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 それから数日後、同じファーストフード店で文雄は席に着いていた。

文雄は店の入り口に目を向けていた。同時に、店内の白い壁に設置されている枠組みが銀色の丸い時計をちらちらと確認している。その時計の黒い針が、待ち合わせの時間を示すのを待っているのだ。    

 約束していた時間の二分前になると、翔子が入店してきた。それを確認した文雄は翔子に声をかける。

翔子はすぐにそれに気付いた。そして手を振りながら近づいてきて、文雄の前の席に座った。


「久しぶり」


 文雄はがちがちに緊張していた。緊張を悟られまいと大袈裟な笑顔を見せる。


「本当に久しぶりだね」


 翔子はリラックスした様子で明るく答える。


「一応リクエストされた分、買っておいたからさ」


 文雄はそう言うと、チーズバーガーセットの乗ったトレーを、自分の前から翔子のほうに差し出した。


「ありがとう。本当に奢ってもらっていいの?」

「ああ、忙しいときに、わざわざ時間割いてもらったんだからな」


(それに、お詫びの意味も含めて)


 文雄は少しでも消したい後ろめたさを、胸の内に秘めていた。


「あ、でも追加注文は駄目だぞ。もう金ないから」

「わかった。じゃあ、遠慮なく」


 翔子はさっそくフライドポテトに手をつけた。美味しそうに食べる。


「すごい小説書いたらしいな」

「ふふ。千絵ちゃんにはあれが最後って言ったし、褒めてくれたのは友情こみのお世辞みたいなものだよ」


(そんなことはない。皆口はお世辞を言ったんじゃない。もしも、そう言えたなら)


「なんでやめちゃうんだ、小説。少しづつでも書けるんじゃないのか?」


 文雄がそう尋ねると、翔子はしょうがないなという顔をして答えた。小さな子のミスを責めるでもなく、優しく処理してあげるようなときにする顔に見えた。


「十四作だよ。中学一年生のときから今までの六年間で、十四作書いたの。全部投稿して、一次予選に残ったのが二回で、二次予選に残ったのが一回きり。最終選考に残ったこともないの。プロを目指して書いていたけど、もう、書く意味がわからないよ」

 翔子は、またフライドポテトを頬張り、そのまま話をつづけた。

「だからもうプロは諦めて、その代わり、最後の十五作目は、賞とか関係なしに思い切り書きたいことを書いたの」

「それが『いつでも星』か」

「うん。記念に自費出版で少しだけ本にしたんだ。何冊かは友達に譲って、残りは福丸書店さんにね。福丸さんは親戚のおじさんが経営している本屋なの。それで、ご好意で置いてもらえたんだ」

「そういうことか」

 文雄は合点がいった。

 これでようやく『春野昇』にかかわる全ての謎が解けたのだ。文雄は確かな達成感を得た。しかしそれも、すぐに消えた。


「それも売れなかったけどね。しかも万引きにあったみたいなの。おっかしいの」


 翔子はすごく儚げに笑っている。

翔子のその顔は口角を上げ、目を細め、笑顔を形作っている。文雄にはそれだけのように見えた。

 文雄は胸の奥がざわついていくのを感じた。気持ちを紛らわせようと、コーラを飲む。炭酸が文雄の喉を刺激する。しかしその刺激も、気持ちを紛らわせてはくれなかった。


「千絵ちゃんに聞いたと思うけど、私の家は貧乏なんだ」


 翔子のその言葉に悲壮感はなく、文雄には晴れ晴れしているとさえ思えた。


「なのに、お父さんとお母さんに広島の大学まで行かせてもらえることになったの。私、すごく嬉しくて」


 翔子は本当に嬉しそうに話した。またフライドポテトを食べる。

 そして今度は、引き締まった顔になった。


「だから、本当に一生懸命勉強しないといけないし、お父さん、お母さんだけにお金の負担かけられないから、私もバイトしないとね。だから、もう小説を書く暇なんてないよ」


 翔子は紙コップを掴み上げ、ストローに口をつけて、アイスティーで喉を潤わせた。文雄も翔子に合わすようにコーラを飲んだ。炭酸が喉を刺激する。しかし、やはり気持ちは紛れない。


「それに、やっぱり」

 翔子は紙コップを掴んだまま、視線をストローに向けて、少し首を傾けた。


「私、才能ないもん」


 翔子は文雄を見ながら、しょうがないよという顔をしていた。諦めを湛えた目だった。


「やめるには、いい機会なんだよ」


 文雄は、翔子がやけに流暢にしゃべる気がした。今までも人に「なぜ?」と問われ、その度にこう答えてきたのかもしれない。


「でも」

 文雄は言わないつもりだったが、何かを言いたくなった。


「でも?」

「あ、いや」


(俺には何も言えないんだった)


 文雄はまたコーラを口に含んだ。しかし、やはり沈んだ気持ちは紛れない。


「広島にはいつ行くんだ?」

「卒業式の日。フェリーでね」

「そうか」


 翔子はようやくチーズバーガーを食べはじめた。その後は取り留めのない話がつづいた。


   □


「本を読んであんなに感動したのは、はじめてなんだ」


 文雄はそう言いたかったのにどうしても言えなかった。文雄には「感動した」と言えない訳があったのだ。

 文雄は自分の部屋のベッドに横たわりながら、翔子の顔を思い出す。


(万引きされたって笑ったときの高梨の顔。あんな悲しい笑顔ははじめて見た)


「心ない誰かが、罪のない高梨の大切な本を盗んだ。あんな笑顔にさせた。その誰かは誰だ?」

 文雄は心ごと体を震わせながら、自分に真実を突きつけた。

「誰でもない。俺だ。俺が高梨を傷つけた。俺が……なんてことを」

 文雄はあの日、『いつでも星』を万引きしたのだ。あのフェリーを見終えた後に、隣町の福丸書店までマウンテンバイクを走らせた、あの日だ。

 一人で福丸書店に行き、手にとった本は、あのとき、指を滑らせて床に落とした一冊だけ。しかし、それも元の棚に戻し店を出た。それでも文雄は、確かに万引きをしたのだ。

『いつでも星』が欲しかったわけじゃない。ただ、盗みやすそうな場所にその本があったから盗んだ。ただ、それだけだった。


「なんてことをしてしまったんだ」


 文雄は奥歯を力のかぎり噛みしめた。

 その日から後悔の念が、文雄の胸の奥から絶えず湧き出ることになった。その後悔の念を反芻しなければならなくなった。

 何日も、何日も、何日も。


   □


 霙が降っている。これでもかと晩冬の冷たさを吸った氷の雨が、町じゅうを打つ。雪には癒しの一面もあるが、霙はただ冷たいだけだと文雄は思った。

「感動した」その一言が翔子の救いになるかどうかはわからない。しかし、文雄は言わなければいけない気がした。いまそれを言えるのは、きっと自分だけなのだからと。


「あの本を買うんだ。万引きしてしまった分は、別に、こっそり金を払おう」


 文雄は二冊分の本代を払うことにした。一冊はあの福丸書店で購入し、万引きした分の代金は、お詫び状とともにこっそり店の前にでも置くことにした。


「小遣いはもうない」


 女子二人に奢ったからだ。


「母さんには借りられない」


 文雄は母親の正美と喧嘩をしたばかりだった。あれ以来、文雄は正美と会話らしき会話をしていない。

「バイトするか。でもうちの学校、バイト禁止なんだよな」


 次の日の放課後、文雄は酒屋の『栄吉』にいた。

「お願いします。なんでもしますから!」

「あんた、石井さんとこの息子だろ。八万高校に通ってる。あそこはバイト禁止だろ」

 文雄は返事に窮した。

「雇ってやりたいけど、ばれたらどうするんだ? こんな狭い町じゃ、すぐに顔が割れるぞ」

文雄は世間は狭いと思い、バイトを諦めた。


「勇太に借りるか」

 文雄はそう考えたが、一瞬動きを止めてすぐに頭を振る。

「いや、ダチとはいえ、金の貸し借りはまずいか……十円、百円の話じゃないし」

 文雄は迷った末、次の日、学校で勇太に声をかけた。


「俺、金ないよ。こないだCD買ったばっかりだもん」


(田舎の高校生なんてこんなもんだよな。小遣いに余裕なんかない)


   □


「親父だ」


 文雄は夕食の後、機を見計らい父親である民雄に金の無心をした。


「駄目だ」

 民雄は文雄に居丈高に言い放った。


「えー、なんでだよ」

「俺も金がない。財布の紐は母さんが握ってる」


 言葉とは裏腹に、腕を組み威厳たっぷりに答える民雄のその様は滑稽だったが、文雄は笑えなかった。

   

(どいつもこいつも金欠だ)


   □


「結局、母さんか」


 文雄は腹を決めて、石井家の財産を掌握する正美にすがることにした。


「母さん、この間はごめん!」

「何よ。藪から棒に」


 洗濯物を畳んでいた正美は、いきなり頭を下げる文雄に少し気圧された様子だ。


「この間のことは、本当に反省してるんだ!」

「もう、いいわよ。で、用は何?」

「え」

「あんた、父さんにお金借して欲しいって頼んだんだって?」


 ぐ、やっぱり、世間は狭いと文雄は観念する。


「小遣いを前借りさせて欲しいんだ」

「あ、そう」


 正美は素っ気ない返事を返すが、文雄は引き下がれない。ここが最後の砦なのだ。


「手伝いでも何でもするからさ!」


 正美はやれやれと息を吐き、右手で自分の左肩を叩く。すぐに文雄が正美の後ろに回り、正美の肩を揉みはじめた。ここが最後の砦なのだ。


「そのお金、何に使うの?」

「過去の清算。それと、将来のために投資したいんだ」


 文雄にとってそういうことなのだ。


「ふーん」


 正美はそれ以上、金の使い道については訊かなかった。


「いつまで?」

「え」

「いつまでにお金がいるの? それといつまで手伝いやってくれるの?」

「あ」


 文雄は感極まって泣きそうになった。


「ありがとう、母さん!」


 小遣いは一週間後に前払いでもらえることになった。手伝いの期間は、文雄が大学に行くために引越しするまで。手伝いの内容は、料理の手伝い、食後の食器洗い、ゴミ出し、庭木の剪定、庭の畑の収穫と雑草抜きと水やり。


「あと、水やりのときにお米のとぎ汁も使ってもらうから、ご飯も炊いてね」

「えー」

「あんたが何でもって言ったんでしょうが」

「わかった。やるから」

「ただし、これ全部やってくれたら前借りじゃなくて、余分にお小遣いあげる」


 文雄はその場で小躍りしたくなった。


(思わぬ副産物だ)


 それから文雄は毎日、正美と約束した家事手伝いをつづけた。一週間後に小遣いを貰った後は、約束した以上のことにも手を出すようになった。これには正美も喜んだ。


「どう、慣れた?」

「まあまあ」

「じゃあ、もう少しつづけていけば、もう一人暮らししても大丈夫だね」


 正美はニヤリとした。

このとき文雄は、正美があることを目論んでいたことに感づいた。文雄がこの家事全般を一人暮らしをはじめるまでつづけられれば、文雄は随分、生活しやすくなるだろうという目論見だ。先に、正美と喧嘩の原因となったことだった。

 文雄は今更ながらそのことに気づき、正美に感服した。


   □


 文雄は畑の隣の物置小屋から、種芋の入ったダンボールを畑に運んでいた。二月下旬。ここでは、ジャガイモは植え付けの時期だ。

 ところで、去年の五月ごろにも文雄は畑の収穫を手伝ったことがある。畑に関しては、ときどき手伝いをしてきたのだ。

 そのとき文雄は、ジャガイモを収穫しようとしたのだが、ジャガイモの茎に何かついているのを発見した。まるで緑のミニトマトだ。それが五個ほどついていた。

 文雄は驚き、急いで正美に報告した。


「ああ、それね。ジャガイモってトマトと同じナス科の野菜なの。だから、品種や環境によってトマトに似た実をつけるのよ。めったにならないらしいけどね。新聞に書いてあったわ」

「へー、うちの畑にできるとはね。すごいな」


 文雄は感心した。


「でもその代わり、その実のほうに栄養持っていかれるから、ジャガイモ自体は小さくなっちゃうわね」


 文雄は、種芋を植えるために畑を掘りおこしながら、そのときの正美の言葉を思い出し、考えた。


(果たして、俺が今やっていることの結果は、役に立つのだろうか? それともその結果によって、何かを阻害してしまうのだろうか?)

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