12 毒の寝所で父上を救ったら、兄上が冤罪で殴り込んできた
「……食事が喉を通らず、肌も荒れ、熱が引かぬ様子じゃ」
氏康公の寝所に向かう中、幻庵の言葉に、俺は幾つかの原因を考えていた。多分、過労による免疫低下と、不衛生な環境での感染症だと思うのだけど、どうもそれだけではなさそうに思える。
俺と鶴姫は、氏康公の休む寝所に向かう。
鶴姫が俺の耳元で囁く。
「旦那様、準備は?」
「ああ。石鹸と、蒸留水を鉄造たちに用意させた。あとは俺の考えが通用するかだな」
(ここからが本番だ。親父殿、あんたを死なせるわけにはいかない。少なくとも、俺がこの国を乗っ取るための基盤が整うまではな)
氏康の寝所に入った瞬間、俺は顔をしかめた。
鼻を突く腐敗臭、口の中にまで刺さる湿った悪臭。薄暗く、換気もしていないのだろう。それを誤魔化そうと焚かれた香が、かえって目に染みる。現代の基準で言えば、ここは病室ではなく、細菌の培養室だ。
「三郎殿。氏康様は今朝から言葉も発せられぬ。お引き取りを」
侍医たちが壁のように立ちふさがる。だが、俺は歩みを止めない。
「俺は武田で、徳本殿から血を浄め肉を再生させる神の術を授かってまいりました。断言しましょう。このままでは氏康様は、病ではなく『汚れ』に殺されます」
俺の合図で、鶴姫が動く。
盆の上には、小机の工場で試作した特製石鹸と、煮沸消毒を繰り返した雪白の布。
「穢れを落とすなど、もっての外! そのような得体の知れないもので、殿のお体に触れるなど!」
叫び喚く侍医たち。
「黙れ」
俺は腰のものに手をかけ、チキリ、と微かに刃を鳴らした。
俺は低い声で遮り、彼らが持っていた不衛生な布を奪い取った。
「……これから行うのは、武田が秘匿していた聖なる法だ。万一があれば俺はこの場で腹を切る。だが、邪魔をして氏康様の命が尽きた時、お前たちはその責任を取れるのか?」
責任。その言葉が出た瞬間、彼らの顔から余裕が消えた。
「今一度問う。今の惨状の責任を貴様らが負えるのか?」
誰も何も話さない。
(……どこの世界も同じだな。リスクを負いたくない中間管理職の顔をしている)
「ご理解いただけて何より。では、そこの貴方は香を外へ。貴方は襖を開けて空気の入れ替えを。貴方は新しい寝具を大至急用意して頂きたい。――さあ、動け!」
俺はこの場の空気を支配すると、少しでも清潔な環境となるよう取り組んでいった。
石鹸を泡立て、氏康の体を清めていく最中、俺の指先が「薬湯」の澱みに触れた。
(……待てよ、なんだこの匂い。微かだが、これは「附子」の成分だ。長期的に摂取させれば、確実に心臓を止める。――暗殺か)
隣で布を差し出す鶴姫と視線が合う。彼女の瞳も、薬碗の縁に残った粉末を捉えていた。
(この娘は謀略だけでなく、医療まで見抜くのか。どんだけチートなんだか……。全方位に有能すぎるだろ、俺の嫁は)
「旦那様……世代交代を急がせたい、どなたかの仕業のようですわね」
「ああ、これは何としても踏みとどまって貰わないとな」
その夜、小田原城の一室。
氏政は酒を煽りながら、側近の佐伯と二人きりで座していた。
「……佐伯。どう思う」
「三郎殿のことでございますか」
「そうだ。あやつ……家臣にも久野殿にも、妙に評判が良い。鶴まであれだ。まるで、皆が三郎を新たな柱のように扱っておる」
氏政の声には、嫉妬と焦燥が混じっていた。
「殿。三郎殿は所詮、武田帰りの人質に過ぎませぬ。ご安心を」
「だが……二千貫だぞ。あれほどの銭を、わずか数ヶ月で……」
氏政は拳を握りしめた。
「久野殿(北条幻庵)が三郎を褒めたのだ。あの爺様が、だ。……儂は、褒められたことなどあったか?」
佐伯は静かに膝をつき、低く囁いた。
「殿。三郎殿の台頭は、殿の権威を脅かす悪い芽にございます。雑草は、いずれ摘むべき時が参りましょう」
氏政はゆっくりと頷いた。
「……そうだな。あれは、育ちすぎる前に折らねばならぬ」
蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁に歪んだ。
「少し、様子を見てまいりましょう」
寝所から廊下に逃げ出した侍医の一人が、様子を見に来た佐伯に縋り付いていた。
「佐伯様! お聞きください、三郎殿の暴挙を! 我らを足蹴にし、あろうことか氏康様の御体に得体の知れない油を塗りたくっているのです!」
「ほう……」
佐伯の口元が、醜く歪んだ。
「それは重畳。武士の分を越えて医術にまで手を出すとは、もはや乱心の域。すぐに『三郎殿による医療行為の不備と、それによる氏康様の容態悪化の懸念』を、事実として記録しましょう」
佐伯は素早く筆を走らせ、いかにも客観的な「苦情申し立て書」をまとめ上げた。彼はこれを持って、三郎を快く思っていない氏政の元へと急いだ。
三日後。
徹底した衛生管理と、電解質・栄養素の「経口補水」という現代知識によって、氏康は奇跡の生還を遂げた。
「……三郎。お前、一体何をした。体が軽い」
「不要な『汚れ』を洗い流し、滞っていた循環を促しました」
氏康は、弱々しい呼吸のまま、俺の手元の石鹸と布をじっと見つめた。
その目は、とても死線を超えたばかりとは思えなかった。まるで、戦場で敵の布陣を読み切る、あの“相模の虎”の眼光だった。
「……三郎。お前、毒に気づいたな」
俺は息を呑んだ。まだ何も説明していないのに。
「この胸の苦しみ、熱の上がり方……これは病ではない。誰かが、儂を動けなくしたかったのだ」
病床にありながら、状況を論理的に積み上げていく。この男が北条を巨大化させた理由が、よく分かる。
俺は懐から、あの毒の証拠を差し出した。
「申し上げにくいのですが、往年の健康体に戻るのは難しいでしょう。毒によるダメージが蓄積しすぎています」
「……そうか。いや、命を拾っただけで十分よ。三郎、礼を言う」
氏康が頭を下げようとしたその時、襖が勢いよく音を立てて開いた。
「三郎!! そこをどけ!」
怒号と共に、氏政が乱入してきた。背後には勝ち誇った顔の佐伯と、被害者を装う侍医たちが控えている。
「父上ッ! !この痴れ者を成敗せねばなりませぬ! 騙されてはなりませぬ、こ奴はただの詐欺師だ!」




