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彼は少女の幸せだけを望む男?

 稲生の鼻をぎゅうと摘まんで紙パックを口中に押し込んだばかりの矢那は、通路の初瀬が意識を取り戻して自分で紙パックのドリンクが飲める状態であることに落ち着いたのか、ようやくくるっと梨々子に振り返った。

 また矢那は振り返るや肩を竦めて見せたのだが、その素振りは子供の失敗を見つけた母親のようにしか梨々子には見えなかった。


 ほんとうに困ったお兄様、梨々子はそんな矢那の声が聞こえた気がした。


「あの、矢那、ちゃん?」


「傷を他に移すという禁呪のことですわ。海里の怪我もそれで治ったでしょう。兄はあなたの怪我を自分に移したの。」


「クミちゃん!そんな!」


 梨々子の腕の中で久美の体は大きく震え、しかし、それは痛みに震えたのではなく、久美が吹き出して笑ったからだと知って梨々子はほっとした。

 そして彼は梨々子の腕から顔を上げると、梨々子ではなく矢那を見つめ返した。

 それから梨々子が自分に向けて欲しいと思った程の甘い笑みを、梨々子が愛してやまないその顔に浮かべたのである。


 痛みに耐えての脂汗が顔じゅうに浮いている中での微笑だが、その苦難に耐えながらというシチェーションが尚更に梨々子の心を揺さぶっていた。


「――矢那、たら。」


 久美の声は息を吐き出すだけのようだが、確実に笑い声と言えるものである。

 梨々子はその声も笑顔も自分に欲しいと願い、すると久美は梨々子の腕の中で再び身じろいだのである。


「クミちゃん?」


 久美は梨々子に顔を向けたが、彼が顔に浮かべている表情は、梨々子の心を読んだかのような梨々子が望んだ笑顔だった。


「クミちゃん、たら。体が痛いのにそんなに素敵に笑ってどうするの。」


 愛する人が苦しんでいるというのだから、心配したり自分を責めるべきであるのに、梨々子はなぜか幸福しか感じず、自然と顔は微笑みになっていた。


「はは、い、いいんだれ。俺は、り、梨々子が笑ってくれればそれでいい。お、俺は、……お前が、……辛いのが、い、一番、つらい。」


 梨々子は久美に屈するしかなかった。

 彼女が久美を好きなのは、彼だけが彼女の存在を認めているからなのだ、と。

 彼の「辛い」という告白が梨々子には「愛している」よりも重大で、彼女が一番聞きたかった言葉であるのだと自分に認めるしか無いのである。


「あぁ、あぁ、クミちゃんごめんなさい!愛しているの!でも、こんな私じゃ絶対に飽きられる。だから、だから、わ、私は、あぁ、ごめんなさい、臆病者でごめんなさい。」


「じゃ、あ、お、俺と結婚してくれるか?」


 梨々子は勿論だと久美に言いかけ、車が大きく揺れる程の絶叫が車外で起きた事で一言も言えなくなった。


「ちくしょう!裏切り者おおおおお!」


 がしゃん。


 矢那は開いていた後部ドアを思いっきり閉め、しかし、その矢那の動きに逆上した闖入者は矢那が閉めたドアを目掛けて体当たりをしたようであった。


 どおん。


 大型車は大きく揺れ、矢那は小さな体をよろめかせた。


「矢那ちゃん。大丈夫!」


「大丈夫ですわ。普通の女性の力で車を破壊など出来ませんもの。」


 それもそうだと窓から車外を伺えば、窓の外にいる深道が斜め掛けにしているポシェットから梨々子を異世界に送った時に振りかざしたもの、生き物の小さな足を取り出して呪文を唱え始めたのである。


「ププルプププニカ、ププルプププニカ、ププルプププニカ!」


「だめ!深道の呪文を止めな――。」


「われは求め訴える。炎に棲まい炎を使うもの。サラマンダーの王よ。邪悪なる者の持つ穢れを打ち払い給え。」


 静かな低い女性の声が車内に響き、その病衣姿の女は左腕にミイラを抱きしめながら姿で、右手を深道の方向へと翳していた。


「すべて、燃えろ。」

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