抵抗と反撃
深道は燃えろと翳された手によって、大きな動作で真後ろへと転がった。
しかし、梨々子の眼には何も起きた事は見えなかった。
彼女の目に映った状況は、勝手に尻餅をついた深道が、転ぶときに手に持っていた獣の足を彼女の前方に落とした、という光景でしかなかったのである。
だが、転んでいた深道が彼女のその重い体からは想像もつかない素早さで身を起こし、さらにはなぜか四つん這いという獣じみた姿になって落ちた足に手を伸ばして拾い上げようとし始めた。
そこで梨々子は恐慌に陥ってしまったのだ。
「足、足!あの足を深道に拾わせたらいけない!また異世界に送られちゃう!」
「ぱん。お願い。」
囁き声に近い程の佐藤のかすれ声だったが、梨々子にはその声を合図にしたかのように深道の指先で青い光が見えた気がした。
「ぎゃあ!」
深道は叫び声をあげて再び転がり、そして、間一髪で拾われることの無かった獣の足は、地面すれすれでもあるが、綿毛のようにふわふわと風に舞って車の下に潜り込んでしまった。
「ちくしょおおおおおう!かえせえええええええ!」
四つん這いのまま雄たけびを上げた深道は、立ち上がる動作の流れで大きくスカートを捲り上げた。
綿レースで飾られたドロワースは、布地をパンパンにさせる程の深道の肉によって真っ白いとは言えない黄ばんだ色合いとなっていたが、それだけでなく、何日も洗っていないようなあからさまな汚れも見えた。
だが、深道のドロワースが汚い事実は、梨々子にはどうでも良かった。
彼女の太ももには、凶悪な武器と言えるものがリボンの様なもので縛り付けてあったのである。
深道の腿でバッグにぶら下げているぬいぐるみのようにして揺れているが、それは人を殺せる凶器以外の何物でも無い事を物語っていた。
木製のボウリングのピンでしかないが、有刺鉄線が幾重にも巻かれているという、白い所を探す方が難しいほどに赤さび色に染まった醜悪なものであるのだ。
深道のドロワースにある赤茶けた汚れはその凶器によるものであり、その凶器は深道の太ももでさえ傷つけていた。
「あんなものを!あんなものが足に刺さっても、どうして彼女は平気なの?」
梨々子が怖れ慄く中で、深道はその凶器の紐を自分の太ももから解くと、その凶器を手に握った。
「お前ら全員死刑にしてやる。この世を汚す嘘吐きな罪悪人どもめ!」
深道は本気で自分達を殺すつもりだ!
梨々子は久美の体をぎゅうっと抱きしめた。
梨々子の目は深道の握る凶器から離せない。
それが既に何人かを傷つけてきたことは確実で、深道はそれを他者に振り下ろす事に躊躇などしないだろうと梨々子の眼にさえ映ったのは、その忌まわしい物体には人毛や皮膚の一部らしきものまでも貼り付いているからだ。
深道はその武器を利き腕である左手に持ち帰ると、大きくそれを振り回しながら梨々子達の乗る車へと一歩踏み出した。
「なあに、あれは。」
後部ドアの窓から矢那が外を伺っていたのだ。
「矢那ちゃん!窓から離れて。」
「車は強化ガラスでしょう。」
「いいから窓から離れて!強化ガラスだからこそ尖った物で粉々になるの!」
梨々子の必死な叫び声に矢那が窓から離れた一瞬、深道による衝撃が車を襲い、梨々子の言葉通りに車の窓ガラスは一瞬で粉々になって矢那に降りかかった。
梨々子は敵の侵入を許すまいと、体を伸ばして運転席にある車内ロックを再びかけた。
「矢那ちゃん!こっちへ!」
「大丈夫よ。」
矢那は通路に伏せていた。
そして数秒しないで第二弾の攻撃、つまり、割れた窓から凶器が一直線に突き出された。
有刺鉄線つきのボウリングピンはかすっただけで大怪我をしそうな代物であり、その攻撃力を知っている深道は、窓から腕を大きく突き出して車内にいる者へダメージを与えるべく動き始めたのである。
しかし深道こそ、彼女の目的を果たす前に完全に粉砕された。
ごきゅ。
「うぎいゃああああ。」
車外で起きたケダモノの様な悲鳴。
深道の左腕は、下から蹴り上げられた足によって、車の天井に叩きつけられ、おかしな形に歪んでいる。
「矢那。大丈夫か。お前のお陰で人心地が付いたよ。」
暴漢の手首を椅子に座った状態で蹴りつけたのは水野であり、彼女は矢那に親指を立てると片手に持つスポーツドリンクを再び飲み始めた。
「あぁ、おいしい。生き返るわー。」
水野が足を降ろせば、無残に折られておかしな形に歪んだ腕から、凶器が車内へごとりと転がり落ちた。
落ちた凶器は小さな手に掴み上げられ、そして、その小さな手を持つ腕は、掴んでいるその凶器を突き出すようにして、深道の折れた腕に打ち立てた。
「あぁぁっぁあああああ。ちくしょうううう!」
深道は大声を上げなら大きく仰向けに転がった。
しかし、彼女は大きくふくよかな体からは想像できない機敏さで起き上がると、殆ど四つん這いの格好で車に飛び掛かったのである。
どおん。
どおん。
矢那は車の揺れを受けてよろけ、その体は水野と後部座席から伸びた佐藤の手によって支えられた。
「大丈夫かな?あれの手が届かない奥にいな。まぁ、窓からこっちに入れそうもないし、カバじゃない限り車は倒せないから放っておけばいいよ。」
佐藤は矢那に軽くウィンクしてから矢那から手を離し、再びスポーツドリンクのストローを口に含むと後部座席に座り直した。
「そうそう。顔を出して来たらあたしが追い払ってやるよ。矢那はもう頑張らなくていいよ。あんたのお陰であたしらは生き返ったからね。」
水野は矢那ににかっと笑顔を見せた。
梨々子は矢那が心配で後部座席を見守っていたが、水野と佐藤の声掛けによって矢那がほっとした笑顔を見せたことにホッとした。
また、今でも車ががたがたと揺れているが、自分が姉と慕った二人が平気というのならば大丈夫だろうと久美を抱きしめる事に集中することにした。
何しろ、梨々子は久美にプロポーズの言葉を返していないのである。




