誤魔化せない鼓動
今回から少し書き方を変えています。
追及するよりも先に、また胸の奥が制御不能な音を立て始めた。耳の奥でうるさく主張する心臓の鼓動をどうにか誤魔化すように、ミレアナは再び窓の外の夜景へと視線を投げる。
夜の帳が降りたボーデンの街は、まだ完全には眠っていなかった。
大通り沿いの酒場から漏れる琥珀色の灯り。遠くの路地から風に乗って聞こえてくる、男たちの粗野な笑い声。街を囲む外壁の見張り塔で、静かに揺らめく篝火。
王都とは、あまりにも違いすぎる景色だった。
あそこにあったような洗練された美しさも、厳格に統制された秩序もここにはない。けれどこの泥臭い街には、どこか人間が確かに生きているのだという、剥き出しの生命の温度があった。
「……怒った?」
隣でじっとこちらの様子を伺っていたレーヴが、不意に悪戯っぽく顔を覗き込んできた。
「怒ってなどいないわ」
「じゃあ、照れてる?」
「違います」
「うわ、即答だ」
ミレアナが表情を取り繕ってぴしゃりと言い切ると、レーヴは満足そうに両肩を震わせて笑った。
「でもさぁ。顔、めちゃくちゃ赤いよ?」
「……夜風が少し冷たいせいよ。急に体温が下がっただけだわ」
「へぇ、便利だなぁ、夜風って」
「……」
ひどく腹立たしい。この男は、自分がこれまでの人生で完璧に築き上げてきた平穏と調子をいとも簡単に狂わせてしまう。
ミレアナは小さく眉を寄せ深く息を吸い込んで、どうにか乱れた呼吸と脈拍を整えようとした。
だが。不意にそれまで響いていたレーヴの軽薄な笑い声が止んだ。
「……でもさ」
低い落ち着いた声だった。先ほどまでの、お調子者の軽さはどこにも混ざっていない。ミレアナが思わず視線を戻す。
レーヴは古い木製の窓枠に背中を預け腕を組んだまま、静かに街の夜景を眺めていた。その横顔には、月光に照らされてどこか陰影が深く刻まれている。
「アンタさ、今日ずっと無駄に頑張ってたじゃん」
「……何を頑張っていたというの。私は別に――」
「平気なフリだよ」
ミレアナの指先が僅かに強張った。
「私はそんなつもりは……」
「あるよ。大あり」
優しく、けれど拒絶を許さない確かな強さで遮られる。
「周りの連中に余計な気ぃ使わせないように振る舞ってさ。自分は何も気にしてません傷ついてませんって顔して、全部一人で飲み込もうとする」
瞳がゆっくりとミレアナの正面へ向けられる。
「そういう『痛みを隠す術』にさ……アンタ、無駄に慣れすぎてるんだよ」
それは、彼女の嘘を責めるような声音では決してなかった。ただあまりにも正確に、彼女の本質を見抜いてしまっている声だった。
慣れている。その事実だけは、どうあがいても否定できなかった。
王宮では己の感情を表へ出すこと自体が敵に弱みを握らせる致命的な隙となった。
高潔なる公爵令嬢として。そして、王太子の婚約者として。
周囲からは常に正しく冷静で、一寸の破綻もなく在ることを当然のように求められ、教育されてきた。
だからどんなに理不尽な不快を覚えても、どんなに心が傷ついても、息苦しさに胸が潰れそうになっても。何事もないように平然と微笑んでいることが、いつの間にか彼女にとっての当たり前の「日常」になっていたのだ。
「……別に、何の問題もないわ」
ようやくの思いで、喉の奥からそれだけの言葉を絞り出して返す。すると。
「問題だからこうして強引に連れ出したんだけど」
レーヴが即座に呆れたように言い返した。
「……」
「アンタ、またあのままあの居心地悪い空間でやり過ごそうとしてたでしょ。目に見えてるわ」
「それの何が悪いのよ。大人の対応でしょう」
「悪いとは一言も言ってないよ」
レーヴはほんの少しだけ困ったように、眉を下げて優しく笑う。
「たださ……側で見てるこっちが、しんどいんだよ」
その瞬間ミレアナの思考が、呼吸が、完全に停止した。
王宮の人間にとって、ミレアナが完璧に耐え忍ぶことは“出来て当然”の前提条件だったからだ。
重圧に耐えることも、理不尽に微笑むことも、涙を喉の奥で飲み込むことも。誰もその過酷さに気づこうともせず、労いの言葉を掛けたりはしなかった。
「……貴方は変なところで、過保護ね」
胸を締め付けられるような感覚に耐えながら絞り出すように言うと、レーヴは「あはは」と声を上げて笑った。
「いやいや、リオネルに比べたら俺なんて可愛いもんでしょ」
「比較対象がおかしいのよ」
「確かにね」
いつもと変わらない他愛もない軽口の応酬。
そのはずなのに、どうしてだろう。胸の奥が焼けつくように妙に熱い。
ミレアナは自分の動揺を隠すように、またしてもそっぽを向いて視線を逸らした。
「……ねぇ」
不意にレーヴがぐっとその長い身を屈め、彼女の顔の高さに合わせてきた。あまりにも近くて、またしても心臓が大きく跳ね上がる。
「アンタさ、ほんっとうに自覚ないんだな」
「……何の話か、さっぱり分からないわ」
「そういう顔を見せられるから……こっちとしては放っとけなくなるんだけど」
耳元に届く至近距離で低く心地よい声音で囁かれ、ミレアナの思考回路が一瞬で消し飛んだ。
「っ……貴方、何を……」
「無防備すぎ」
「……私のどこがよ」
「今」
「意味が分からないわ!」
「その、分かってないって顔で俺を見上げてるところ」
駄目だ。完全にペースを握られている。会話がまるで成り立たない。この男は明らかにこちらの狼狽ぶりを見て楽しんでいる。
ミレアナはこれ以上の接触に耐えかね、逃げるように一歩後ろへ下がろうとして――背中が壁へと静かに当たった。
「あ」
レーヴが丸く目を瞬く。
これ以上の逃げ場が完全に亡くなったことに気付いた瞬間、ミレアナの顔に爆発的な熱が急激に上っていく。
「……っ、だから、距離が近すぎると――」
彼女が抗議の言葉をすべて言い切る前に、目の前にいるレーヴの表情がふっと変化した。
さっきまで面白がって笑っていた軽薄な空気が一瞬にして消え失せ、静まり返る。月光を宿した瞳がまるですべてを見透かすように、じっと深くミレアナの瞳を見つめていた。
どこか熱を孕んだ視線に喉の奥が完全に詰まり、息をすることすら忘れてしまう。
「……レーヴ?」
掠れた声でその名を呼ぶと彼ははっと我に返ったように、バツが悪そうに細い目をさらに細めた。
「……あー、やば」
「何が、やばいというのよ」
「いや、何でもない」
レーヴは片手で乱暴に己の顔を覆い、大きく深く溜息を吐き出した。
「これ以上アンタをからかうのは色んな意味で危険だわ。リオネルに刺されて殺されそうだし」
「……?」
またしても意味の分からない理屈だ。ミレアナが怪訝そうに眉を寄せるとレーヴはガシガシと銀髪を掻きむしりながら顔を上げ、いつもの軽薄な調子で笑ってみせた。
「ほら、そろそろ本当に送るから。大人しく部屋に戻ろ?」
まるで、先ほど一瞬だけ踊り場に流れた、 あの濃密で息の詰まるような空気を必死に誤魔化すかのように。彼は踵を返し、先頭を切って歩き出した。




