最愛で卑怯な男
佐藤と水野は楊に抱きしめられた。
彼女達は今までに何度も事ある毎にふざけて楊に抱き着いていたが、楊は抱き着かれれば硬直するばかりで、楊の方から彼女達を抱きしめ返す事など一度も無かったのである。
そんな楊が車の後部ドアを開けるや、なんと、彼女達の名前を叫んだ。
佐藤、水野、と苗字でもなく、時々呼びかけるさっちゃんみっちゃんでもない。
彼は「萌」「美智花」と呼びかけ、ドアを開けてすぐそこにいた水野をまず抱きしめ、さらに、三列シートに座っていた佐藤の腕を掴むと自分の胸元へと引き寄せるまでもしたのである。
彼女達としては二人一緒という点で楊に抗議したかったが、彼にとって自分達の存在が大きいという事が知れた事は彼女達の自信ともなった。
ついでに言えば、抱きしめられて嬉しいながらも佐藤が自分の恋人になることはない楊に対しての恨み事を込め、楊に憎まれ口を言ってしまった事も彼女には結果としては失敗では無かったのである。
「かわさん。私達を抱きしめてなんかいたら、浮気だって奥さんに叱られるわよ。」
「あら、まささんは結婚していないそうよ。松野さん家のただの居候ですって。」
「こら、矢那。重いよ。」
「あら、結婚していない独身男性になら、独身女性が何をしたっていいじゃない。」
大人の女性のように歌うように楊に言い返した矢那であるが、楊に覆いかぶさるようにして子供そのもののような姿で楊の背中に貼り付いていた。
そのせいか楊の上半身はかなり屈まされており、佐藤と水野は楊の吐息を頬に感じられるほど密着してしまっていたが、彼女達の心が浮き立っているのはその体勢のせいではなく矢那から得た情報によるものである。
楊はまだ独身であるのだ。
「えぇ、ちょっとかわさん。どうして私達に結婚した何て嘘を。」
「そうだよ。純子をあたしから奪うために結婚したんじゃないの?」
そっぽを向いたどころか彼女達から離れようと身を引き始めた楊を、佐藤と水野は絶対に答えを聞くまでは離さないという意思を持ってがっちりと捕まえた。
しかし体力を失っている体では、猫が爪を立てている程度にしか楊にはならなかっただろう。
佐藤と水野は楊のコートの生地を掴んだまましゃがみこみそうになったのだ。
けれど彼女達のどちらも自分の両膝を床に打ち付ける事が無かったのは、楊に本気で彼女達から離れる気が無く、それどころか彼女達が倒れないように両腕を彼女達の背中にしっかりと回していたからである。
「かわさん。あたしらだって覚悟はあったんだよ。」
「そうよ。遊びで子供を育てようなんて思っていなかった。」
「だからだよ。こんなに若いお前達が修道女のような人生を送るなんてさ、そんなこと、俺がお前達に許すわけが無いだろう。枯れている俺一人で十分なんだよ。」
「そんなの、勝手に決めないでよ。」
「ずるいよ。かわさんは。」
二人は子供扱いしかしない楊への反発ばかりだったが、今回だけは卑怯者の道を取ることにした。
すなわち、朦朧とした状態に足掻くことを止め、楊に言い返し続けて彼を撥ね退けるどころか、彼女達の容体を心配する楊にそのまま抱きしめられ続けることを選んだのである。
「うわぁ、ちょっと、君達。大丈夫?え、救急車、救急車。おい、矢那。一一九番て何番だっけ。あぁ、警察も呼ばなきゃ、警察!」
「この、馬鹿男。そんなものとうにあたくしが呼んでおりましたわよ。」
「だって来ないじゃん。」
「来てますわよ。あなたが救急隊員の障害物になっているだけですわ。」
「うっそ。うわ、やられた!この小鬼が!」
ここで水野と佐藤は楊との時間を彼女達に与える為に矢那が楊に被さって楊の視界を遮っていたのだと理解し、現状を理解させられた楊が浮かべているだろう間抜けな表情を想像しながら本格的に意識を手放した。




