14 武田に寝返った勘定頭を逆利用する
「お、お待ちください! 氏康様!」
震える声で叫んだのは、佐伯だった。彼は床に這いつくばりながら、必死に言葉を絞り出す。
「氏政様と良整殿の謹慎。此度のことでは致し方のないものと存じます。なればこそ、この難局の取りまとめは、経験豊富な私に――」
「佐伯」
氏康の冷徹な声が、その言葉を遮った。
「お前は、三郎の報告書を一銭の価値もないと断じたらしいな」
「は、はい! あの杜撰な書面では、戦の備えなど到底――」
「三郎の献上した二千貫がなければ、今この瞬間の買い付けも、民の避難も間に合わぬ。お前の尊ぶ都の理論とやらで、武田の二万を押し返せるのか? お前の言う美学で、空腹の兵の腹が膨らむのか?」
氏康の視線は、もはや佐伯を家臣として見ていなかった。
「……今回の毒の件、お前が手続きに拘り、三郎を排除すれば、儂の命は尽きるところであった。お前の言う正確さは、人を殺すためのものか」
「そ、それは……! 私はただ、慣例に則り……!」
「戦に慣例などない。佐伯、お前を勘定頭から罷免する。これより小田原の蔵と兵糧の差配は、幻庵叔父上と三郎、お前が差配せよ」
佐伯は、侍従たちによってズルズルと引きずり出されていった。その顔は、何故自分がこのような処遇を受けるのか分からない驚愕の感情と、少し周りを嘲る眼差しが入り混じった表情であった。
「……なんだ。小田原で動きはないではないか」
武田勝頼は、苦々しく吐き捨てた。氏康を毒殺し、内から北条を崩壊させる――その完璧なはずの脚本は、どこで狂ったのか。
「四郎(勝頼)、お主の言っていた『兆候』とやらは、影も形もないぞ」
家臣たちの前で、父・武田晴信の冷たい声が響く。勝頼は深く頭を下げるしかなかった。
(……おかしい。手の者からは『氏康は死に体』と報告があった。北条に、俺の毒を見抜く目などなかったはずだ!)
重臣の山県昌景と内藤修理が父に発言してきた。
「お館様、北条は動かぬ模様ですが、目的は大分果たされたのでは」
「関東の反北条に義理は果たせました。北条はいざという時は助けに来ない、と流布することも出来ます」
「それよりも、収穫前に兵を甲斐に帰らせ、駿河攻めの余力を持つべきかと」
重臣たちは俺の失策を擁護しようと発言している。一々、理に適っている。しかし。
(これでは、俺の策が成功しようと失敗しようとどちらでも良かったと言っているのと同じではないか)
山県昌景ら重臣たちの擁護も、今の勝頼には屈辱でしかなかった。
「明日、小田原城下に火を放ち、甲斐に帰還する」
晴信の下した撤退命令。それは、勝頼の策は失敗したと晴信は家中に宣言したことを意味していた。
その夜、武田の本ー陣に一人の男が転がり込んできた。元北条勘定頭、佐伯である。
「御館様に申し上げます! 小田原を追われた私を、どうかお救いください! 手土産に、北条の軍備表を持ってまいりました」
佐伯が差し出した書面には、物資の備蓄状況、軍備、進軍予定速度が記されていた。
「小田原の北条本隊は三郎の無策により足並みが乱れ、小田原からの出発準備が整うのは早くとも二日後。また、あいつらは石鹸だ何だと贅沢品を積み込むのに手間取り、搬送も重量があるので足枷となります。今なら、甲斐への帰路で待ち構えている氏照・氏邦たちを各個撃破し、北条の首根っこを叩き折ることができましょう!」
信玄は無言で書面を眺め、傍らの後藤源三郎(真田昌幸)に問いかける。
「……源三郎、どう見る」
晴信が佐伯の書面を眺めていると、後藤源三郎(真田昌幸)が眉をひそめた。
「数字に矛盾はありませぬ。佐伯殿の報告が正しければ、我らは無傷で甲斐へ戻れましょう。……ですが、お館様。この数字、妙に整いすぎております」
「整いすぎて、だと?」
「はい。北条の兵站は本来もっと雑でございましょう。三郎殿のような若造が、ここまで綺麗な帳簿を残すとは……逆に不自然」
勝頼が苛立ったように言い放つ。
「源三郎、慎重すぎるぞ。数字が整っているなら、それは信頼できる証だ」
「……左様でございますが」
昌幸の声には、消えない違和感が滲んでいた。
「勝頼、どうする」
「駿河攻めの為にも、戻る前に北条を各個撃破し、後顧の憂いを断つべきと考えます」
「……勝頼。お前は急ぎすぎておる」
「父上、今こそ北条を叩く好機にございます!」
晴信は目を細めた。
「……好機とは、往々にして、誰かが作った罠であることを忘れるな」
その言葉に、勝頼の喉がわずかに鳴った。
「数字は嘘をつかぬ。しかし、数字を並べる者は嘘をつく」
晴信の言葉は重かった。
だが、勝頼の焦りがその警告を押し流してしまった。
「……だが、佐伯の数字は正しい。源三郎も認めた。やはり、叩くべきか」
晴信は不敵に笑う。
「……面白い。各個撃破の好機、逃す手はないな」
信玄は北条に一撃を当てる決断を下した。
佐伯は心中で快哉を叫んだ。
(見たか三郎! 私の正確な仕事が、北条を滅ぼすのだ!)
俺は、鶴姫が淹れた茶を啜りながら、城外に広がる武田篝火を見つめていた。
「のう、旦那様。あやつは旦那様の書類を奪って、武田に走ったぞ」
「そうか、鶴、困ったな」
「ぬかせ。旦那様が盗ませるように置いておいたのではないか」
「ああ。武田の武将って皆、優秀なんだろう、だから整合性の取れた数字ほど信じてしまうだろな。……数字に嘘はなくても、前提条件が丸ごと偽造されているとは夢にも思わないだろう」
鶴は面白いものをみるように問いかけてきた。
「あやつの罷免だけでは足らぬのか?」
「文官は大事なのだがな。現場を数字でしか見ないやつは、同じことを繰り返すだけの維持管理には向いているかもしれないが、非常時にはただのボトルネックなんだよ」
「ボトルネック?」
「瓶の、いや、鵜の首とか、隘路とか、つまり足枷だ。それのせいで人、金、情報、あらゆることが遅くなる」
「ああ、なるほど」
「拘りと知りたがりのせいで、北条が滅びてしまったら目も当てられないだろ。それに、残ると必ず氏政様に寄生しようとする。それは氏政様を名君から遠ざける」
「ふむ。そういうものか」
「まあ。まずは、武田に勝たないとな」




