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 卒業式前日、文雄は朝からマウンテンバイクで街中を走っていた。

 文雄は、もう一つ肝心なことを翔子に伝えていない。翔子に大嫌いと言われて、何も言えなくなってしまったのだ。

 文雄は伝えなければいけないと思った。確かに翔子は、ご両親の恩に報いるためにやらなければいけないことがあるのだろう。だから、時間がないのは真実に違いない。しかし、本当に小説をやめてしまっていいのだろうか? 文雄はそのことに疑念を抱いていた。


(高梨はきっと……)


 文雄はある確信を得ていた。そうあって欲しいと願っていた。


(それに、『いつでも星』の主人公の女の子は、好きな男の子から逃げなかった)


 文雄は海岸線につづくトンネルに向かった。しかしこの日は、トンネルの手前でUターンし、家に帰っていった。


   □


 卒業式当日、式は滞りなく進行していく。

 文雄は迷っていた。行くべきか、行かざるべきか。


「皆勤賞授与」

 式は皆勤賞授与式に移り、次々と皆勤賞の者の名前が呼ばれていく。


「石井文雄」


 高らかに呼ばれた自分の名。文雄は中学のときに皆勤賞をとって以来、高校でも休まず学校に通いつづけた。

 なぜか。

 中学で皆勤賞をとるまで、賞というものに無縁だった文雄は、受賞に感動し、高校でも皆勤賞が欲しくなったのだ。そして、見事に無遅刻無欠席をやってのけた。

 翔子がいたからだ。


(ありがとう、高梨)


 文雄は心から翔子に感謝した。特に変哲のない高校時代に証を残せた気がした。

 卒業式も無事終わり、教室で最後のホームルームが行われた。教師や級友たちと別れの挨拶をした。これでもう文雄がこの高校に来ることは、ないのかもしれない。


「文雄、このあとどうする? カラオケ行くか」


 文雄が教室を出ると、隣のクラスにいた勇太が廊下で待っていた。


「悪い、今日は先約があるんだ。また後で連絡するから。ほんとにごめん」


 意外そうな顔をする勇太を尻目に、文雄は急いで自転車置き場まで走った。


(どうせ、これ以上ないってくらい嫌われてるんだ。いまさら嫌われることを怖がってもしょうがない)


「ここで言えなかったら、末代までの恥だぜ!」


 文雄はそう叫ぶと、マウンテンバイクに乗り、港に向かって走った。全力疾走で町を駆け抜ける。

(どうか今だけは、稲妻のように速く)

 その願いが天に通じたのか、文雄は港までの全ての信号で止まることなく走ることができた。やがて文雄が港に近づくと、もう大きくて白いフェリーが着岸しているのが見える。

 文雄はハンドルを強く握り締め、残りの力を振り絞ってペダルをこいだ。

 フェリーに近づくと、フェリーに向かって歩いている人間が一人見えた。更に近づくとそれが誰だかはっきりした。ボストンバックを持った翔子だ。フェリーに乗り込むための桟橋に向かっている。

 文雄は翔子に向かって叫んだ。

「高梨!」


 目の前の大きなフェリーの前で、文雄は拳を石みたいに固めながら翔子を見ていた。息を切らせ、走っている最中には気がつかなかった汗が、だらだら流れている。翔子は足元にボストンバッグを置き、腕組みをしている。文雄とはそっぽを向いて視線をずらしていた。


「時間、大丈夫か?」

「早めに来たから。で、何?」


 翔子は素っ気ない態度で、あいかわらず文雄と目を合わせない。文雄は翔子のその態度に怯みそうになった。しかし、あの怒りの眼差しを向けられるよりはマシだと思い、彼女から目を離さなかった。


「最初にこれ」


 文雄は小銭を翔子に差し出した。


「チーズバーガーセット代のお釣り。これはちゃんと受けとってくれ」


 少しだけ間を置いたが、翔子は腕組みを解いて、大人しくその小銭を受けとった。しかし、すぐに腕組みを戻して文雄から顔をそらす。文雄はまた怯みそうになるが、決意を固める。


「書けたじゃないかよ」

 不安は拭い切れなかったが、それでも文雄は話しはじめた。


「高梨は十五作目にして人を感動させられる小説を、書けたんだよ」

「あ、そう」

「本当に感動したんだ。俺は泣いたんだ。何かに感動して泣いたのなんてはじめてなんだ」


 文雄は伝えたかった。心が洗われたことを。


「皆口の評価だって、お世辞なんかじゃない。嘘じゃないんだ。俺にとって高梨の『いつでも星』は、本物なんだ」


 文雄は伝えたかった。ありのままに思いの丈を。


「小説書くのやめるなんて決めるなよ」


 翔子は黙って聞いている。静かな濤声(とうせい、波音)が聞こえる。


「決めなくていい、と俺は思うんだ」


 文雄は話しつづけた。止まってはいけないと思った。


「誰かに宣言してしまって、それを破るのが恥ずかしい、悪いことだなんて思うなら、そんなものはお門違いだ。政治家なんて国民のためにこれをします、あれをします、なんて公約を日本中に宣言しておいて、守れてないことだってある。あれは俺たちの支持を得るために、その場しのぎのキャラ作りしてるんだろうな。アイドルと同じやり口だ。俺たちといっても選挙権ないけどな。で、キャラが崩れて国民に叩かれてんだ。そんな大恥かきながら、堂々と生きてるんだから、高梨の小説やめる宣言なんて、聞いた人間の思い違いにして、最初から言ってないことにして、人間の記憶なんてあやふやらしいよ、なんてすっとぼけても屁でもない」


 文雄は堰を切ったように一気にまくしたてた。翔子は困った顔をして笑っている。


「福丸のおじさんに聞いた。本の代金、置いていったんだってね」

「え」


 文雄はそのことが翔子の耳に届いているとは考えていなかったので、どぎまぎしながら説明した。


「あ、ああ。それでもう一冊買ったんだ。買ったほうをちゃんと読んどけば、ばれなかったかもしれないけど、どうせ、どこかでばれたんだろうな。悪かった。高梨を傷つけることになるなんて、ぜんぜん想像できなかった。悪かった。ごめん」

「へえ」

「今は時間がないかもしれない。だけど、時間ができるときだってあるかもしれないだろ? やめるなんて決めなくていいと思うんだ」


 文雄は、どうしても訊いてみたいことがあった。知りたいことがあった。


(生き方なんて人それぞれ。小説を失った高梨も、それなりに楽しい趣味でも見つけて生きていくのかもしれない。人間は適応していくものだ)


 だけど文雄には、小説を書く翔子のほうが、生き生きとしているのではないかと思えたのだ。どんな生き方よりも。


(だって、高梨はきっと……)


「大好きなんだろ? 小説。でなきゃ、十五作も書けないよ。あんな小説書けない」


 文雄は確信していた。翔子は小説が大好きなのだと。

 三月初旬のまだ冷えた空気の中、太陽の光が当たるこの場所は、暖かくて優しかった。

 翔子は少しためらったが、笑顔で答えてくれた。それは翔子自身が確認するようでもあった。


「うん」


 そのとき、翔子の笑顔を中心にして、何かが、春の太陽が放つ光彩のように広がった。

それはとても柔らかく放たれ、文雄の心に染み込んだ。文雄が生まれてはじめて見る、翔子のそのほころんだ笑顔。文雄はしばし呆然とした。


(あれ? 笑顔って海と大地の恵み? 降り注がれる光と雨? 酸素?)


 文雄はいま挙げたものを生きていくために必要なものだと、わかっている。しかし、必要だという実感はなかった。特に不自由なく過ごしてきた十八歳の文雄にとって、それは今まで当たり前に与えられてきたものだったから。

 喉が渇けば蛇口をひねればいい。ポットのお湯でインスタントコーヒーを作って飲んでもいい。それに冷蔵庫の牛乳を入れればカフェオレにもなる。

 腹が減る頃には食事が用意されている。それまで我慢できなければ、コンビニで菓子を買って食べればいい。

 空気なんて吸い放題だ。意識しなくても勝手に鼻と口の中に入ってくる。

 それらは当たり前にあるものだった。

 しかし、その今まで見たことのない笑顔は、はっきりと要るものだと実感できた。文雄の緊張し疲弊していた心に染み込んだのだ。


「石井くん?」

「え? ああ、俺は、あれだ。高梨の、『春野昇』のファンだからな」


 文雄は気がついた。いつのまにか翔子が自分の目を見てくれていることに。嬉しくなった。文雄の固く握り締められていた手も、解放されたように緩んでいた。


「好きなことから、逃げなくていいと思うんだ」


(だから、考えつづけたんだ。高梨から逃げないために)


「俺も、逃げないから」


 翔子はそれには何も答えず、しばし目を瞑った。

 それから目を開けたときの翔子は、穏やかな表情に見えた。


「世の中って、とても不確かなことが多いけれど」


 翔子はゆっくり丁寧に文雄に伝える。


「小説を、一作、二作と書きあげられたときは、すごく安心できるの」


 翔子はあくまで穏やかに見えた。


「不確かなことが多い世の中だけど、それだけは確かなの」


 そして翔子は、さようならを告げて、フェリーにつづく桟橋を登っていった。


(高梨はあの水平線の上を渡っていくのだろう)


「ふー、ミッションクリア」


 どうしようもなく重い荷物を抱えていた文雄の心は、なんだか軽くなった。

 文雄はあんな笑顔を見られるなんて、夢にも思っていなかった。水平線の上を渡るフェリー以上の光景が見られたことに、文雄はとても満足していた。


「あれ?」


 文雄は首を傾げる。穏やかな波風が運ぶ潮の香りが、文雄の鼻腔に心地いい。


「あ」


(そうか、そうか。誰かのために何かをしたいと思う心は……何かをしてあげることは、自分を救うこともあるのか)


 文雄にとってこれは贖罪の意味もあった。見返りを求めたわけじゃない。しかし、大きなものが返って来た。  

 やれること、好きなことに全力を尽くす。それが最善でなくても、きっと後の自分を助けてくれる。文雄はそう理解した。


「さあ、最後のミッションだ」


   □


 文雄は確かにあの日、万引きをした。店で文雄が手にとったのはあの落とした一冊だけだ。

 万引きの動機は、高校最後の思い出作りという稚拙なものだった。

 あんなにも誰かが傷つくということを想像できなかった、自分の想像力のなさを、文雄は恥じた。

 犯行はひとりで行ったのではない。

 文雄が店内に入ったとき、人はいなかったが、後から人が入ってきた。

 勇太だ。

 その勇太と行ったのだ。

 あのとき文雄が、本を床にわざと落とし、店主の気を引いている内に、勇太が『いつでも星』を盗んだのだ。

 そして犯行は、気付かれることなく成功してしまったのだ。

 勇太のことは、口が裂けても言わないと決めていた。友情を利用して誘ったのは自分だから。

 万引きを店主に自白すれば、警察に捕まるだろう。大学の推薦だって、取り消されるだろう。しかし文雄は、今のままじゃいられない。

 迷っていたときに、きっかけを与えてくれたのは木口だ。スイカ泥棒を畑の主に謝罪した木口の功績は大きい。文雄は自分を突き動かしてくれた木口に感謝した。

 罪を償い、堂々と『いつでも星』を手に入れるのだと決心できたのだから。


   □


 文雄は、スカイブルーのマウンテンバイクで福丸書店に向かって走った。

 距離のことなんか考えない。文雄はあらん限りの力でペダルをこいだ。

 文雄の目に映る景色が、加速度を上げて動いている。その景色が文雄の意識をますます高める。

 もっと速く、もっと速くと。

 すぐに海岸線につづくトンネルに到達する。そしてトンネルを抜け、いつもの場所に差しかかったとき、チラリと水平線を見た。

 フェリーが見える。

 しかし文雄は、一瞥しただけで、すぐに前を向いた。

 文雄にとってかけがえのない景色を惜しみもせずに。もうすぐ見られなくなるかもしれないその景色を惜しみもせずに。ますます力を込めて走り抜けたのだ。

 この勢いは何ものにも止められない。そのまま全速力で福丸書店に向かった。


   □


 福丸書店の前に来ると、文雄は「ふっ」と息を吐き、勢いのままに店内に入った。


「すみませんでした。僕、ここで本を」

「ああ、『いつでも星』ね」


 レジの中で座っている、その店主らしきおじいさんは、悠然と答えた。まるで文雄が来ることが、わかっていたかのように。


「翔子ちゃんから話は聞いてるよ」

 文雄は自分が万引きしたことを、翔子が福丸書店に話していることも予想していたので、すんなりと受け入れた。


「はい。僕が万引きをしました。覚悟はできてます」

「覚悟? 何の覚悟?」

「え、ですから警察にでも」

「そんなこと言われても、もう翔子ちゃんと約束しちゃったからなあ」


 途惑っている文雄に、おじいさんは意外な返答をした。


「どういうことですか?」


 文雄は、何が起こっているのかわからず、レジに身を乗り出して話を聞いた。


   □


 それは、文雄が翔子に万引きを自白した日の次の日のことだったという。翔子が福丸書店を訪ねて来たのだ。


「もしも犯人が自白しに来ても、警察には届けないようにして欲しいんです。おじさんからしたらお店の経営を傾かせるような酷い犯人かもしれないけれど、私にとっては大切な読者で、ただそれだけなんですけど。私の身勝手なお願いなんですけど」


 翔子は必死な目で懇願してきたという。絶対に自分の意志を通すという強い力が込められているように見えたという。


「まあ、お代もいただいたことだし、翔子ちゃんがいいのなら、こっちは構わないよ」

「ありがとう、おじさん」

「でも、一応そいつの名前とか教えておいてもらえる?」

「え、し、知りません」

「でも、万引き犯のこと知っているんだろう?」

「でも、名前とか、高校とか、あ、いえ、高校じゃないかもしれないですし。とにかく詳しいことは知りません」


   □


 事の顛末はそういうことだった。


「ワシが警察にでも届けるとでも思ったのかね。翔子ちゃんは、最後までお前さんの名前を言わなかったよ」


 文雄はただ立ち尽くした。


「だからワシも、聞かない。それでいいと思っている」


 あのフェリー乗り場で終わるはずだった翔子との縁。だけど翔子は、文雄のことを考えてここまでやってくれていた。文雄はこの縁を終わらせたくないと思った。


(高梨に手紙書こう)


「でも、お前さん。次はないよ。こんな甘いことは本当はないんだ。翔子ちゃんの気持ちを無下にするようなことだけは、するんじゃないよ」

「はい。ありがとうございました!」


 文雄は思い切り頭を下げた。いつまでも下げつづけた。


「じゃあ、営業の邪魔になるから、帰ってくれるかな」


 文雄はもう一度「ありがとうございました」と言い、足早に店を出た。


   □


「助けてくれた」


 帰りの道中、マウンテンバイクでゆっくり走りながら文雄は考えた。


(高梨が助けてくれた。俺のことを。大切な読者だからって。もう終わったと思っていたのに。俺の行動なんて、高梨にはお見通しだったんだ。そして、先手を打ってくれていた)


 いつのまにか青空は夕焼けに変わっていた。


(手紙書こう)


 穏やかな海面はキラキラと光り輝いている。


(お礼と、ずっと好きだったってことも)


 水平線の上を見る。フェリーは見えない。


(きっと、いや、間違いなく振られるだろうけど、返事さえ返ってこないかもしれないけど、それでも)


 文雄の横を車が通り過ぎていく。過ぎ去った過去はもう戻ってこない。だけど、今から未来を作ることはできる。思いどおりにはならなくても。


(あと、いつか、もし新作書いたら読ませてくれってことも。それから……) 


 夕焼けの光が、翔子の好きな光が文雄を照らしつづけた。そして文雄は、翔子との縁を終わらせないために、どうしたらいいか考えつづけた。水平線の上を渡って行った、翔子に届く言葉を考えつづけた。

                  

〈了〉

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

よろしければ、評価をください。

そうしていただけたなら、とてもありがたいです。

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