踏み込みかけた境界線
東側水路へ向かう地下通路は、肌にまとわりつくような重苦しい空気に満ちていた。
湿った石壁のあちこちには、応急封印のための術式紙が貼り付けられている。そこに描かれた紋様から淡い青白い光がドクドクと脈打つたび、不穏な魔力振動が地下水路全体へと波紋のように広がっていった。
「反応周期が昨夜より短くなっている」
薄暗い通路を歩きながら、ルーファスが冷静に告げた。いつもならどこか皮肉を交える彼の口調は、今回に限っては以前よりも明らかに抑えられている。それだけ事態が緊迫している証拠だった。
「術式核を破壊したにも関わらず、残滓が自律再構成を始めている。通常の侵食現象ではあり得ない」
「つまり?」
隣を歩くユリウスが、険しい表情で眉を寄せたルーファスは前を見据えたまま、淡々と最悪の予測を口にする。
「誰かが、遠隔から再起動を試みている可能性がある」
その言葉が投げ落とされた瞬間、張り詰めた沈黙が一同の間に広がった。ミレアナは小さく視線を落とし、暗がりの中で静かに思考を巡らせる。
(――遠隔制御。つまり、この侵食はまだ終わっていない。黒き紋章は単独ではなかった可能性が高い……)
「複数核型……」
無意識のうちに唇から零れ落ちていた呟きに、すぐ前を行くルーファスがわずかに視線を向けた。
「私も同意見ですね」
相変わらず淡々とした返答だったが、その声には確かな警戒が滲んでいる。
「昨夜の崩壊反応が早すぎる。術式構造が一本では説明できない」
「じゃあ、他にも“核”があるってこと?」
後ろからレーヴがひょうひょうとした声で割り込んできた。だがその言葉の軽さに反して、彼の目だけは一切笑っていなかった。
「可能性は高いでしょう」
ルーファスの肯定にレーヴは小さく息を吐き出す。
「最悪だねぇ」
そう言って笑う彼の声は妙に薄く、どこか浮ついて聞こえた。
胸を突く違和感に、ミレアナは隣を歩く彼の横顔をちらりと盗み見る。レーヴはまっすぐ前を向いたままだったが、無意識の動作のように指先で腰の剣の柄をトントンと規則正しく叩いていた。
(……癖だ)
彼が激しく緊張している時の、特有の動作。いつの間にかそんな彼の僅かな変化が分かるようになってきている自分自身に気づき、ミレアナは胸の奥で小さく戸惑いを覚えた。
「……お嬢様」
背後から低い声が響いた。リオネルだ。
「少し下がってください」
「何故?」
「前方、妙です」
リオネルの言葉が終わるか終わらないかのその瞬間。空気が一変し、レーヴの纏う雰囲気もガラリと変わった。
「止まって」
いつもの軽い口調。だが、そこには絶対に有無を言わせない鋭い声音が混じっていた。
弾かれたように、全員の足がピタリと止まる。冷たい地下水路に、肌を刺すような静寂が満ちた。次の瞬間――。
ズォッ――!!
前方の通路の床が生き物のように黒く脈打った。
「っ!」
直後、周囲の壁面から黒結晶が一斉に牙を剥くように突出する。凄まじい密度の魔力暴走。しかも─ ――。
「近い!」
ユリウスが鋭く叫び、即座に剣を抜く。だが意思を持つかのように蠢く黒結晶は、猛烈な勢いで通路全体を文字通り封鎖し始めていた。
「後退――」
防衛線を下げるべくルーファスが言いかけた瞬間、それを遮る声が響いた。
「駄目だ!」
レーヴが鋭く叫ぶ。
「下がるな! 今共鳴してる!」
その言葉と同時に、黒結晶が激しく明滅を繰り返した。鼓膜を直接突き刺すような、耳鳴りにも似た高周波が通路に鳴り響く。あまりの衝撃に、前線に立つ魔術師たちが苦悶に顔を歪めた。
「ぐっ……!」
「魔力干渉……!」
「耳を塞いでも意味ない! 術式波だ!」
空間そのものが軋みを上げて悲鳴を上げている。その地獄のような光景の中で、レーヴだけが異様なほど冷静な目をしていた。
「右側第三支柱! あそこ切れば流れ止まる!」
「何故分かる!」
ユリウスが怒鳴るように叫ぶ。
「説明は後!」
言うが早いか、レーヴは爆発的な勢いで地面を蹴った。――速い。その動きには一切の迷いも躊躇いもなかった。彼は一直線に黒結晶の群れへと飛び込み、その手から鋭い剣閃が放たれる。
ギィン!!
鼓膜を震わせる硬質な金属音が響き渡る。同時に刺激された黒結晶がさらに激しく蠢き、侵入者を排除しようと殺到した。
「レーヴ!」
ミレアナの口から悲鳴に近い声が飛び出す。だが彼は止まらない。凄まじい剣圧だけで押し寄せる結晶を強引に弾き飛ばし、最短距離で目的の支柱へと踏み込んだ。しかしその瞬間、死角から伸びた黒結晶が 容赦なく彼の腕へと絡みついた。
「っ……!」
周囲の空気が凍りつく。侵食――あの忌まわしき嫌な黒が衣服を破り、彼の皮膚を容赦なく這い上がっていくのが見えた。
「レーヴ!!」
ミレアナは反射的に駆け出していた。危ない、助けなければ。考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。
「ミレアナ様!」
背後からのリオネルの切迫した制止の声すら、今の彼女の耳には届かない。ミレアナは走り込みながら腰の短剣を抜き、黒結晶の渦の中へと迷わず飛び込んだ。
「待っ――」
目の前に現れたミレアナの姿に、レーヴが驚愕に目を見開く。次の瞬間ミレアナは目に焼き付けた結晶の接続部へと、渾身の力で刃を突き立てた。狙い過たず捉えた、同期点破壊。奔流のようだった黒結晶の流れが、一瞬だけピタリと止まった。
「今よ!」
ミレアナの叫びと同時に、レーヴの剣が完璧な軌道で振り下ろされた。凄まじい轟音が狭い通路に反響し、黒結晶の根元であった第三支柱が粉々に砕け散る。それと同時に通路全体を支配していた不快な共鳴が、ガラスが割れるように一気に崩壊した。黒結晶たちはまるで悲鳴のような音を立てながら、次々と力を失って崩れ落ちていく。
あとには、ただ静寂だけが残された。ぱらぱらと乾いた音を立てて黒い破片だけが地面に落ちていく。
「はぁ……っ、はぁ……」
肩で荒い息を吐きながら、ミレアナが顔を上げたその瞬間。ぐい、と強い力で腕を引かれた。
「――何してんの」
鼓膜を揺らしたのは、驚くほど低い声だった。見上げれば、目の前にレーヴが立っている。先ほどまでの彼とは纏う空気が完全に違っていた。笑ってなどいない。
掴まれた手首が少し痛むほど、その握力は強かった。
「侵食接触する可能性あったんだけど」
「でも、貴方が――」
「俺はいい」
被せるような即答だった。
「良くないわ」
「良いんだよ」
ぴしゃりと冷徹に言い切られる。その瞬間、二人の間の空気が張り詰めた。レーヴは激しい呼吸を無理やり押し殺すようにして、じっとミレアナを見下ろしている。焦燥、怒り、そして――恐怖。あらゆる感情を無理やりその奥に押し込めたような、そんな目だった。
「……何で、アンタまで来るかな」
「合理的判断よ」
「その合理で自分死なせる気?」
「っ……」
あまりに鋭い動揺を突かれ、ミレアナは言葉を詰まらせた。するとレーヴは大きなため息とともにぐしゃりと自身の前髪を乱暴に掻き上げ、苦そうに歪んだ笑みを浮かべた。
「……ほんと、そういうとこ駄目」
掠れた声。それを受け止めたミレアナの胸が、僅かにざわついた。何故だろう。明らかに怒られているはずなのに、彼のその声音がどうしようもないほど苦しそうに聞こえてしまったのだ。
「レーヴ」
「俺、ほんとにああいうの無理だから」
「……え?」
「自分を捨てるみたいに動くの」
一瞬だけ、彼の顔からすべての笑みが消え失せた。地下水路の冷気よりもなお冷たい、ぽっかりと穴の空いたような空っぽな目。
――それは、かつて大切な誰かを失ったことのある者の目だった。だが次の瞬間には、まるで仮面を付け替えるようにいつもの軽薄な調子が戻る。
「あーもう、寿命縮んだ」
わざとらしく両肩をがっくりと落としてみせる。
「ほんと勘弁してよねぇ」
「……」
ミレアナは何も言えなかった。今、ほんの一瞬だけ見えてしまった。彼の心の奥底にある、決して他人に触れられたくないはずの深い傷の一端を。
重苦しい沈黙の中、後ろから足音が近づいた。
「……その腕」
ルーファスが静かに口を開く。その視線の先――レーヴの腕には、先ほど結晶に巻かれた際の侵食痕が痛々しくも薄黒く残っていた。周囲の空気がまた張り詰める。だがレーヴ本人はまるで気にした様子もなく、あっけらかんと袖を引っ張ってそれを隠した。
「大丈夫だって。浅いし」
「普通なら即隔離対象です」
ルーファスの声音は徹底して冷静だったが、その眼鏡の奥の目は射抜くように鋭かった。
「侵食耐性が高すぎる」
「へぇ、褒められた?」
「……」
ルーファスは応えず、冷徹な沈黙が流れる。そして彼は一歩踏み出し、静かに、だが重く問いかけた。
「貴方、本当に何者なんですか」
ピタリと水路の空気そのものが停止した。ミレアナの心臓がドクンと小さく跳ねる。だがレーヴは数秒の沈黙の後、何事もなかったかのようにふっと笑ってみせた。
「ただの冒険者だって」
いつもと変わらない軽薄で、どこかおどけた声音。それなのに――その場にいる誰一人として、今の言葉を信じてはいなかった。




