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捕らわれの梨々子

 梨々子は玄人と一緒に現れた久美から逃げて部屋に駆け込んだはずである。

 久美がドアの向こうから誘惑の囁きを始め、梨々子は両耳を塞いでドアの前でしゃがみ込んでいたはずなのだ。

 自分自身がわからないのに、どうして決断が出来るのだろうかと、彼女をせっつく全てに対して彼女は叫ぶしかなかった。


「お願い、放って置いて。お願いだから、少しだけでも私を放って置いて。」


 叫んだからか貧血を起こして梨々子はぱたりと前のめりに倒れ、次に目を開けたら、なぜか彼女は納屋の床にうつぶせで転がっていた。

 何が起こったのか驚きながら取りあえず頭を起こすと、目の前には白に近いピンク色のドレスを着た大学の知り合いが、梨々子の頭のすぐそばに立っていたのである。


 一目でわかる憎しみを両目に滾らせて彼女は梨々子を見下ろしており、梨々子はどうしてなのかと取りあえず起き上がって問い質そうと両腕に力を籠めた。


「痛い!」


 両腕にかなりの激痛が走り、どうして腕が痛むのかと見ると、彼女の両腕は両方とも肘から上が歪んでおり、腕が折れているのだと理解するしかなかった。

 また、彼女が転がる床には赤い線が幾線も描かれていたが、それは少女が暇さえあれば編んでいたドリームキャッチャーの網目と同じものだ。

 余計なものを引っかけて幸運をもたらすというおまじない。


「違う!違う!赤ちゃんは余計なものじゃない!深道さん、やめて!」


 叫びながら梨々子は怖かっただけなのだと自分を認めた。

 体が変わっていく恐怖と、母親になる恐怖、そして何よりも自分自身が変わらなければいけないという恐怖だ。


「この、嘘つき野郎!」


 ダン!


「きゃあああ!」


 深道に踏みつけられて左手の甲に激痛が走った。

 しかし、なぜか梨々子には深道への恐怖はあっても憎しみは湧かず、それは少女が梨々子よりも二十センチは確実に背が低いからではなく、少女の両眼に宿る憎しみの炎が親友だった海里の事を思い出させたからである。


 久美と迎えた初めての朝、久美が梨々子の寝室を出てすぐに顔を真っ赤にした海里が部屋に飛び込んで来たのだ。

 驚く梨々子が海里に声をかける間もなく、彼女は梨々子に掴みかかったのである。


「吾輩と友達になりたいなんて、嘘つき!信じていたのに!嘘つきは今すぐに我が艦から出て行くのだ!」


 梨々子はあれは由貴ではなく久美だと海里に言い返そうとして、海里が次に叫んだ言葉ですぐに荷物を纏めて帰国をすることを決めるしかなかった。


「兄者も吾輩のものだ!吾輩から世界を奪わないで!」


 海里も梨々子と同じ、閉じられた世界の住人だった。

 今や傷が一つも無いが、彼女は十四の時に誘拐され拷問された過去を持つ。

 世界に脅える海里を守っていたのは由貴と久美であり、梨々子の行為は親友の世界を壊したという裏切りそのものの行為でしかないのだ。


 そこまで思い出して、梨々子は深道に何かをした覚えが何もないという事に気が付いた。

 深道は一方的に梨々子に纏わりついて来ただけの人間である。


「あたしを騙して楽しかったか!」


 深道は梨々子にそう叫んでいる。


「私に何を騙されたというの?」


「ふざけるな!お前はあたしを攻撃したんだ。」


 深道は斜め掛けにしていた小さなポシェットに片手を入れて弄ると、そこから臭気を放つ物を取り出した。

 猫でも犬の物でもない小さいものだが鼠ではなさそうな獣の足は、切り取られたばかりなのかびくびくと痙攣しているのである。


「あなたが切り取ったの?なんて酷いことを。」


「煩い!黙れ。これは聖なる使い魔の足だ。あたしを非難するだけのお前なんかいらない。お前なんか、この世から消えてなくなれ!ププルプププニカ、召喚します、あたしの使い魔、白き正義の使者、ププルプププニカ、さぁ、出でよ!」


「攻撃って、え?何?」


 ごぼり、と梨々子はねっとりとしたスライムのような空気に包まれ、一体何があったのか理解することも無く意識を失った。

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