絶望はけもの道の中に隠す
楊は佐藤の悲鳴を頭の中で聞くや、隣にいた相棒の肩を掴んで現場へと飛んだ。
けれど、能力者でもない人間を引き連れての無意識の獣道移動は楊には初めての行為であり、当り前だが助けを呼ぶ佐藤の居場所に出現した時には楊はかなりの疲労困憊状態で、誰かを助けるどころか二本足で立つのもおぼつかない程であった。
「かわさん、大丈夫ですか。」
楊が後ろに倒れこまなかったのは、髙が楊の腰に腕を回してくれたからでしかない。
楊は感謝を込めて髙の左肩を右手で掴んで身を起こし、なんとか足に力を入れて体勢を整えることには成功した。
「ありがとう。しばらくはなんとか。」
「それは良かった。それで、これは、何、ですか。」
周囲を見渡せば、そこはいつもの法医学教室のスチールの世界であるようだが、そこには映像付きの薄い膜が覆ったような状態となっている。
狭く暗い殺風景なはずの遺体解剖室が、透明な水柱で輝く鍾乳洞にも見える広い世界と重なって存在していたのだ。
「これは――たぶん、誰かの獣道、かな。」
「では、先程までのものは何ですか?」
「――たぶん、君の見たものは俺の獣道だよ。」
「あなたは絶望だけですね。」
楊は髙が返した言葉に驚いて彼を見返した。
楊の作り上げた世界は、イギリスの田園風景に似たものだったはずなのだ。
楊が誰にも自分を見せたくないと作り上げた虚構の世界だからこそ、長い相棒の髙にはそれが楊の世界への絶望へと見做したのだろうか、と。
しかし振り向いた彼の横に立っていたのは、彼が会った事が無いはずの若い男である。
そこで楊が聞いた声が、相棒のものと違っていたと気が付いた。
「君は?」
楊よりも身長も高く体つきもしっかりした男は、目が合った楊に笑い皺が出来る程のほほ笑みを返してきた。
楊はその微笑には見覚えがある。
彼自身だけでなく、彼の同僚達の誰もが浮かべた事のある、嘘つきの微笑みだ。
君の辛さが痛い程に解るよと、とりあえず笑いかけるのだ。
それは犯罪者を宥める時でもあり、縋りつく被害者を自分から引きはがす時にも使い、そして、完全に気力が折れてしまった仲間に対しての微笑でもある。
「わかるよ、その辛さ。だからさ、自殺する時には一人でやってくれないかな。」
そんな微笑みを向けられたら、実際はそんな風に受け取るだろうなと、楊が皮肉に考えながら見つめ返していると、若い男の微笑みは徐々に崩れ、目元には暗い影が落ち、遂には彼の目元からは透明な雫が一つ零れ落ちた。
「ねぇ、花音。君が君の秘密の世界に俺を連れて来てくれた事は嬉しいよ。そして、それでわかったよ。君が絶対に人を許せない理由も、俺の父親が失踪した理由も。あいつが君の妹を殺したからなんだね。」
男の台詞に楊は再び前方へと視線を戻すと、涙を流した男が理解せざるを得なかった過去の映像が目の前で展開していた。
オレンジと赤と白がストライプとなったフリルのある水着は体を隠すどころか捩じられ捲られ、十歳くらいの少女の姿が体を隠すものが無い状態であるのに殆ど体が見えないのは、楊の目の前で涙を流した男とよく似ている男が押さえつけて覆いかぶさっているからである。
「なんだよ、ちくしょう。」
「かわさん。」
「か、……か……わ、さ……。」
髙の呼びかけだけでなく、同時に佐藤の囁き声にしかないならない呼びかけで楊ははっとし、楊の世界は楊が目にするはずの世界に戻っていた。
銀色だが輝きのないスチールの世界。
解剖用の台の前にはプラスチックのベビーバスが置かれ、まるで魔女の鍋のように男の遺体が浸かっている。
その横には楊の出現に目を丸くしている馬淵巡査だ。
「か、……か……わさん。」
「もえ!」
楊は何かを考える前に膝をついて足元に倒れていた佐藤を抱き起し、彼女を自分の中に入れ込むように強く強く抱きしめながら、言葉にならない叫びをあげていた。
美しかった黒髪は焼け焦げ縮れ頭皮にはほとんど残っておらず、特に損傷の酷い有様の左側である左目は火傷によって白く濁っている。
彼女の首から下の左上半身は血と体液で塗れた爛れた皮膚のようなものが垂れ下がり、どこまでが佐藤の本当の皮膚でどこからが衣服であるのかわからない有様なのである。
楊は佐藤を抱きしめながら彼女の怪我を全部自分に吸い込みたいと願い、佐藤の状態に怒りに火が付いたという言葉そのまま、彼は自分自身をも燃やしていた。




