近づいていく
地下水路から地上へと戻る石造りの階段は、異様なほど静まり返っていた。コツコツと、全員の足音だけが薄暗い空間に反響している。
誰も無駄口を叩こうとはしなかった。
先ほどまでの闘いの余韻。黒結晶の暴走。そして、それに対するレーヴのあまりにも異常なまでの対応能力。
言語化されない様々な疑念や衝撃が、重苦しい澱のように隊列のそこかしこへ沈殿していた。
先頭を行くルーファスは終始無言だった。その背中からは、深く自身の思考へ沈んでいるような、近寄りがたい気配が強く漂っている。
ユリウスもまた、厳しい表情を崩さないまま周囲への警戒を怠らなかった。そんな緊迫した歩みの中で。
「お嬢様」
隣から、低く抑えられた声が落ちてきた。リオネルだった。
「少し前へ」
「……?」
「レーヴから距離を」
完全に感情を削ぎ落とした声音。だがミレアナは、その指示に対して僅かに眉を寄せた。
「何故?」
「先ほど奴は侵食接触しています。暴走の可能性があります」
リオネルの横顔はいつも通り鉄の仮面のように無表情だ。けれどその視線だけは平時よりも遥かに鋭く、一点を射抜いていた。
その視線の先にいるのは、後ろを歩くレーヴだ。
「うわ、信用ないなぁ」
張り詰めた空気を割って、背後から飄々とした軽い声が飛んできた。
「傷付くなぁ、リオネルくん」
「傷付く心があるのか」
「あるある。見かけによらず繊細だよ俺」
レーヴはへらりといつも通りに笑ってみせる。だが、その声の輪郭に僅かな掠れが混じっていることにミレアナは気づいてしまった。
「……レーヴ」
堪らず呼びかけると、彼はひらひらと軽薄に片手を上げてみせる。
「ほんと大丈夫だって。ちょっと疲れただけ」
「ちょっと、には見えないわ」
「え、もしかして心配してくれてる?」
途端に弾むような声色に切り替わる。
「やば。嬉し」
「茶化さないで」
「茶化してないんだけどなぁ」
くつくつと笑う。それはいつも通りの彼の調子だった。
けれど、一段ずつ階段を上がる彼の足取りがほんの少しだけ重い。踏み締める音が僅かに引き摺るように遅れている。
ミレアナの瞳は、その決定的な違和感を見逃さなかった。
(……無理をしている)
その確信が胸へすとんと落ちた、まさにその瞬間だった。不意に、視界の中でレーヴの身体がぐらりと大きく揺れた。
「っ」
ミレアナは反射的に腕を伸ばした。支えようと、身体が先に動いた。
だが彼女の手が届くよりも前に狭い階段にガン、と鈍い衝撃音が響いた。
レーヴ自身が荒々しく壁へ手を突き、無理やりその場に体勢を立て直したのだ。
「レーヴ!」
「……はは」
はらりと額に落ちた前髪の隙間から、自嘲気味な苦笑が漏れる。
「ちょーっと……キツかったかも」
どこまでも軽く言う。軽く言っているのに、冷たい石壁へついた彼の指先は細かく微かに震えていた。
一瞬にして、周囲の空気が変わる。
ユリウスが険しい顔でピタリと足を止め、背後の騎士たちも何事かと警戒したようにレーヴへと視線を向けた。リオネルにいたっては即座にミレアナの前に立ち、彼女を庇う位置へと身を翻す。
その破裂しそうなほどの緊張を、静かに断ち切る声があった。
「警戒する必要はありません」
階段の上からルーファスが静かに口を開いた。
全員の視線が彼へと集まる。ルーファスは階段の下のレーヴを一瞥すると、感情を挟まずに淡々と続けた。
「ただの負荷症状です」
「……断言できるのですか?」
ユリウスがなおも不審そうに、声を低くして問う。対するルーファスは至って冷静だった。
「彼の特異体質から考えると、この侵食に関しては跡も含め自然治癒するでしょう。……私の見立てが正しければ、ですが」
「へぇ。助かった」
レーヴが壁にもたれかかり、体重を預けたまま白い歯を見せて笑う。するとルーファスは、眼鏡の奥のわずかに目を細めた。
「ただし」
冷ややかな、静かな声音。
「今日は絶対安静を推奨します」
「うわ、真面目」
「貴方が異常なんです」
「それ褒めてる?」
「いいえ」
二人のいつも通りの機械的なやり取りに、張り詰めていた周囲の空気が僅かに緩む。だが、ミレアナだけはその光景に激しい違和感を覚えていた。
(ルーファスが……踏み込まなかった?)
異常な侵食耐性、あまりにも迅速な適応。そして、先ほどの黒結晶の核を見抜いたかのような不自然なまでの対処法。
本来のルーファスという男なら、その知的好奇心と危機管理能力からもっと徹底的に彼を追及し、暴こうとするはずだ。彼は自身の知的好奇心を優先する人間だから。
それなのに今の彼は、明らかに意図的に思考を止め、追及を終わらせた。まるで、これ以上は触れるべきではない領域だと判断したみたいに。
(……一体、何に気づいて何を隠したの?)
そこまで考えを巡らせかけた、その時。
「ミレアナ」
不意にすぐ近くで名前を呼ばれ、彼女の思考はぷつりと途切れた。
弾かれたように顔を上げる。そこには、いつの間にかすぐ傍で見つめていたレーヴの姿があった。
「そんな怖い顔しないでよ」
「……してないわ」
「してるしてる」
彼は喉を鳴らして笑う。その笑みは、いつもよりずっと痛々しいほどにくたびれていた。
「俺、ちゃんと生きてるから」
――その言葉が耳に届いた瞬間。
ミレアナの胸の奥が、これまでにないほど妙に強く、激しくざわついた。
何故だろう。ただの軽口のはずなのに。
生き残ることそのものが、この男にとっては何か果てしなく特別な意味を持っているみたいに聞こえてしまったから。
ミレアナは彼の乾いた瞳を見つめたまま、言葉を失うことしかできなかった。




