの短時間でここに……!?」
驚愕する武田晴信の視界に、山道を埋め尽くす北条の軍旗、そして異様に整然とした近代的な長槍隊が現れる。
鶴姫は、崖上の旗の動きを見ながら、わずかに口元を吊り上げた。その表情は、普段の柔らかさとはまるで違う。
戦場を俯瞰し、勝利の形を読み切った者の顔だった。
(……やっぱりこの女、戦になると怖いな)
俺は内心で苦笑した。
「戦闘準備。……鉄砲隊、武田の重臣の頭だけを狙え。斉射!」
ドドォォン!! ドドォォン!!
引き金の音が重なった瞬間、俺の胸骨まで震えるような衝撃が走った。
火薬の匂いが鼻を刺し、耳の奥がキンと鳴る。
視界の向こうで、武田の指揮官格が次々と崩れ落ちていくのが見えた。
俺の号令と共に、火薬の咆哮が武田の指揮系統を破壊していく。
(……よし。読み通り、まず“頭”を落とす)
俺は息を吐き、次の指示を飛ばした。
「弾を込める間、長槍隊が前に出ろ! 殺すな、ただ壁となって押し出せ!」
現代での暴徒鎮圧のやり方を応用した、隙のない陣形。武田の誇る騎馬隊も、鉄の槍の壁に阻まれ、突撃の距離を稼げない。三増峠の山肌は急で、馬は直ぐに横列を組めない。武田の騎馬隊は、ただの重い荷物と化していた。
「弾を込める間、長槍隊が前に出ろ! 間隔を維持し、壁を作れ! 敵を殺すな、ただ押し出せ!」
武田勢は慌てて反転して三郎たちに襲いかかろうとするが、整然と組まれた長槍隊によって武田は崩しきれない。
「鉄砲隊、第二射準備。斉射!」
ドドォォン!! ドドォォン!!
再び武田の多くの将兵が倒れる。
しかし、晴信はこの間に歩兵を犠牲にしながらも、騎馬隊による俺たちへの突撃準備を行なっていた。
「お館様、突撃準備が整いました」
「うむ。氏康め、この時にここに来たのは見事。しかし、その寡兵では我らには勝てんぞ」
「ふん、病み上がりの虎が。ここで潰してくれる」
勝頼もまた体制を整え、突撃の命令を待つ。
まさに晴信が軍配が振り下ろそうとした時、新たな伝令が報告にくる。
「ご注進! 北条勢、我が軍の東を囲むように展開。突撃準備に入っております」
武田勢が南から駆けつけた俺たち援軍を叩く準備をしている間に、敗走していた氏照・氏邦軍が急速に厚くなっていく。東から北条の本体が加わり、歯抜けになっていた両軍が東の台地を埋め尽くす分厚い壁になっていった。
「……これは、北の山を用いた南と東からの包囲殲滅陣だと!? 氏康め、寡兵で我ら動きを止め、本隊を東に迂回させたというのか!?」
晴信が気づいた時には、すでに詰んでいた。
北から氏照・氏邦、南から三郎、そして東から北条本隊。V字型の波状攻撃。北は山なので登った先に逃げ道は無く、西の隘路に退くしかない。しかし、隘路ゆえに目詰まりを起こし、武田の将兵は次第に身動きが取れなくなっていく。
「佐伯ィィッ!!」
勝頼の怒声が轟く。
「貴様の情報は、我らをこの隘路に誘い込む罠だったか!」
「違います! 私は、私は……!」
佐伯は、自分を殺さんとする武田の将兵の視線に腰を抜かした。
(……まずい。ここにいたら殺される!)
次の瞬間、佐伯の周りが北条の鉄砲隊によって一斉斉射される。バタバタと武田兵が倒れる中、混乱に乗じ、佐伯は本陣の裏手へと這い出した。北条には戻れず、武田には命を狙われ、もはや誰からも顧みられない脱走者として、彼は泥にまみれて戦場から逃走していった。
三郎が勝利の報告を受けていたその頃、隘路の奥で幻庵の手勢が静かに弓を構えていた。
「……逃がすと思うたか、武田の衆よ」
向かいの斜面で、松明がひとつ揺れた。
その瞬間、闇に潜んでいた影たちが、一斉に弦を引いた。




