佐藤という女
「起きて、お願い、お願いがあるの。」
聞きなれない女性の声に目を開ければ、ベッドに横たわる佐藤に殆ど覆いかぶさるようにして覗き込む白い顔の女と目が合った。
「あ、馬淵巡査。」
「ごめんなさい。お願い。もう一度島根巡査に会いたいの。」
「――どうして。あなただって警察官なら……。」
「私は停職中よ。それに、聡さんはあなた方が。」
「あぁ、そうか。私達のヤマだった。」
佐藤は馬淵の頼みを全部聞かずとも内容は完全に理解しており、彼女も馬淵の気持ちがわかるとむっくりと体を起こした。
三日ぶりに現実に戻って来た体は衰弱しきっており、上半身を起こしただけでぐらりと頭が揺れるような眩暈が起こり、佐藤は再びベッドに倒れこみそうになった。
「さぁ、行きましょう。あなたが必要なの。」
佐藤はベッドに倒れこむどころか馬淵に両肩を掴まれてベッドから引き出され、馬淵の腕の力の強さに驚きながらも馬淵の腕の中に抱き留められた。
「馬淵さん、ごめんなさい。わたし、目を開けるどころか、すごい眩暈で。」
「いいのよ、ほら、着いた。」
「え?」
佐藤の足元はひんやりと冷たく、スリッパを履かなければとぼんやりとする意識のまま足元を見下ろせば、佐藤はスチールの板でできた銀色の床に立っていたのである。
病院の床ではないと佐藤はゆっくりと、眩暈で視線が定まらない状態だったが、顔を上げて周囲を見渡せば、そこは佐藤がよく知っている遺体の解剖室であった。
佐藤は朦朧とした意識の中、この光景は違うはずだと何度も唾を飲んで現実に戻ろうと努力したのだが、視界がはっきりとするにつれて現実であるのだと打ちのめされるだけである。
「あぁ、そんな。」
部屋の中央に置かれているスチールの台の前にはピンク色のプラスチックでできたベビーバスが置かれており、バスの中にはミイラだった島根巡査が狭苦しそうに赤黒い湯に浸かっていた。
乾いていた皮膚は二十代の若者らしい瑞々しさを取り戻し、引き裂かれて失われていた右腕は黒々とした糸で縫い付けられていた。
「ねぇ、お願い。あなたも助けて頂戴。」
ぎゅうと佐藤の両肩は馬淵の両腕によって掴まれ、佐藤は目をそらしていたスチール台の下に横たわる被害者の一人に加えられるために連れてこられたのだと理解せざるを得なかった。
大きなピンク色の塊。
絶命している深道の胸腔の心臓部分には、灯油ポンプが深々と差し込まれている。
バスタブの血はそうやって注がれたのかと佐藤は妙に納得しており、自分がこれから殺されるにはしては妙に冷静だとボンヤリと考えていた。
「――どうして、私なの?私の次は水野なのかしら。」
「いいえ。あなたでお終い。私だって情はあるのよ。あなたは誰からも好かれておらず、誰の事も好きでは無いじゃない。だったら、消えても大丈夫よね。」
佐藤は馬淵の言葉に自分を取り戻していた。
自分が自分を一番好きなだけの女であると会ったばかりの女に見透かされていただけでなく、誰の心の中にも受け入れられない自分だと指摘されて傷つけられた筈であるのに、彼女は悲しさよりも沸き上がる怒りの方が強かったのである。
認めたくないという子供のような激情にかられたと言うべきか。
「ふざけるなぁあ!」
佐藤は右腕を跳ね上げる様にして馬淵を自分から引き離したが、馬淵から殴り返される代わりに左半身に熱風を浴びせられた。
「きゃあああああ!」
熱風に吹き飛ばされ床に打ち付けられ、体を焼かれる痛みに身を捩りながら佐藤は叫び声を上げ続けるしかなかった。
叫んだところで彼女が愛した楊が彼女を助けに来るどころか、彼女が愛したもう一人の男の記憶にも自分の存在など残らないと認めながら、それでも彼女は生まれて初めてという風に大声で泣き叫んでいた。
「あぁ、助けて!かわさん!かわさん!あぁ、葉山さん!助けて!あぁ!ああ!」
「さぁ、苦しんで。叫んで。あなたの命の迸りが聡君を目覚めさせるの!」
「ああああああああ!」
そして床に転がり叫びながら、誰からも好かれる水野が馬淵に生贄に選ばれる事は無いのだと気が付くしかなく、生まれて初めて親友を道連れにして殺したいと思う自分を認めた。




