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10 小田原評定、二千貫で空気が変わる

 永禄十二年(1569年)8月、小田原城。

 相模を統べる巨城の廊下を、俺――三郎と鶴姫は、衣の擦れる音をわずかに響かせながら静かに歩いていた。

「鶴姫、俺は弱々しくいくからな」

 前を見据えたまま、隣の彼女にだけ聞こえる声で囁く。

「それが最良かと」

 鶴姫の短い返事には、揺るぎない信頼が込められていた。

 俺の脳裏には、前世の記憶が蘇ってきた、現実の見えていない二代目、三代目がふんぞり返る取締役会。そこへ乗り込んだ時の、胃の焼けるような感覚。

 (今の俺は、あくまで人質帰りの謙虚な養子だ。無駄な摩擦は、交渉を難しくするだけだからな)

 感情を殺し、実を取る。まずそこからだ。

 謁見の間で、北条の現当主・北条氏政との面談が始まった。

 約束の時間から大分待たされたが、これも権威付けのための古典的な儀式だ。一々感情的になっていてはキリがない。

 氏政は謁見の間に入ってくると、値踏みするような足取りで上座にどっかりと座り、俺に冷ややかな目を向けた。

「面をあげい」

 命じられるままに顔を上げると、氏政は弟である俺に対し、明らかな警戒と侮蔑が混じった視線を送っていた。

「三郎、よく来た。父上の見舞い、誠に殊勝な心掛けよ。しかし……武田の飯がよほど不味かったと見えるな。相模に戻るなり、随分と浅ましい銭稼ぎに精を出しているようではないか」

(ああ、この古臭いマウントの取り方、前世の専務そっくりで懐かしいな……)

 嫌味の先制攻撃だ。俺はそれを受け流し、改めて深く平伏した。床に額をこすりつけんばかりの、絵に描いたような謙虚な姿勢を見せる。

「滅相もございません。私はただ、幻庵お父上からお預かりした小机の地が、あまりに荒れ果てていたのが忍びなく……。武田で耳にした異国の知恵を試し、少しでも北条の軍資金の足しになればと動いたまでにございます」

「銭稼ぎは商人の仕事だ。武士が自ら油を絞るなど、父上がお聞きになれば嘆かれるぞ」

 氏政の追い打ちに対し、俺は反論せず、あえて困ったような、力ない気弱な笑みを浮かべてみせた。

「お叱り、ごもっともにございます。ですが、おかげさまで幻庵お父上への報告を終えた後、宗家へも僅かながら献上金を納められる目処が立ちました。……その、額にして二千貫ほどですが」

 ――二千貫。

 現代換算で数億円規模に相当するその数字を口にした瞬間、広間の空気が衝撃を伴って凍りついた。氏政の眉がピクリと不自然に動く。

 俺が静かに合図をすると、控えていた侍従が用意していた献上金――凄まじい量の銭を運び込んできた。その圧倒的な実弾の輝きに、氏政の家臣たちがざわめき始める。

「おい、計算してみろ。一挺十貫としても、鉄砲が二百挺は一括で買えるぞ。種子島の一軍が丸ごと作れるではないか」

「鉄砲だけではない。一貫で米が五石強……一万石以上の兵糧が動くというのか」

「馬なら……質の良い秋田馬でも百頭は優に揃う。三郎殿一人で、北条のそなえを一つ新設できるほどの財を成したというのか」


「三郎殿。宜しいかな」

 扇子で口元を隠し、鼻で笑うような声。勘定頭の佐伯は上座に当然のような顔で座っていた。

「小机の報告書、拝見しましたが……えー、あれでは酷い出来ですな。えー、あんな杜撰な書面では、一銭の価値もありません」

 佐伯がバサっと突きつけてきたのは、俺が提出した小机の収支報告書に対する指摘事項だった。その数、実に百項目以上。内容は「今後の見通しが曖昧で方式化されていない」から始まり、「墨の濃淡が一定でない」「施策に参考にした成功者の事例と比較がない」「この一行の表現は私の美学に反する」といった、本当にどうでもいいことばかりだ。

(出たよ……。100点満点を取るために、周りを1000点分疲弊させるタイプだ)

 氏政は満足そうに頷いている。

「三郎の二千貫の献上も、計算の根拠が不明瞭だと佐伯は言っている。一度、小机の帳簿をすべて佐伯に預け、精査を受けるべきではないか?」

「それは効率が悪すぎます。小机領は数ある北条の所領のひとつに過ぎず、また久野様(幻庵)の任された地です。佐伯殿は、現場の泥臭い運用よりも、机上の数値を愛でるのがお得意のようですから」

 俺が皮肉を込めて返すと、佐伯の顔がピクリと引きつった。

「これだから現場の人間は困る。私はね、、朝廷の財政再建にも関わり、博多の投資組合では数万貫を動かしてきた経験がある。私の指摘を一蹴するのは、自らの無知を晒すようなものですよ。えー、三郎殿はまだ若い、もっと指摘を甘んじて受け入れるべきです」

 佐伯の話はそこから長かった。

 いかに自分が賢いか、いかに京の最新理論が素晴らしいか、いかに今の北条の武士たちが「費用意識」に欠けているか。内容は薄いのに、言葉だけが贅肉のように積み重なっていく。

(権限移譲ができないマネージャーは、ただのボトルネックなんだよ……)

 俺の後ろで、鶴姫が微かにため息をついた。彼女のような勘の良い人間にとって、佐伯の発言は「人の気持ちを踏まえない、空虚な独演会」にしか聞こえないのだろう。

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