踏み込まない選択
氷のように張り詰めた沈黙が、重苦しく地下水路を満たしていた。ぱらりと微かな音を立てて、砕け散った黒結晶の欠片が足元へ転がり落ちる。周囲のすべてが静まり返っているせいでその乾いた音だけがやけに大きく、不気味に響き渡った。
そんな緊迫した空気の真ん中で、レーヴは相変わらず笑っていた。軽く、いつもと何も変わらない薄い笑み。
けれど彼が纏う空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。どこか一線を引いたような、底の知れなさがその笑顔の裏に潜んでいる。
ルーファスはしばらくの間、無言のままレーヴの腕を凝視していた。乱暴に下ろされかけた袖口の隙間から、今も覗いている黒い侵食痕。その禍々しい紋様を見つめる彼の目は、鋭く何かを分析しているようだった。
これほどの魔力暴走に直撃したのだ。普通ならもっと劇的な侵食反応が身体を蝕んでいてもおかしくはない。
「本当に侵食が……浅いのか?」
ユリウスが怪訝そうに、声を低くして呟いた。
「いえ」
ルーファスは感情の起伏を削ぎ落とした声で、静かにそれを否定する。
「浅いわけではない」
その一言が落とされた瞬間、周囲の空気が僅かに強張った。
浅いのではなく何かがおかしい。言葉にされない疑念が膨らんでいく。
にも関わらず、渦中のレーヴ本人はどこまでも平然とした様子だった。
「あー、大丈夫大丈夫」
へらりと緊張感のない笑みを浮かべながら、彼は今度こそ乱暴に袖を引き下ろし、黒い痕を視界から隠してしまう。
「こんなん、ちょっとした掠り傷みたいなもんだし」
「普通はその“掠り傷”ひとつで、例外なく隔離対象になります」
ルーファスからぴしゃりと容赦のない現実を突きつけられても、レーヴは「こわ」とおどけたように肩を竦めるだけだった。
だが、いつもなら理詰めで追及するはずのルーファスはそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。ただじっと静かに、深淵を覗き込むような目でレーヴを見つめている。
「……しかし、なるほど」
ぽつりと、誰に聞かせるでもない独白がルーファスの唇から漏れた。その瞬間だけレーヴの完璧だった笑みが、ほんの僅かに凍りついたように止まる。
「何その顔」
「別に」
淡々と返したルーファスは、それ以上の追及をあっさりと放棄した。代わりに静かに踵を返し、油断なく周囲の状況へ視線を巡らせる。
「これ以上の探索の中止を提案します」
「……理由は?」
ユリウスが厳しい声で問いかける。ルーファスは一拍の重い間を置いてから、レーヴを見ながら含みを持たせるように言葉を続けた。
「――不用意に踏み込むべきではない話もある」
その声音は低く、妙に重苦しかった。ユリウスが不審そうに眉を寄せる。ミレアナもまた、弾かれたように僅かに視線を上げた。
ルーファスが何かを知った。あるいは、明確な何かに気づいた。
だがルーファスは、それ以上何も語ろうとはしなかった。
「へぇ」
奇妙な沈黙を破ったのはレーヴだった。
「アンタ、本当に怖い人だね」
からかうような、笑いながらの言葉。けれどミレアナの瞳に映る彼の目は、少しも笑っていなかった。
ルーファスもまた視線を逸らさない。真っ向からその視線を受け止め、淡々と返す。
「褒め言葉として受け取っておきます」
ぴり、と空間そのものが軋むような錯覚を覚えた。互いに腹の底を探り合い見えない刃を突きつけ合っているかのような、妙な緊張感。ミレアナは胸の圧迫感に、無意識のうちに息を呑んでいた。
(……何?)
何かがおかしい。
けれど、その正体が何なのかまでは分からない。ただ一つ理解できるのは、今この場で交わされている目線や言葉が自分の到底知らない領域の会話だということだけだった。
その時だった。
「うわ、危な」
間の抜けた軽い声と共に、レーヴの身体が僅かによろめいた。
「!」
ミレアナは息を止めて目を見開く。
レーヴはすぐに近くの石壁へと手をつき、体重を預けた。そして、何事もなかったかのようにまた笑う。
「やだな、そんな顔しないでよ」
「……顔色が悪いわ」
「地下だからじゃない? 日当たり悪いし」
相変わらずの軽口。けれど壁を捉える指先は僅かに震え、その呼吸は隠しきれないほど浅くなっていた。
ミレアナは痛むように眉を寄せた。
先ほどの、自らの身を省みない無茶な突撃。そして、黒結晶による侵食接触。
いくら彼に異常な耐性があろうとも、身体への負荷がないはずがないのだ。それなのに彼は、必死にいつも通りの自分を演じ、振る舞おうとしている。
「帰還しましょう」
ルーファスがすべてを遮るように、静かに告げた。
「術式反応も一時的に沈静化しています。これ以上の深追いは危険です」
「同意します」
リオネルも深く頷いた。
騎士たちは度重なる魔力干渉で明らかに疲弊している。ここで無理を押すべきではないのは明白だった。
反転の号令がかかり隊列がゆっくりと動き始める。背を向けて歩き出す人々の中で、ミレアナだけがじっとレーヴの背中を見つめていた。
『俺、ほんとにああいうの無理だから』
先ほど彼が漏らした、あの低く掠れた声が頭から離れない。
彼は確かに怒っていた。けれどそれ以上にあの声は、何かを激しく怯えているようにも聞こえた。
(……どうして、そんな目で笑うの)
問いかけが喉元まで込み上げ、熱く胸を焦がす。だが結局ミレアナは何も聞くことができなかった。
彼が必死に笑いながら隠しているその境界線の向こうへは、まだ踏み込んでんではいけない気がしたからだ。
だから彼女は溢れそうになる疑問をすべて飲み込み、代わりに静かに口を開いた。
「……歩ける?」
その問いに、レーヴは一瞬だけ意外そうに目を丸くした。それから、張り詰めていた肩の力をふっと抜いたように柔らかく笑う。
「ん。大丈夫」
いつものおどけた調子ではない、穏やかな声音だった。
「ちゃんと帰るよ」
真っ直ぐに向けられたその言葉に、何故だかミレアナの胸は小さく、優しくざわついていた。




