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文雄は『いつでも星』を買いに、福丸書店に向かった。スカイブルーのマウンテンバイクに乗って。気分ははつらつとしていた。
文雄はいつもの場所に来ると、水平線の上を渡るフェリーを見た。じっくりと。ちゃっかり時間を合わせてきたのだ。文雄にとってこの景色を見ることは、生活リズムを正すような大切な習慣だから。
雨の日も風の日も、さすがに台風の日は親に止められたが、週に一回、休日になるといつも文雄はここに来ていた。空の青と海の青の違いがほとんどなく、水平線がはっきり見えない日でも、フェリーが渡っていれば、そこに水平線があるのだとわかる。文雄はそうやって、自分なりの楽しみ方をいくつか持っている。
「もうすぐこの町を離れるから、しばらく見られなくなるのか」
名残惜しそうにフェリーを見送り、福丸書店に向かった。
文雄は福丸書店に着くと店内に入り、『いつでも星』を探した。すぐに見つかり、ほっとする。一直線にレジに向かい、会計を済ませた。しかしまだ、もう一つ大切な用事が残っている。
文雄は店の外に出ると、店の入り口横に設置されている、雑誌置き場の前で止まった。そこで雑誌を物色するふりをして、横目で人通りを確認する。
心臓が波打つのを感じる。
何件か先の店の前で話しているおばさん二人や、少し離れた向かいの並びの店に入っていく人が一人、向こうに歩いていく人が一人見えた。多少、人はいるが、こちらを見ているような人はいない。
文雄はチャンスと思い、素早くポケットの中から本代と謝罪の手紙を入れた封筒を抜き出して、雑誌の上の見やすいところに置いた。そして、さっさと自分の町に帰っていった。
□
「ミッションクリア」
文雄は自分の部屋でガッツポーズをした。達成感が文雄を安心させた。
「次のミッションだ」
これから文雄は、翔子に『いつでも星』の感想を言うのだ。できれば会って直接話したい。思いをじかに伝えたい。いや、翔子に会いたいと思っていた。文雄はすぐに翔子に電話をかける。スリーコールで翔子が電話に出た。
「あ、石井だけど、高梨の小説読んだぜ」
「え、本当?」
「ああ、すげえ、良かった。それでさ、感想を話したいからまた会いたいんだけど。どうしても直接、話したくてさ」
「ん、わかった。いいよ。ありがとう」
電話越しに、翔子の声が明るくなっているのがわかり、文雄は嬉しくなった。
「また、あの店でいいかな」
翔子と千絵の二人と待ち合わせ場所で利用した、ファーストフード店のことだ。田舎の待ち合わせ場所など限られている。
「いいけど、今度は奢らなくていいからね。貴重な時間割いてもらって、わざわざ感想言ってもらうのは私のほうだし」
「わかった。そうはいっても俺にも奢らなくていいからな」
「オッケー」
文雄は、思っていたよりスムーズに約束をこぎつけられたことに、喜んだ。
□
約束の日になった。しかし文雄は、ここにきて怖気づく。もしも万引きがばれたらと。
(でも、自分を守るために、高梨に何も伝えずおしまいにするのか? それにばれる要素なんてないはずだ)
文雄は意を決して、待ち合わせ場所のファーストフード店に向かった。
店に入るとすでに翔子が来ていて、手を振っている。文雄も手を振りかえす。それからレジで注文をすませて番号札を受けとった。その番号札を持ったまま、翔子のいるテーブルの席に着く。文雄はさっそく、真向かいの翔子に感想を話しはじめた。
「俺さ、小説なんて読まないけど、本当に感動したんだ」
「本当? ありがとう。すごく嬉しいよ」
文雄と向かい側の席に座っている翔子は、嬉しそうだ。文雄はその様子を見てほっとする。
「あ、じゃあ、もしかして福丸さんで買ってくれたの?」
「ああ、高梨と会ったあと、しばらくしてな」
「言ってくれたら貸したのに」
「いや、どうしても買って読みたかったんだ」
しかしそのとき、文雄は自分で言った言葉にずれを感じた。
(買って、読んだ?)
「じゃあさ、最後の、ミオがダイに『本物の星だって、こんなに輝いてないよ』て言うセリフどうだった? ちょっと臭かったかな?」
「え?」
(あれ? 最後にそんなセリフあったか? 確か最後は)
「最後って……」
会話が止まる。文雄は何か不穏な空気が流れているような気がした。さっき感じたずれが頭から離れない。
そのときレジのほうから、文雄が注文したハンバーガーとコーラを載せたトレーを持って、店員がやって来た。文雄がそれを受けとると、翔子は話をつづけた。
「あ、じゃあさ。最初のほうで、ミオがダイにおんぶされたときに、ダイに『軽いんだな。もっと食わなきゃ駄目だぞ』、て言われるセリフはどうかな?」
(ああ、それはあったな)
文雄は、翔子の明るい表情と声に、またほっとして感想を言う。
「いいと思ったよ。なんかミオの儚さとダイの優しさが見られて」
「何で知ってるの?」
翔子は不思議そうな顔をしている。
「何が?」
「何でそのセリフ知ってるの? そのセリフは書きなおす前にあったセリフなんだよ。万引きにあう前の。万引きにあった後、気になって少し書きなおしたの」
「ええ?」
(書きなおす前にあったセリフ? 万引きにあった後に書きなおした?)
文雄の不安が大きく形を成して、文雄の心臓を打った。冷たい汗が流れ出る。
「さっき言った、最後のミカのセリフは書き足したもの」
つまり、万引きの後に『いつでも星』を買ったのならば、文雄が持っているはずの本には加筆した『本物の星だって、こんなに輝いてないよ』というミカのセリフがあり、削除した『軽いんだな。もっと食わなきゃ駄目だぞ』というダイのセリフはないはずなのだ。それが逆になっているということは、文雄は万引きの前の、修正なしの本を読んでいることになる。
文雄は絶句した。万引きした事実を隠すために積み上げてきた嘘。その全ての嘘が崩壊したのだ。
「なんで、万引きされる前の本の内容を知っているの?」
翔子は文雄を問いただした。
(もう、だめだ)
文雄はもう嘘はつけないと観念した。
「すまん。高梨の本を万引きしたのは、俺だ」
「え」
翔子の顔が固まり表情が消えた。
「た、高梨の小説な」会話が止まる前に急いで、すごくよかったと伝えようとした。
「最低」
翔子は文雄を睨みつけながら、静かに、しかし、文雄の心を砕くのに十分な言葉を吐いた。
「大嫌い」
翔子は財布を取り出し、財布から千円札を抜き出した。そして、顔を強張らせている文雄の前で、その千円札をテーブルに叩きつけた。
そのまま、とっとと店を出て行ってしまった。
混乱していた文雄は、その千円札が何の意味なのか、すぐにはわからなかった。この店での飲食代金は、注文のときに払っている。しばらく文雄はその席で、頭も体も固まったままだったが、ようやく頭が働きだした。
(ああ、これは以前、俺が奢ったチーズバーガーセット代か?)
文雄は千円札を手に取ると、注文した品をテーブルに残したまま、おぼつかない足取りで店を出た。
□
次の日の朝、文雄は目が覚めると胸の中が重かった。きっと、今の自分の内臓は真っ黒だとさえ思った。
文雄は起きたくなかった。夢の中に逃げたかった。
「俺が高梨を傷つけたんだ。大嫌いって俺に言ったときの高梨のあの目」
文雄はあの目を思い出し、心底恐ろしくなり、悲しかった。
「高梨にあんな目を向けられたのは、俺がはじめてだろう」
文雄は自分が、翔子に、そこまでさせるほど嫌な思いをさせてしまったのだと理解した。
「そういうことなんだ。犯罪をするってことは、誰かを傷つけることなんだ。見えない向こう側にいる誰かを」
文雄はその傷つく誰かは、巡り巡って、自分の大切な人かもしれないのだと強く実感した。そして、いま大切な人がいなくても、未来に現れる大切な人かもしれないのだとも。
「罪を犯そうとする者には、その覚悟があるのかと突きつけられているんだ」
文雄はベッドの上に横たわったまま、仰向けで天井の木目を見ていた。
どろどろと溶け進む、マグマの動きのようにも見える混沌とした木目の模様。それが何か恐ろしいもののように見えて、文雄は目を瞑った。
文雄の重かった胸の奥が空いていく。心臓がなくなったみたいで、不安で不安で仕方がなかった。いつのまにか文雄は泣いていた。すすり泣いていた。
「なんで、なんで、あんなことを」
文雄は布団を頭までかぶると、嗚咽を漏らした。
このまま心臓のように、自分自身が消えてしまえと願った。
□
あれから、文雄のもとに警察は来なかった。翔子は言わなかったのだろう。
文雄は学校の教室で、自分の席に座ったまま、隣の席で話している友人の中尾と竹中の会話を、なんとなく聞いていた。
「お互い、大学決まって良かったな」
「ああ、なんとかな。ようやく進路決まったよ」
「石井は、なんか浮かない顔してるな」
「推薦で大学決まったものの、今になって別の大学にしておけば良かったとか?」
「大学入学が近づいてきて憂鬱に? マリッジブルーみたいなもんか?」
「違うわ」
文雄は面倒臭そうに返事を返すが、二人は文雄の意見を訊かずに、そのまま話を進める。
「あー、わかった。卒業式が近づいてきて、みんなと別れるのが嫌なんだろ」
「わかる、わかる。石井の気持ち」
(あいかわらず、こいつらは決めつけたがる)
文雄はそう思ったが、確かなこともあると思った。それは、卒業式の日が近づくことが、文雄を憂鬱にさせているということだ。
(それに俺だって、こうあって欲しいと願ってることがある)
「もうすぐ卒業だな」
「だな」
中尾と竹中は感慨深げだ。
卒業式の日が近づいてくる。それは、翔子が広島に行ってしまう日が近づいてくるのと、同じことを意味する。
文雄は、きっとこのままなら、もう二度と翔子に会うことはないだろうと感じていた。
しかし文雄にとって、それは問題ではなかった。翔子と会えなくなることが問題ではないのだ。
もう、文雄は翔子にじゅうぶん嫌われてしまっているし、会えばまた憎しみを込めた目で見られるだろう。
(銃口を突きつけられたら、あんな気持ちになるのだろうか。弾丸の代わりに憎しみを充填したような銃口を)
それは文雄にとって、何よりも恐ろしいことだった。
文雄にとって問題なのは、そうやってまた自分が傷つくのを恐れて、自分を守るために、翔子に肝心なことを伝えずに終わりにしていいのかということなのだ。
「あ、そういえば、スイカ泥棒した木口が、スイカ畑のオヤジのところに謝りに行ったってよ」
「え?」
文雄は中尾のその話に反応した。
「罪の意識に耐えられなかったらしい」
「なんだ木口、あんがい小心者だったんだな」
竹中はがっかりした様子だ。
「いや、正直者とも言えるぜ。たいしたもんだ。俺なら絶対白状しないもん」
中尾は、木口を評価しているようだ。
そのとき文雄たちの教室に、二年の柏木たち五人がやってきた。
「石井先輩、いいですか?」
□
「じゃあ、やるぞ」
文雄と、柏木たち五人、そして勇太を含めた七人は、使われていない物理教室にいた。
これから文雄のマジックがはじまるのだ。
文雄は教壇に立ち、教卓を前にしていた。勇太はその教卓の横、文雄の右隣に立っている。柏木たち五人は教卓を挟んで文雄と向かい合い、扇形に陣取っていた。
文雄は柏木たちの前でマジックをはじめた。柏木たちは文雄の手もとを凝視している。マジックの種をあばこうと真剣だ。
文雄は鮮やかな手さばきで、次々とマジックを披露していく。それは全く危なげなく進められた。文雄はなんどもなんども練習と実践を繰り返してきたのだ。それは一時期、翔子の気を惹くためでもあった。
そして最後のロープマジックが終わった。
「どうだ。わかったか?」
文雄は目を大きく見開いていた柏木たちに、答えを訊いた。
柏木たちは教卓の前から離れて、教室の入り口の前に集まり円陣を組んだ。そして、マジックの正体について会議を開く。唸り声が聞こえてくる。
しばらくすると、彼らは文雄の前に戻ってきた。
「わかりません」
五人を代表して柏木が、無念そうに細い声を絞り出した。他の連中も無念そうな顔をしている。
文雄が柏木たちにマジックを披露したのは、彼らが入学したときの新入生歓迎会のとき。結局、最後の最後で、二年近く追いつづけた謎が解けなかったのだ。彼らには大きなショックだっただろう。
すると文雄は、唐突にマジックの道具を入れていた鞄の中から、何かを探しはじめた。柏木たちは何事かと文雄を見ている。
隣で静観していた勇太も、文雄から何も聞かされておらず、途惑っているようだ。
そして文雄は、皆の予想外の行動をとった。
文雄は鞄の中から、自分が愛用してきたマジックの本を取り出し、それを柏木たちに差し出したのだ。
「俺が愛用している魔法の書だ。ここに全ての秘密が記されている。おまえらにやる」
「本当ですか?」
「マジだ。とくと受けとれい」
「ははー」
柏木たちは、うやうやしくそのマジックの本を譲りうけると、歓喜の声をあげた。それを横目に勇太が文雄に耳打ちする。
「いいのか、文雄」
「ああ、いいんだ。こいつら頑張ったから」
文雄は嬉しそうにはしゃいでいる柏木たちを見て、満足だった。
「いまの俺は、昔より寛大になったんだ」
文雄は傷つくことで変わることもあるのだと思った。




